225. テツ 2009/06/29(月) 00:51:15
支援SSが完成したので投下します。
事前に言っておきますが、野球の知識がある方以外はもしかしたら面白くないかも知れません(汗


日本人は基本的にスポーツが好きである。
史実でもこの世界でも古今を問わず。勿論「実際にやる」「観戦だけ」ちょっと変わったところでは「実況パワフルプ○野球」「ウィニ○グイレブン」等の差は有るであろうが。
この世界の1920〜40年にかけてで言えば、個人競技では「相撲」。そして団体競技で言えば「野球」であった。


提督たちの憂鬱  支援SS  〜  野球狂の詩  〜



史実では現在の「日本野球機構」にあたる「日本職業野球連盟」が結成されたのは1936年であるが、この世界では1934年には既に結成されていた。そして「大日本野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)」と同じ年に「大坂野球倶楽部(現:阪神タイガース」がチームを作っていたので、職業野球自体は既に行われていた。
そして翌年には「大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍(現:中日ドラゴンズ))」、「東京野球協会(東京セネタース)」、「名古屋野球倶楽部(名古屋金鯱軍)」、「大阪阪急野球協会(阪急軍(阪急ブレーブス、現オリックスバッファローズ))」、「大日本野球連盟東京協会(大東京軍)」が発足、翌年には 「後楽園野球倶楽部(後楽園イーグルス)」と「南海軍(南海ホークス、現ソフトバンクホークス)」がそれぞれ加盟し、1940年現在では史実と同じくペナントレースを行っていた。
だが、このプロ野球設立の裏に夢幻会が関わっていることを知っている人間は、当事者以外誰も居なかった。

閑院宮篤仁。
皇族である閑院宮家の現当主である閑院宮載仁親王の長男である。
さて、今更言うまでもないが、夢幻会には特殊な趣向や趣味や性癖を持った人間が多数居る。
そして篤仁もその例外ではなかったが、彼は萌えには殆ど興味を示さなかった。本人曰く「自分の青春はと○メモ1と共に始まり終わった」と。
だが濃さでは他のメンバーには負けていない趣味があった。
野球である。
自身も自A隊時代、「自A隊A森」という社会人チームに所属しており社会人野球の大会にも頻繁に出場していたし、某「毛」のチームの熱狂的なファンでもあった。
有り体に言えば「野球オタク」「野球マニア」である。
当初は士官学校に野球部を作ったり、そのチームを六大学野球のチームと試合をさせて最終的には七大学野球にしたり、各女学校に女子野球部を設立して公式大会を開催したり(コレには辻以下MMJのメンバーも一枚噛んでいる。寧ろ途中からMMJの方が熱心になった)。
このように三十年代前半までは中学野球や大学野球で満足していたのだが、やはりプロ野球もみたいと思い立ち、「辻すら引かせる熱意を持って」各方面を説得して歩いたという。
もっとも、野球以外の各種スポーツの普及にも熱心であった。それ故「閑院宮杯」と名の付く競技大会が少なからず存在している。
篤仁が此程スポーツの普及に熱心だったのは「健全な汗を流していれば、バカな思想やアホな軍人至上主義に染まる暇もないだろう」という理由でだ。それもあって、世間一般からは「スポーツの宮様」と認識されていた。
趣味だけで色々やったわけではない。最も、趣味で色々やったのは全く否定できないのだが。
226. テツ 2009/06/29(月) 00:53:28
「総帥?」
少々ボゥっとしていた篤仁は、その声に我に返る。
今は1940年。ここは日本職業野球連盟本部の会議室。
そして何故自分がここにいるか・・・。
「ああ、すまない。正力君」
そう言って改めて会議室に集まったメンバーを見る。
そこにいたのは現在、日本職業野球連盟に加盟している球団の代表達であった。
「皆さん、ご多忙の中わざわざ起こし願って甚だ恐縮です。まずその事をお詫びしたい」
「いいえ!  何も総帥が頭を下げなくても」
その言葉に他のメンバーも同意を示す。
現在の篤仁の公式な肩書きは日本職業野球連盟総帥。いわゆるコミッショナーである。ただし、この総帥という地位には史実の日本のコミッショナーではなく、メジャーリーグのコミッショナーと同じく強大な権限を与えられている。
「今日お集まりいただいたのは他でもありません、例の案件についてです」
『例の案件』の一言で出席者は全員居住まいを正した。
篤仁は出席者全員を一望する。
「来週国会を通過する予定の『特別技能者に対する兵役猶予法』、その該当職種に職業野球選手が含まれることが内定しました」
全員から安堵の溜息が漏れた。
この『特別技能者に対する兵役猶予法』はその名の通り、有事の際でも陸海軍からの応集を猶予されるための法案である。史実であったような、熟練工を1等兵として1銭5厘で召集させないために夢幻会で仕立て上げた法律だ。
そして篤仁はその「特別技能者」の枠に職業野球の選手を含めるべく、各球団のオーナーから懇願されていた。
篤仁は最初は流石に渋ったが、沢村栄治や景浦将のような名選手を、たかが手榴弾投げの為だけに潰させるのは、戦争以上に馬鹿げた事だとも思っていた。
もっとも、この世界では日中戦争が起こっていないので、沢村栄治や他の選手も徴兵も充員召集もされて居らず戦争経験はないのだが。
勿論、野球連盟側にも幾つかの譲歩を認めさせた。軍の将兵に対する慰問試合(費用は全て各球団持ち)をペナントレースとは別に行わせることや、選手からの志願は原則コレを妨げない、と言ったことをだ。

