698. テツ 2011/12/14(水) 22:33:58
久々に投下いたします。名無し三流さまと辺境人さまの支援SSに触発されて書き上げました
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/9191/1299215754/357-364


史実の日本に「川西航空機」という会社があった。97式飛行艇、2式飛行艇などの名水上機を生み出し

、局地戦闘機紫電改の会社として有名であった。
それがのちに新明和工業となり、YS-11やPS-1などの機体を開発するのだが、この憂鬱世界ではそうは

ならなかった。


提督たちの憂鬱  支援SS  〜  レスキューソルジャー  〜


1943年2月、戦後の日本でいうところの「菓子メーカーの販売戦略に踊らせられている日」「日本中が

チョコの臭いに咽返る日」「進駐軍のバレンタイン少佐が子供たちにチョコを配った日」。
大日本国帝国内及びその勢力圏では、戦時中とは思えないほど穏やかな空気だった。アメリカ合衆国の

太平洋艦隊が壊滅し、日本の負けがほぼありえなくなった。そして中華を自称する国が実質的に日本に

降伏、大陸に展開していた日本兵の動員解除もそう遠いことではない、と人々が思い始めていたからだ


だがそうではない者もいる。陸海軍人、官僚などの国家に奉仕する者、そして倉崎などの軍需メーカー

の者たちであった。

シコルスキージャパンはロシア人飛行機技術者イーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイを大恐慌

のドサクサに紛れてアメリカから日本にスカウトし設立させた航空機会社である。
そしてその際、日本の一企業の飛行機製造部門と合併し、その企業との共同出資という形でシコルスキ

ージャパン社を設立させたのだが、その会社こそ川西財閥の川西機械製作所であった。
本来、川西飛行機は川西財閥の川西清兵衛が中島飛行機との確執によって生まれた会社である。しかし

憂鬱世界には中島飛行機が存在していないため川西航空機は川西機械製作所の一部門でしかなかった。
それを夢幻会の指導(夢幻会の名前は表に出てはいないが)のもと、シコルスキーと川西の共同出資と

いう形をとらせて独立させたのだ。

菊原静男はそんなシコルスキー社の航空技術者である。史実では2式飛行艇や紫電改、YS-11などの設計

に携わっていたが、憂鬱世界ではやや別な道を歩んでいた。日本海軍に採用された95式飛行艇の設計に

携わったように、飛行艇の設計をしていたのはあまり変わらないのだが、史実であった戦闘機の設計で

はなくヘリコプターの設計に携わることになったのだ。ヘリコプターという、今までに無かった面白い

「機械」に魅せられたのだろう。
「キクハラ、まだ残っていたのか」
社長であり技術者でもあるシコールスキイは、製図室で作業を続けていた菊原に気づいて声をかけた。
「我々のS-55が軍への納入契約が正式に済んで、皆祝い酒だと飲みに行ったと言うのに」
日本に移り住んで10年以上たつシコールスキイの日本語は大分上達していた。ロシア語、ウクライナ語

、英語、日本語の4ヶ国語を話せる多言語話者。
(本当に社長はすごいお人だ)
「ええ。しかし、軍はS-55の更なる改良も指示してきたと聞きましてね。それで自分なりのアイデアを

ちょっと図面に引いてみたくなって」
2年前にS-51が陸海軍に正式採用されたが、それ以前からシコールスキーはもっと多人数を輸送できる

ペイロードを持った輸送ヘリの構想も練っていた。そしてつい先日、社内名称S-55が日本軍での審査を

終え、3式汎用回転翼機として正式に発注契約がなったのだ。
「なるほど。君のアイディアは期待出来るからな。S-55の改良でもそれは証明されている」
社内でのS-55のテスト中に、メインローターブレードでテールブームを切断するという、あわや大事故

