647. 名無しモドキ 2010/12/19(日) 13:27:44

日本工業の底上げをという話題が別レスに掲載されていますが、小さなことから、こつこつということで・・。1938年ころに書かれた話です。


「パッキン」

1913年(大正2年)、東京 商工省のとある会議室。史実では。1925年に
農商務省を分離して、商務省と農林省が設置されているが、この世界では1900年に
この分離が行われている。

私は家業である鉄工所を去年、父親から受け継いだ。鉄工所といっても大
きな田舎の鍛冶屋なのだが。私は東京工業大学の前身である、東京高等工業
学校を数年前に卒業した。父親は、そのまま東京の役所か、企業に就職させ
るつもりでいたが、私は父親を説得して家業を手伝いだした。

今年、長年の研究で事業化に目鼻がついた製品製造のため、融資してくれ
る金融機関を探していたところ、新製品の融資に積極的な銀行が東京にある
と噂を聞いた。そして、その銀行である「東京渡辺銀行」の頭取である渡辺
六郎氏から、是非にと紹介されて「商務省有望製品融資審査室」を私は尋ね
ることになった。

「室長の植村甲午郎です。渡辺さんからは、お話は伺っています。それと
あなたからの提案書も見ました。」
(植村甲午郎ってどこかで聞いた名前だが)
「どうしました。私が若いのでご不審でも?」
「いいえ。滅相もありません。で、提案書の方はいかかでしょうか。」
「あなたは隠し事がありますね。あなた自身のことで。」
(いきなりびっくりさせるなよ。なんなんだよ。もともとは、研究資金用
にと融資を渡辺銀行に申し込んだら、頭取が出てきて商工省へ行けだか
らな。大事は嫌なんだよ。)
「別にありません。そこの提案書が全てです。」
植村甲午郎と名乗る若い官僚は、表情を変えずに言った。
「わたしは将来、経団連会長になります。もちろん今はそんな組織はない
が、あなたは知っている組織ですよね。」
(ちょっと、ひょっとしてこの人も)
「そう、あなたと同じ生まれ変わり。我々は逆行者と言っています。」
(どうもこの世界は、おかしい。単に歴史のよく似た平行世界かと思って
いたら・・。そうか、我々って言っていたが、こんな奴らが歴史に手を
貸していたのか?)
「渡辺六郎氏の東京渡辺銀行は放漫経営の果てに、片岡大蔵大臣が、渡辺
銀行が破綻したとの失言があって本当に休業してしまいました。そして
昭和金融恐慌に繋がる。知っているでしょう。」
「わたしは、日本史にはあまり詳しくないので・・・。でも、渡辺銀行
は健全で手堅いとの評判ですが。」
「そう、希な例なのですが子孫が、現在の苦境を招いた人物に逆行するこ
とがあります。ですから、渡辺銀行は大丈夫です。」
「で、わたしをどうするんですか。」
「どうもこうもしません。資金を融資しましょう。」
「未来から来た人ならその提案の値打ちがわかるですか。地味な研究ですよ。」
「地味と言いますが、あなたは何故、これに目をつけたんですか。」
「わたしは、いわゆる航空機マニアでした。特に戦前のクラシック機のマ
ニアですが、その当時の日本機は潤滑油で下面が汚れている写真が多い
んです。ですから・・。」
「ですから、パッキン製造を行いたいのですか。」
648. 名無しモドキ 2010/12/19(日) 13:30:52
  パッキン、英語ではシールドである。液体や気体を循環させる製品や、耐
水性、あるいは気体の侵入を防ぐことが必要な製品には欠かせないものであ
る。「戦前の日本では、まともなパッキングも作れなかった」という文章を
何回か見たことがあった。じゃ、なんとかならないか。大きな物は作れなく
とも、パッキングくらいならなんとか私でも作れないかというのが出発点だ。

  ただ、たかがパッキング、されどパッキングである。製造技術から材質に
至るまで当時の日本では国産化は容易ではない。ただ、形ばかりは何とかな
るために、国産の不十分な製品が使われ続けて、肝心の本体機械の足を引っ
張っていた。

  私はドイツやアメリカから、ゴムなどの材料や、加工用の中古機械を購入
した。水道用のパッキンを製造しながら資金を貯めて、高圧高温に耐えるエ
ンジン用のパッキンを研究した。ようやく、事業化に目途がついたが、国産
の機械では製造に無理があるため、更に高価な外国の製造機械を購入する必
要があった。そのための融資を探していたところ先のような展開になったの
だ。

