425. テツ 2010/04/20(火) 00:34:22
久しぶりに投下します。
あの機材を作るなら、こういう人間をかっさr・・・もとい、リクルートしてこないとw
1941年2月、富士演習場。
この日は、この世界において歴史的な日となった。

「緊張しているのかね?」
中年の日本人男性が、白人の中年男性に話しかける。
「ええ、流石に」
白人は苦笑しようとするが失敗した。別に寒いからではない(いや、2月の富士の裾野は寒いが、彼の出身はロシアであるのでこの程度で寒いとは思ってはいない)。
「大丈夫だ、君は完璧な仕事をしたんだ。きっと成功する」
「ええ、私も自分の仕事には自信を持ってはいます。しかしこの機材は最初のプロダクションモデルです。今までの試作品や実験用の機材とは違うので、どうしても」
彼らがそう言っている間にも、準備は進んでいく。大勢の男たちが「機材」に取り付き最終チェックをしていく。
「博士、最終確認をお願いします!」
機材に取り付いていた男が、白人に最後の確認をして貰うために彼を呼びに来た。
「解った、直ぐに行く。・・・申し訳在りませんが」
「ああ、引き留めて済まない。成功を祈っているよ、イーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイ」
「ええ、スポンサーの期待に答えれるようにしますよ、篤仁大公殿下」


提督たちの憂鬱支援SS  〜  イーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイ  〜


イーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイ。ウクライナ生まれのロシア人航空機技術者。実用的な4発機を開発したことで航空史に最初の名を記すことになる。だがロシア革命後にフランスに亡命、その後アメリカに渡りシコルスキー飛行機会社を設立。この時期は史実において飛行艇メーカーとして名を馳せることになるが、彼の人生2度目の転記は世界恐慌の時に起こった。
426. テツ 2010/04/20(火) 00:35:14
世界恐慌という名のバブル崩壊で多くの企業が倒産、投資家が神の元に召された。
そして極東の某団体はインサイダー取引が可愛いと思えるほどのインチキを行い、アメリカから吸い出せるだけの富(現金など資産価値があるモノ)を吸い出そうとした。そして、その富が吸い出されなければ本来は倒産することがなかった会社を倒産に追い込むことにも躊躇しなかった。
シコルスキー飛行機会社はその影響をモロに受けた。
会社自体の将来性はあるが銀行が金を貸してくれないのだ。何しろ銀行にも金がないので、確実に返済できそうな会社へしか融資出来ないという事情がある。
だがそんな事情は融資して貰えないシコールスキイには何の関係もなかった。
金策に走り回ったシコールスキイ。だが融資してくれる銀行は何処にもなかった。銀行すら倒産するご時世なのは解ってはいるが、それでも彼は融資先を求めて靴の底をすり減らす日々だった。
その日も銀行への融資依頼を断られて、ニューヨークのロングアイランドにある会社に戻ってきた。
シコールスキイが会社の入り口に来ると、社員が飛び出してきた。
「社長!  社長にお客さんが尋ねてきてますよ!」
「客?  何処の何奴だ?」
「東洋人ですよ。東洋人にしては結構背が高かったですが。今、応接室にいます」
服装を整えて応接室に向かうシコールスキイ。応接室には社員が言うように東洋人が待っていた。シコールスキイが入室すると直ぐに立ち上がる。
(背広を着てはいるがコイツは軍人だな)
相手の所作を見てそう当たりを付けた。シコールスキイ自身も元ロシア海軍軍人である。軍人は軍人をかぎ分けることが出来る。
「お待たせしたようですな。初めまして、私が社長のイーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイです」
「初めまして、私は大日本帝国外務省嘱託の閑院宮篤仁と申します」
「ほう、貴方が有名な日本のプリンス・アツヒト殿下ですか」
この時点で既に閑院宮篤仁は、ロシア系の人間の間では有名であった。ロシア皇帝の遺児を妻として娶っていた為だ。そしてその事が、忌々しいボルシェビキ共から皇女殿下を守ることになっている事も知っていた。
それに篤仁の父親は日露戦争でも活躍した騎兵将校であり、帝國陸軍元帥大将でエンペラーの一族である。恥知らずのボルシェビキ共でもまかり間違っても手は出せない。
「失礼ながら、殿下は軍人だったと思ったのですが」
「ええ、確かに。ですが今は仕事で外務省に出向中でしてね」
「ほほう、何やら重要な仕事があるようで。・・・我が社にお越し頂いたのもその「重要な仕事」故ですかな?」
427. テツ 2010/04/20(火) 00:35:57
篤仁の用件は「日本で航空機製造の会社を立ち上げてみないか」であった。名目上は「我々は貴社の技術力を高く評価しているが、現在の合衆国ではその能力を生かし切ることは出来ない。日本はその勢力圏が太平洋一帯にあるので、貴社の飛行艇技術が是非とも必要である」であった。
これらの理由は勿論表向きである。アメリカのボーイングやドイツのハインケルを買収しようとした理由と同じだ。残念ながらボーイングの買収は失敗したが、夢幻会のメンバーが「そういやシコルスキーってこの時代にもうあったっけ?」と思い出したことで急遽この話が浮上したのだ。
そしてシコールスキイの獲得は、ボーイングの買収に勝るとも劣らない事を思い出したのは僥倖と言えただろう。