に繋がりそうになったことがあった。その時に菊原が出した改善案が「テールブームを5度斜め下に曲

げ、安定翼を逆V型から水平にする」と言うものだった。それによって以後にテールブーム切断という

事故は一度も起こってはいない。
「それで、今度はどんなアイディアなんだ?」
「はい、先日内務省に勤めてる知り合いにあったのですが・・・」
699. テツ 2011/12/14(水) 22:35:30
1943年9月11日、鳥取平野付近を震源とするM7.2の直下型地震が発生して一日たった。家屋の被害は全半壊、火災による焼失を含め14000戸近くに上っていた。それでも戦時中ということもあり、大陸からの爆撃に備えて警防団を組織していたため、火災による被害は最小限で済んでいた。
それによって犠牲者の数は、関東大震災、昭和三陸地震等の大震災の教訓を生かしたのと、近年の防災ブームの影響からか史実よりも犠牲者の数は抑えられそうだった。
だがそれでも大地震の破壊は凄まじかった。
「そうか、山陰本線も因美線も不通か」
鳥取県知事の島田叡(あきら)は部下の県職員の持ってきた情報に落胆した。すでに道路は至る所で陥没したり橋梁が落ちたり液状化現象がおきたりの情報が出張所から入っており、電話もすべて不通だった。出張所からの報告も無線電信か、職員が余震が続く中危険を顧みず鳥取県庁まで報告しに来たものだった。
そして今も、交通の要であった国鉄の路線もレールの脱落や破損によって運行が不可能との知らせが入った。
幸い、鉄筋コンクリート製の建物であった鳥取県庁は建物にヒビは入ったものの、地震に耐えきった。そして県庁内に災害対策本部を設置し、陣頭指揮にあたっていたのが1943年の7月1日付けで大阪府内務部長から鳥取県知事として赴任してきた島田叡であった。
すでに陸軍歩兵第40連隊(鳥取)と歩兵第63連隊(松江)による災害派遣活動が行われており、歩兵第25師団から連絡将校も県庁に派遣されてきている。
大会議室には多数の無線機、無線電信機が用意され軍、警察、警防団への指示が行われている。そして鳥取県の大地図に部隊配置がピンセットでなされていた。
「閣下、鳥取の赤十字病院からです。これ以上の重症患者の受け入れは難しいと」
この当時、鳥取にあった一番大きな病院は日本赤十字社鳥取支部病院(現在の鳥取赤十字病院)で鳥取県立病院はまだ規模の小さい市民病院でしかなかった。
そして交通が遮断されているため補充がきかないため、医薬品の数にも限りがある。すでに病院は満床どころか、廊下や待合室にも患者があふれかえっていた。
「中佐、軍の輸送機やトラックで患者を県外に移送させられないかね?」
「は、県外移送そのものは、米子飛行場と海軍の美保飛行場に支援物資を持ってきた輸送機を使えますが、しかし鳥取病院から米子や美保に行くまでの手段が確保出来ません。道路状況も考えると島根へのトラックでの移動も同様です」
そして鉄道は今さっき報告を受けたばかりである。
「軍の回転翼機は?  あれなら飛行場でなくても病院近くの空いた土地に降りれるはずだが」
「海軍の空母から来た回転翼機ですが、想定外の連続使用のため半分以上が現在整備中とのことです。方面軍に回転翼機の追加派遣を申請したのですが・・・」
連絡将校も悔しそうな顔を隠せなかった。
現在の日本軍でもヘリの総配備数はあまり多くはない。ほとんどが対潜哨戒機や軽連絡機として使われていたため、どうしても戦闘機や攻撃機ほどの生産はされていない。そして生産された機体のほとんどは前線に送られている。
その時、県庁の通信技官が内務部長(県の警察消防などを統括担当)へ、軍から派遣された通信兵が連絡将校へ通信文を持って足早にやってきた。
内務部長と連絡将校が驚いて通信担当者の顔を思わず見る。
「何か重要な通信があったのかね」
「は、報告します」
連絡将校のほうがまず先に述べた。
「海軍の舞鶴鎮守府から戦車揚陸艦が間もなく到着するとの連絡がありました。救援物資と医薬品、それに海軍舞鶴病院の軍医と看護婦も同乗しているとのことです」
周囲から「おおっ」と声が上がる。
「しかし、鳥取港の岸壁は建物が崩れて使い物にならないぞ」
鳥取港は地震で建物が崩れ、クレーンの安全確認もまだできないので荷揚げできないと出席者から声が上がった。
「揚陸艦では、鳥取砂丘へ直接乗り上げて物資を下ろすといってます。それが無理なら、千代川(鳥取市内を流れる河川)を上陸艇で遡上すると」
鳥取砂丘の広い海岸線は、戦車揚陸艦がビーチングするには都合がよかった。
「なるほど・・・。内務部長、君のほうも何かあったのか?」
「はっ。本省(内務省)から連絡がありました。東京消防庁と大阪消防局から、救助部隊の応援が既に出発したとのことです」
「東京と大阪・・・。つまり特救隊が派遣されたということか」
700. テツ 2011/12/14(水) 22:36:50
特救隊、正式には「内務省特殊救助隊」。関東大震災を契機に内務省隷下で編成された、あらゆる災害救助を想定した人命救助のエキスパート集団である。専用の人命救助器具や救助犬も扱っており、日本各地で起きたあらゆる災害救助に従事している。
現在は東京と大阪にしかない、災害救助の切り札である。