  肝心の融資は、商工省ではなく、商工省の審査を通過した案件ということ
で、東京渡辺銀行が行った。

  私の会社は、順調に事業を伸ばした。製品は他のメーカーと比べて高価で
はあったが、商工省推薦品という肩書きを貰った。そして、財閥系の企業が
率先して購入してくれたことから関東大震災のころには国内最大手になった。
  この頃、進められた商工省による規格統一推進事業は有り難かった。納入
先ごとに微妙に、サイズを変える手間が徐々に減って、汎用品の精度を上げ
ることに力を注げるようになった。

  世界大恐慌の時に、アメリカから大量の製造機械と特許を二束三文でかっ攫
って・・否、購入することで、世界が見えてきた。いつまでも、海外の技術
に頼っていては、世界一になれないため、工場に併設して創業当時に建てた
小さな研究所を拡張した。

  数年で、ようやく世界水準といえる製品群を送り出すことができるように
なった。これは研究の成果もあるが、創立当時から工員教育を行い、熟練工
を組織的に養成したことが大きい。また、徐々に進む農業でのイノベーショ
ン(機械化と制度面で)によって、農村から労働力が供給されだしたことは
有り難かった。そして、労働者は、一定の教育水準「識字計算能力がある・
時間を守る・規則を守る・自己と会社の所有物を混同しない」を持っている
ことがいかに有り難いかは海外視察へ出だしてから実感した。政府は、教育
へ無駄な金をかけているわけではないのだ。
649. 名無しモドキ 2010/12/19(日) 13:33:38
私は高度経済成長期のモデルである「終身雇用」「定期昇給(年功序列)」
を会社の基本方針とした。戦前の日本では、低賃金で工員の定着率が低かっ
たため、やっつけ仕事をされてしまうことが多かったからである。「大量生
産を行えて、自身の仕事に誇りを持つ職人」の養成が基本コンセプトである。
  ただ競争があるため、ある程度の年齢以上の社員では能力給を導入せざる
得なかった。また、合理的な生産の為には、「出来るだけ多くの雇用」とい
う私の信念と矛盾した少数精鋭主義となってしまた。

  戦後の社会を知る私は、労働組合も敵視していなかった。むしろ「労使協
調」を掲げて社員の生産意欲向上のために労働組合とも協調した。毎年、労
働組合と共催で、県内の温泉ではあるが社員の慰安旅行を行い、業績が順調
なときは、会社の負担で家族も招待した。映画会は、映画館を借り切って毎
月行った。娯楽の少ない時代であるから、こちらが赤面するくらいに感謝さ
れた。もちろん、一部の勢力からは、労働者を謀る「御用組合」との非難は
受けたが・・。

  1930年代からは、アメリカにも輸出を開始した。ただ、工業製品には高額
の関税がかかるため、完成品の手前で加工を止めて工業部品として輸出した。
そして、恐慌時に、株を購入していたカリフォルニアの現地協力企業で最終
的に加工を行った。今では、アメリカの航空機エンジンから自動車エンジン、
石油パイプラインにまで、(世間的には認知されることなく)広く使用され
ている。また、アメリカからはヨーロッパへも輸出されている。直接ヨーロ
ッパ系の企業と商談した時は、「アメリカ製」で間に合っているからと門前
払いされた。もちろん、その「アメリカ製」は我社の製品である。

「渡辺会」という親睦団体がある。これは、私と同様に、商工省の審査を通
過して「東渡辺銀行」から融資を受けた企業経営者の団体である。ベアリン
グや、歯車、光学レンズといった精密機材メーカーから、バネやホースとい
った基礎的な製品、そして、研究室用の実験機材といった特殊な製品をつく
るメーカーまで多岐に渡っている。私のような逆行者は少数であるが、進取
の気質に富んだ非財閥系の経営者たちの集まりである。私たちは人知れず日
本の工業の底辺を支えている。  

  私の会社の安価な製品の生産拠点は、東京近郊にあるが、技術を要する高
価な製品は、本社のある県の工場で生産している。私のもう一つの願いであ
る郷土での産業育成と、職場の拡大のためには、多少の不便は忍ぶつもりで
ある。

  私の会社は「島根シールド工業」と言う。
650. 名無しモドキ 2010/12/19(日) 13:41:06
647で書き間違いをしてしまいました。1926年へ大正15年・昭和元年です。
天皇即位に併せるため、エベレスト登頂は1927年実施ということで訂正し
ます。
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最終更新:2012年01月03日 21:37