「あとそれと、もう一つ」
安堵のためにざわついていた室内を再び見回す。
「私は本日をもって日本職業野球連盟総帥の座を辞することにしました」
「な、何故ですか総帥!」
正力が悲鳴の様な声を上げた。他の参加者も絶句している。
「これが政府からの交換条件です、『予備役中将閑院宮篤仁親王は○月○日をもって陸軍中将として応召に応じられたし』。まあ早い話、選手を兵隊に出さないのならお前が代わりに軍に復帰しろ、と言う話ですね」
苦笑しながら理由を開陳する篤仁。彼は第一次上海事変の後、陸軍少将に昇進してから予備役に入った。予備役に入る前に慣例として1階級昇進下が、中将として兵を指揮したことはない。
予備役に入ってからは、主に夢幻会の外交官として欧州やアメリカで要人相手の交渉等を務めていたりしていた。
その合間を縫って東京セネターズのスポンサー兼オーナー代行をやったりもしていたが。
「そして次期総帥に正力松太郎君を推薦したいと思います。反対の方は挙手願います」
突然のことでショックを受けていたこともあるが、誰も挙手はしなかった。
「待ってください!」
当の正力松太郎以外は。
「私はまだ、私の巨人軍を強くしなければなりません。総帥に推挙していただいたのは光栄ですが」
野球連盟総帥の権力が絶大なのは前述した通りである。なにしろ新球団の加入の是非すら総帥の判断一つで可能にできるのだ。だが、総帥になるには「所属球団に対する経営権・決定権を全て捨てなければならない」のだ。だから篤仁も総帥就任と同時に東京セネターズのオーナー代行を辞任している。
1940年時点で既にドラフト会議やプロアマ協定、行きすぎた選手の引き抜きの制限等は篤仁が総帥時代に設立させている。コレにより、巨人軍への戦力一極化は起こっていないので正力はまだ経営権を手放したくないのだ。
何しろ史実では巨人軍の沢村栄治とのダブルエースであったヴィクトル・スタルヒンが東京セネターズでエースをしているのだ。史実では亡命ロシア人であることの弱みによって中学を中退させられてしまったが、この世界では篤仁がその圧力をそれ以上の圧力で踏みつぶした。
経済的な困窮もあったが、それも亡命ロシア人の互助会の最高幹部である篤仁の細君の口利きで奨学金を支給され、この世界では無事に旭川中学校を卒業している。
そしてそれに感激したスタルヒンが早稲田大学への進学を止めてまで東京セネターズへ入団してくれたのだ。まさに情けは人の為ならずの具現であろう。
227. テツ 2009/06/29(月) 00:54:53
「確かに、巨人軍のオーナーである君が、チームを強くしようとしている意気込みは解る。だが君には日本野球界全体を強くして貰おうと思っているのだ」
それは余人を持って代え難い、篤仁は言外にそう臭わせる言い方をしていた。史実でも(個人への好き嫌いはあるモノの)戦後の日本プロ野球を盛り上げたのは、確かに正力松太郎の手腕であるのは間違いない。
「それを承知でお願いする。不満だろうが、ならば「以前の借りの返済分」と思ってくれ」
「ここでそれを持ち出しますか・・・」