海軍の揚陸艦が鳥取砂丘の千代川沿いにある、江津寺と江津神社付近(現在の鳥取県立病院付近)に接岸上陸し物資の揚陸と臨時の野戦病院を開設。鳥取市内の病院で飽和状態であった被災傷病者の収容を行った。
「収容状況は順調らしいな」
幾分緊張が和らいだ島田。海軍が揚陸艦で物資と医者を連れてきたことで、状況が僅かながらも良くなりつつあったからだ。
そして患者の緊急搬送には特救隊の新型ヘリによる大量輸送が大いに効果を上げていた。なんでも、シコルスキージャパン社の兵庫鳴尾村にある工場と隣接する飛行場での慣熟訓練中だったらしく、物資と人員を積んで文字通り飛んできたそうだ。
新型のS-55消防救急用に改造したタイプで、最大で担架6床、機体右側のドアの上に吊り下げ様のホイストロープ、航続距離延長用に増加燃料タンクを装備したタイプだ。軍用機ではないので装甲や機関銃を添え付けるマウントはオミットされている。
東京・大阪両部隊合わせて10機の機体でピストン輸送したせいで、傷病者の搬送に大きな力を発揮していた。
「はっ、午後には他の県からも応援や支援が届くとのことです。陸海軍でも予備役を召集してさらなる増援を行うと」
「ああ、有難い事だ。今が戦時中だと思えば余計に・・・」
その時だった、地震後最大級の余震が鳥取を襲ったのは。


特救隊は、臨時に鳥取高等農業学校の敷地内にヘリの離発着場と拠点を開設していた。広い敷地をもった畜産用の牧場はヘリの運用にも都合がよかったからだ。
「隊長、機体と機材の確認終わりました。目立った被害はないとのことです」
「よし。それで、今すぐ飛ばせる機体は何機ある?」
「は、2機飛ばせます。残りの2機は給油と整備にもう少し時間がかかると。・・・出場ですか」
若い隊員は、イケメンとは言い難い顔を引き締めて尋ねる。
「福部村で余震によって重傷者が多数出たと通報が入った。主要道路は地震で寸断されて現在孤立状態にあるらしい。しかもさっきの余震で山崩れが起きて巻き込まれて重体に陥った者もいる。出せるヘリに機材を積み込んで今いる隊員を集めろ」
「はっ」
若い隊員が駆け出すのを見て、特急隊の隊長はほんの一瞬だけ物思いにふけった。
隊長は転生者だった。前の世界では東京消防庁で消防士を、そして日本最強のレスキューチーム「ハイパーレスキュー」に所属していた。だがこの憂鬱世界でも彼のやることは何も変わらない。

「隊長、いつでも出場できます」
駐機場ではすでに隊員たちがヘリに乗り込んでいた。
「よし、出してくれ!」
すばやく乗り込んだ隊長がヘリの操縦士に声をかける。たちまちエンジンが唸りをあげてヘリが上昇しだした。
機内連絡用のヘッドセットをつけて隊長が隊員たちに語りかける。
「要救助者は村の摩尼寺でこちらのピックアップを待っている状況だ。倒壊家屋の下敷きになった者も新たに確認された。我々はまず倒壊家屋の中に取り残された要救助者の救出を行う。ヘリはまず寺にいる重傷者を収容して病院に搬送せよ」
『よし!』
僚機のヘリにいる隊員も答える。
「全隊員、今一度、特救隊心得を唱和する!」
気合い入れを兼ねて隊長、栗原安秀が吠える。
「はじめ!」
『苦しい、疲れた、もうやめたでは、人は救えない!』
『熱い、きつい、苦しい。そのすべては要救助者の叫びと思え!』
『訓練は人を救う為にある、訓練は自分を守る為にある、訓練は愛するものを守る為にある!』

待ってろよ、生きてろよ、絶対そこにたどり着く!



終わり
701. テツ 2011/12/14(水) 22:39:32
投下終了
書いている最中に救急戦隊ゴーゴーファイブのOP聞く機会があったため、なぜか後半こうなってしまいました(汗

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最終更新:2011年12月31日 19:29