篤仁が帰ってから、シコールスキイは社長室を立入禁止にして考え込んでいた。
日本が出した条件は破格だ。
現在会社が抱えている負債の清算、会社の廃業に伴う社員達への退職金の支給、希望者の日本での再雇用。
そして実質的に大日本帝国がバックに付くことにより、シコールスキイがかねてより作ろうと思っていた「飛行機」を資金の心配をせず開発することが出来る!
このままアメリカにいても、資金繰りのために走り回る日々で飛行機の設計をする時間がとれない。そしてこの大恐慌が続けば、いずれ技術の価値も解らない借金取りに会社の全てを持って行かれるだろう。
だが今、シコールスキイが本当に作りたかった「飛行機」を作れる機会が目の前にある。
「・・・・・・・・・まずは日本語を覚えるところから始めるか」
この後、緊急の役員会が開かれる。
そして1週間後、シコルスキー航空機会社はアメリカでの業務を停止した。
428. テツ 2010/04/20(火) 00:38:53
富士演習場に歓声が上がった
とうとうシコールスキイの想いが形となったのだ。
垂直に上昇し、空中で静止し、垂直に着陸できる機体。
ヘリコプター。その日本最初の実用機が富士の空に舞ったのだ。
「おめでとう、シコールスキイ博士」
「ありがとうございます、殿下」
篤仁とシコールスキイがガッチリと握手を交わす。彼らが最初にニューヨークで顔を合わせてから約10年。とうとうこの日が来たのだ。その喜びはいかほどであろうか。
「しかし残念だな。世界最初の実用ヘリの開発者として君の名前が残らないとは」
世界最初の称号は1937年にドイツのハインリヒ・フォッケとゲルト・アハゲリスのフォッケウルフFw61に持って行かれている。
「大丈夫ですよ、いずれシコルスキージャパンを「世界一のヘリコプター会社」にして世界一の称号を貰いますから」
彼は力強くそう断言する。
「ああ、きっと君と君の弟子達は世界一になるさ」
夢幻会のメンバーである篤仁はシコールスキイの言葉を疑うことはなかった。なぜならソレは、間違いのない未来であったからだ。
「ええ、見ていて下さい。必ずやってみせますとも」



シコスルキー  S51(日本軍呼称:1式回転翼機)

乗員:2名(操縦員)+2名
全長:12.5m
全高:3.9m
主ローター直径:14.6m
尾部ローター直径:2.5m
全備重量:2,184kg
エンジン:1 × 450 hp
最高速度:145km/h
航続距離:451km
巡航高度:3,000m


投下終了
S51は昔海自で採用されたS51とほぼ同一の機体です。アメリカでもH5として採用され、朝鮮戦争で救難機として活躍してます
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最終更新:2012年01月03日 21:30