1935年、篤仁と正力は読売新聞社本社で右翼の構成員に襲われ、篤仁が左腕を斬りつけられて重傷を負った事件が起こっていた。史実では正力を狙ったテロ事件だったのだが、偶々オーナー同士の打ち合わせで一緒にいた篤仁が正力をとっさに庇ったことによって篤仁が重傷を負ってしまったのだ。
余談だが、当初は「神宮球場で外国人相手に野球をして、神聖を汚した」と理由を付けていた襲った右翼構成員だが、後ろから操っていたのは、読売新聞にシェアを奪われた某新聞社の幹部であった。
更に余談だが、コレを知った辻と、内務省警察畑のドンであった阿部正行は嬉々として過激派右翼を取り締まり、極右煽動の元凶を潰して回った。何しろ皇族を襲撃して重傷を負わせたのだ。極右煽動家の弾圧にこれ以上の大義名分は存在しなかった。お陰で篤仁は阿部からフシミン・コノミンの新刊同人誌を山ほどプレゼントされ、処分に困ったのはそれこそどうでもいい話である。

「・・・・・・・・・承知しました。浅学非才の身ではありますが日本職業野球の発展に尽力していきたいと思います」
結局、正力が折れる形でこの話に決着が付いた。
そして、巨人軍は史実ほど戦力の集中をできなくなり、各球団の戦力差は比較的開くことはなくなったのだった。


1941年7月。
閑院宮篤仁帝國陸軍中将は陸軍参謀本部次長として、陸軍の戦時体制移行に取りかかっていた。既に日米の開戦は秒読み体制に入っていたので、内地の常備師団の充足率を定員に、予備師団を野戦師団に拡充するために予備役の第一次動員計画を策定していた。現在では7割方終了し、開戦予定日までには完全に動員体制が整えられる。
それでも篤仁の顔は優れなかった。いや、夢幻会関係者の顔が1941年5月以降晴れ晴れとしたことはなかった。
最も恐れ、なんとしても回避しようとしていた日米戦争。それが不可避な状況なのだ。意気軒昂なのは無責任な政治屋やマスゴミだけだ。
「この状況下でも、まだ兵役猶予法が生きているのは、まだ末期戦になっていないからか」
この第一次動員計画でも、兵役猶予法対象者への赤紙の発送は行われてはいない。
「だが、戦争が長期化すれば・・・」
兵役猶予法は廃止され、日本の将来を担うべき学生達を学徒出陣で、野球選手のバットは銃に、ボールは手榴弾に持ち替えさせて、戦場の荒廃に身を横たえさせるであろう。
「戦後に戦犯指定されなくても、間違いなく俺は地獄行きだな」
自嘲するしかなかった。
彼らを戦争で死なせたくはなかった、だが戦争の方からやってきてしまった。ならば・・・。
篤仁の見つめる先には、最初の日米野球の時に撮られた当時の集合写真があった。
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックス。沢村栄治、水原茂、三原脩、苅田久徳。彼らに囲まれた中央に篤仁が写っている。

「恨んでくれて良いよ。許しは乞えないけどね」



終わり



チート色々w

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最終更新:2012年01月03日 21:29