640 :名無しモドキ:2010/12/18(土) 21:10:27
 日本もイギリスとの関係修復を選択肢の一つとして持っておかなければならないでしょう。国民感情の面からは、お互いに(誤解であっても)信頼出来る連中であるという、プラスのイメージが涵養されている必要があるでしょう。それを後押しする戦間期のお話です。

定年退職後に高年齢者登山に凝った彼は病院で静かに息を引き取った。
「ああ死ぬんだ」と意識が遠ざかったと思うとまた視界が急に開けてきた。
どうやら山の中らしい。彼の意識とは別な記憶が見えてくる「俺は加藤文太
郎だ。」
 加藤文太郎は、史実では明治38年に兵庫県の浜坂に生まれ神戸の三菱内燃機製作所に勤めながら地下足袋とあり合わせの服装で日本アルプスの高峰を走破した日本登山界のパイオニアである。そして、当時は高級で案内人を雇うなど多額の費用がかかる登山を単独で行った冒険者でもある。
とするとここはどこの山?そうだ、ここは神戸の六甲山。
 加藤文太郎の伝説の一つに、日曜日の早朝、勤め先の寮を徒歩で出かけて六甲山の西から東へとおよそ60kmの山道を歩いて、日が暮れてから寮までさらに町中を歩いて帰ってきたという伝説がある。ゆうに一日100kmを歩いて月曜日には定時に出社したという。 日は西に傾いている。目的地の宝塚まではあと一息のようだ。身体は疲れているが、気力は充足している。
「どういうことかはわからんが、加藤文太郎の伝説をつぶすわけにはいかないか。」と山道を歩き始める。
 すっかり日が暮れて、六甲山系の東端に位置する宝塚に着くと休むことなく、六甲山系の西端にある会社の寮まで歩き出した。「これは聞きしにまさる体力だ。とすると後は気力か。」更に気力を振り絞って歩く。彼は疲労困
憊して寮に帰って来たときに、玄関にあるカレンダーを見て驚いた。「大正3年!そうすると1914年か。まてよ加藤文太郎が六甲山縦走をしたのは1923年か1924年ころだった筈だが。どうなってるんだ。」史実では四男の文太郎は、この世界では長男であった。

641 :名無しモドキ:2010/12/18(土) 21:13:50
 彼はその後も、加藤文太郎の足跡を汚すまいと数々の登山に挑戦した。
しかし、加藤文太郎の言葉にある「山で疲れたら寝るのがよい。人は死ぬ前には一度は目を覚ます。そして再び歩けばいい。」こればかりは、真似したくなかった。いや、出来なかったのと、今後、盛んになる大衆登山を安全で楽しいものにしたかった。「登山は楽しみでするもので命を賭けるものではない。安全は全てに優先する。」ことあるごとに彼は語った。
 そのおかげで、史実の加藤文太郎が31歳で猛吹雪の北アルプスに生涯を終えたに対して、彼は日本有数の登山家として活動を続けることができた。また勤務する三菱内燃機製は「登山部」を組織して彼をその長にした。話が上手すぎませんかと上司に尋ねると「坂本本家からの要望もあるようだから。」
との返事があった。

 そんな折りに持ち込まれたのが「エベレスト登山隊」への参加依頼である。
彼が知っている日本の歴史とは異なり、陸軍には明治時代から「山岳部隊」が組織されており、登山に対する理解も深まって、登山ははるかに盛んであった。また皇族を名誉会長に戴いた「日本登山協会」は大興安嶺やカムチャッカの山岳地帯に数々の登山隊を送っていた。
 その日本登山協会が世界の屋根であるヒマラヤに遠征隊を送り始めたのは1910年代に入ってからである。1923年には、人類で初めての8000m級の山岳であるカンチェンジュンガ登頂(史実では1978年にポーランド隊が初登頂)に成功する。当時、ネパールは鎖国していたために、この山はインドから登れる数少ない8000m級でもあった。ただ、後年この偉業は高く評価されるが当時は世界の最高峰である「エベレスト初登頂」に世界の関心が集まっていたため欧米では大きなニュースにはならなかった。

