656. 名無しモドキ 2010/12/19(日) 20:52:34
いつも楽しく読ませてもらうばかりでしたので思い切って投稿しました。
戦闘場面など期待されている方からすれば、地味な話ばかりで申し訳あ
りません。「パッキン」に出てくる「私」の息子「僕」の話です。1939年の
末ころのお話です。


「パッキン2」

僕の実家は田舎ではちょっとした会社を経営している。親父が一代で成した
会社である。最初は思った製品が出来ずにかなり苦労したらしい。
小学校の頃は東京に住んでいて、親父の会社も東京にあった。ある時、母親
に連れられて会社に親父を訪ねたことがあった。いつも温厚な親父が、応接
室で怒鳴っている。それはそれは恐かった。こんな品物持ってくるなと、ゴム
のようなのもを初老の男に投げつけていた。大人になって聞くと、急に真剣
な顔で親父が言った。
  「いい製品には、いい材料がいる。いい材料だと言って外国から買ってい
    れば、本当に国産品を造ることにはならない。だから、必死で要求する
    んだ。」
  「あきれられて、手を引かれなかった。」
  「そんな会社もあったが、今は、そんな会社は残っていない。お互いに切
    磋拓磨してきた会社が大きくなって取引を続けている。」

  僕は、東京工業大学を出ると、取引銀行のお得意さんの集まりである「渡
辺会」を通じて、親父の知り合いの会社で修行を始めた。営業から現場まで
一通り「物作り」というものをたたき込まれた。取引銀行は現在は「東京産
業銀行」と名を変えているが親父はいまだに、「渡辺銀行」と呼んでいる。

「東京産業銀行」は大手で、浜田に支店があるが、同じような産業振興のた
めの銀行は、地域ごとに活動していて地域の有望な中小企業を支えている。
ただ、これらの産業銀行は、新製品の開発や、生産施設の拡充といったこと
には、低利で資金を融通してくれるが、いわゆる回転資金には融通してくれ
ない。成長なき企業には用がないという姿勢である。
  時々、影の組織みたいなものがあって、「急げ!急げ!」と日本の社会を
鞭打っているような気がする。
657. 名無しモドキ 2010/12/19(日) 20:56:38
会社の創立25周年を記念して簡単ながら「社史」ができた。

  「親父、ジェームズさんたちのこと少しあっさり書きすぎているんじゃな
    い。」と親父に聞いたことがある。

  ジェームズさんとは、世界恐慌の時に、アメリカからスカウトしてきた技
師である。話によると、商務省が、現地の日本大使館に依頼して大量に失業
した技師を探してきて日本に招聘したらしい。もっとも大使館も、現地の産
業関連専門の探偵社に頼んだそうだ。それだけに、切羽詰まった、金のため
なら少々のことは飲んでくれる人材が多かったという。
  ジェームズさん以外にも、数名のアメリカ人やドイツ人の技師が本社で働
いていた。彼らのために、建てた住宅は、現在では社宅に使っているが、一軒
で二世帯が入っているりっぱなものだ。それだけの好待遇をした値打ちはあった。
  文献だけではわかない「こつ」といった技術向上は目覚ましかった。この
時期と以前と以後では会社の技術力には雲泥の差がある。
  
  彼らは数年して、本国が落ち着くと帰国していった。ただ、アイルランド
系のキャンベルさんは、移住一世ということもあってかアメリカに未練がな
いらしく日本に残った。なんでも、僕の田舎である島根は、妖精が住む故郷
のアイルランドの香りがするそうだ。彼は現在でも役員待遇の技師として研
究室と生産ラインの間を行き来している。
  このキャンベルさんには、何回かアメリカに出張してもらって、製品の説
明と売り込みをして貰った。いきなり、日本人が尋ねても門前払いになるか
らである。ただ、アイルランド人ということで、門前払いをする企業もある
らしいので、アメリカも難しい国である。

  「自分の国で、自分の技術が生かせない。そこへ外国からの誘いがくる。
    その技術はやがて外国の会社に定着して、自分の国の製品を脅かす。
    理屈じゃない。国民感情とすれば嫌なものだ。技術を盗んでマネをする
    卑怯な国だ。そう思われてもしかたあるまい。俺にはその気持ちがわかる。
    この社史だって、世界中の誰が読むかわからない。出来るだけ気を使って
    書かないとな。」

僕の質問に親父はそう答えた。

  僕は去年から親父の会社で働き出した。何しろ取引銀行は、成長なき企業
を嫌うので安閑と同族企業をやっている余裕はない。オーナーの息子でも能
力に問題があると判断されれば融資を打ち切ってくる。資金を打ち切られた
企業は信用を失いやがて退場していく。

  去年の暮から、取引先の大手から金属パッキンの注文が急増している。この
ご時世である。日本だっていつ戦争に巻き込まれるか。各種エンジンや
大型タービンの生産が急増することが確実である。
  そのパッキン生産のための工場を立ち上げることになった。大量に、しかも
日本の何処にでも運ぶために、太平洋岸の海に面した地域で適地を探した。
この新工場は子会社として発足し僕が取締役に任命された。

その会社は「日本ジャストシーリング」といい徳島県にある。
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最終更新:2012年01月03日 21:37