220 :SARU ◆CXfJNqat7g:2012/11/15(木) 13:03:46
英國による“紳士的”植民地経営を想像して書きました
本編後出しで矛盾が生じたら脳内補正して下さい

221 :SARU ◆CXfJNqat7g:2012/11/15(木) 13:11:53
分割して統治せよ

片側二車線取れるかどうかという道幅乍ら強固に舗装された軍用道路。
その一方から細々と延びる側道は樹々を抜けると、背の低く垢抜けない町並みを貫く大通りとなっていた。
大半は石畳すらない地面剥き出しの小路を往くのはこれまた時代錯誤な旧米開拓民と見紛う服装の人々。勿論、その肌は白い。
典型的な境南県(Dixie Parish)の光景である。

本線と同じ規格の道路が分岐したもう一方は、警告看板と鉄条網に囲まれた近代的だが殺風景な市街地に繋がっていた。
碁盤目の区画と鉄筋混擬土造の建造物、申し訳程度の街路樹。褐色の群れの中では迷彩服姿が目立っていた。
典型的な有色郡(Coloured County)の光景である。

事実上独力で枢軸諸国と対立しつつ欧洲聯合旧米派遣軍の一翼を担った英國。
自らも大西洋大津波の被害を受け乍ら、文物が半ば一掃されたカリブの島々に加え防疫線の南東──ミシシッピ川とテネシー川で
区切られたいわゆる深南部(Deep South)をもその勢力下に置いたその寝業師ぶりは、独逸第三帝國代総統をして『黒魔術』と驚嘆
させる物であった。

上陸の名目は言うまでもなくアメリカ風邪の拡散防止と現地住民の人道的援助。津波の被害に加え北方防疫線(ミシガン湖──
セントローレンス水系)死守の負担が大きいカナダ援助を優先せねばならない為に深南部へ派遣出来た兵力は小規模だったが、
人員不足を解消する当ては派兵前から既についていた。
ほぼ同時進行で実質的保護国としていたリベリア共和國が軍を“派遣”していたのだ。
しかしその大半は遙々アフリカの津波被災国から来た訳ではない。南阿(南アフリカ共和國)を初めとする英聯邦圏から
選抜された工作員が深南部で旧支配層と人種対立を始めていた黒人勢力と接触、一部にリベリア国籍を与え現地で
編入したのだ。この“リベリア軍”を構成するのは旧合衆國陸軍で下士官兵の経歴を持つ黒人兵で、元から人種別編成が
取られていた為に混乱は少なかった。
一方、英軍主導での集団疎開・移住を提示された白人住民は強い抵抗を示した物の、黒人暴徒や防疫線を越境する難民
という差し迫った脅威の前に深南部の各洲政府も追認せざるを得なかった。

列強諸国が政治の季節を迎える頃には英國の“鎮定域”は旧ジョージア・アラバマ・ミシシッピの三洲に旧ルイジアナ洲フロリダ郡部
(ミシシッピ川左岸)、旧テネシー洲南部(テネシー川以南)、旧フロリダ洲パンハンドル部(北西部)を加えた広大な物となっていた。
これらは基本的に白人社会ではある物の、防疫線を支援する“リベリア軍”駐屯地を中心とした有色人種居住地が幾つも取り囲む様に
配置されており、両者は行政単位から軍編成に至るまで全く異質な存在となっていた。
英國軍は封鎖・無人化された残存フロリダ半島の片隅を除けば騎兵(機械化)旅団が二つ三つ駐屯しているだけであり、それらは潜在的に
親枢軸勢力である旧米白人へ現地“リベリア軍”と共に睨みを効かせる為の配置だった。

かくして嘗ての植民地の残骸の上に英聯邦境南(ブリティッシュ・ディキシー・コモンウェルス)が誕生した。

英国よ統治せよ
主よ王(女王)に祝福を


追記:現在、ディキシー(Dixie)の訳語として用いられる境南は、語源の一つとされるメイソン─ディクソン線(Mason─Dixon Line)の南側に
位置している事に由来しているが、実際には抽象的概念としての“南部”を指している。

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最終更新:2012年11月18日 09:51