 「加藤さん、エベレスト登頂に日本も挑みたいと思います。幸い我が国は今年のカンチェンジュンガで多くの実績を積みました。あなたもその一員として参加されてヒマラヤの経験があります。またそこで試された酸素ボンベなどの高山用の装備もあります。是非、あなたに参加をお願いしたい。」
皇族の会長からの言葉にドギマギしていると、「何か希望はありますか。」
と聞かれる。「わたしは安全な登山を普及させたいと思っています。ですから、どんなに頂上が近くても、危ないと思えば無理はしないで下山します。
その心持ちで参加していいのでしょうか。」「勿論です。あなたこそ日本の登山、世界中の登山を行う人間の手本であって欲しいと思っています。だからこそあなたを選んだのです。」
 この当時のエベレストはチベット側からの登山ルートが開放されていた。しかし、一年に原則一国の登山隊しか許可されていないために、1924年のイギリス隊に、遠征費を援助することで、学術調査名目として参加させて貰った。実質は3年後、1926年の日本隊のための下見である。
 この年のイギリス隊は特別なエピソードを持っている。イギリスの誇るアルピニストであるジョージ・マロリーと22歳の若いアンドリュー・アーヴィンが頂上を目指して行方不明になるという事件である。1999年にマロリーの遺体は発見されるが、現在でもこの二人が頂上に至ったかどうかは謎になっている。
 彼は、実際のマロリーに会うとたちまち魅了された。気さくなイギリス人である。「そこに山があるから登るのだ」の名言で有名なマロリーはジャーナリスの前では気難しく、孤高の雰囲気のある人物であったが、加藤が登山家であるとわかると、人種的な偏見もなく、同じ登山家として付き合ってくれ様々な技術も指導してくれた。

642 :名無しモドキ:2010/12/18(土) 21:16:59
 マロリーを死なせたくない。できればエベレストの頂上から生還して欲しい。彼こそ人類で最初にその頂に立つに値する人物だ。彼は思いきって、日本隊の隊長に直訴した「マロリーに日本隊の酸素ボンベを提供してもらえないでしょうか。」「確かにイギリス隊の鉄製ボンベは重たい。日本のアルミニウム製ボンベであれば登頂のチャンスは増すだろうな。」山岳部隊の退役
将校である隊長はしばらく考え込んだ。「よかろうマロリーにもう一度チャンスを与えよう。」「えっ今、もう一度とか。」「そうもう一度だ。君もその気持ちだろう。ただし、成功の暁には必ず日本隊のサポートには、公式に感謝してもらうよ。」
 日本製のボンベはイギリス製の半分の重さで同等の性能があった。加藤は、史実では、マロリーは二人で4本(6本説もある)を使用したことから、6本のボンベを提供した。マロリーは率直に礼を述べ、この厚意に感謝するために必ず登頂すると約束した。
 加藤は志願して最終キャンプである第六キャンプまで、イギリスの隊員といっしょにサポーターとして、食糧と燃料の他に2本の日本製酸素ボンベを荷揚げした。あとの四本はシェルパが荷揚げした。この第六キャンプに来ることが今回の目的の一つである。ここなら、山頂付近の難所であるセカンドステップと呼ばれる30mの垂直に切り立った崖が見える。3年後に十分な装備をそこまで運び込む予定である。だから、その装備を日本で用意して持ち込む言い訳が必要だった。見えていないことの準備は出来ないからだ。
「ただし世界で二番目かな。マロリーなら装備がなくともセカンドステップは突破できる。」そんなことを考えながら彼は、午後遅く、翌朝の登山に向かうマロリーたちと別れて下山した。
 結局、マロリーは戻って来なかった。一週間後に、イギリス隊はマロリーはすでに生存せずとの見解を発表した。

643 :名無しモドキ:2010/12/18(土) 21:21:05
 1926年、日本隊は軍需物資の輸送方式をモデルにセカンドスッテプにアルミニウム製の梯子を運び込んで取り付けた。ただ、史実では第二次世界大戦後に普及して、軍事用にも用いられるようになった物であるのでマスコミには「頑丈な金属製の梯子」として発表された。加藤はアタック隊員として梯子を乗り越えた。
 そこには、四本のイギリス製酸素ボンベが半ば雪に埋まっていた。「マロリーはやはり彼自身の技術でここを乗り越えたんだ。しかし何故イギリス製なんだ」加藤は深い感慨と疑念を持った。やがて、シェルパのガング・ラ・ミングマとともに一歩一歩頂上に近づいた。ガング・ラ・ミングマは、史実でエドモンデ・ヒラリーとともにエベレスト初登頂を行ったテンジン・ノルゲイの父親である。「安全な登山。技術と装備さえあればここエレベストでも実践できるのだ。」加藤は満足していた。

 それは、山頂の間近にあるサードスッテプの下にあった。遺体である。一目でマロリーだとわかった。俯せになったマロリーの背中には、一本の日本製ボンベがあった。状況から考えてマロリーは二本のイギリス製ボンベと一本の日本製ボンベで山頂に向かったとしか考えられない。そして、重いイギリス製から使用して、それを捨ててから軽い日本製でアッタクしたのだ。
「加藤さん頂上に行って見ましょう。」ミングマが声をかける。頂上は雪に覆われていた。
 加藤は日章旗、ネパール国旗、チベット国旗を掲げたミングマの写真を撮った。加藤はそれほど意識してはいなかったが、後年この写真は大きな政治的意味を持つことになる。自身の写真をミングマに撮らせてから、加藤は雪の中をまさぐった。小さなケルンがあった。そしてその中からは、女性の写真が出てきた。頂上に置いてくると言っていたマロリーの妻の写真である。
史実ではこの写真は頂上から見つからなかった。登頂出来なかったのか(遺体も所持していなかった)、吹き飛ばされてしまったのかはわからない。しかし、この世界ではマロリーの登頂が証明されたのだ。

 日本隊のエベレスト登頂は、たちまち世界的ニュースとなった。「初登頂はイギリスのマロリーと発見されていませんがアンドリュー・アーヴィンによるものです。私は二番目です」写真などなかったと言えば、初登頂の栄誉を独り占めできるのに、正直でフェアな加藤のコメントはイギリス国民の矜持を打った。
 これに対して、マロリーの妻は「夫は登頂は家に帰ってきた初めて成就するのだと言っておりました。本当の初登頂は加藤とミングマの両氏だと思います。」この言葉は日本国民を感激させた。

 大戦間のこのトッピックは日英の両国民にして、互いに(大いなる誤解によるものであるが)信頼出来る人間であるとの印象を与えた。
 なお、ボンベの謎は、イギリス登山協会からの事故報告書という形で明らかにされた。「日本製ボンベの提供を受けた物資係の隊員はその軽量さから高所での使用は破裂などの危険性があるとして、頑丈なイギリス製ボンベに取り替えてシェルパに荷揚げを命じた。そのためマロリーとアーヴィンは互いに二本のイギリス製ボンベと一本の日本製ボンベで登頂を目指した。イギリス製ボンベは重量があり、酸素量もやや日本製より少なかったため、二人が頂上に達した時は夕方遅くであったと推定される。既に酸素も尽きて、夜間照明の準備のなっかたマロリーは疲労も重なり下山中に頂上付近から滑落したものと判断される。一人残されアーヴィンは下山を続け、酸素不足と疲労、さらに寒気についに動けなくなり死亡したと思われる。将来、頂上と最終キャンプの間で彼が発見されることを祈りたい。 
 ただ、日本隊の加藤氏により得られた日本製ボンベがなければ頂上に彼らは到着できなっかであろう。」
 他国を褒めることのないイギリス人には珍しいコメントであった。そして、このコメントはイギリス国民に、どうせ文明の劣った日本製は粗悪品といった偏見を取り除かせる切っ掛けになった。

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最終更新:2011年12月31日 18:33