398 :saru ◆CXfJNqat7g:2013/07/01(月) 17:32:56
国語事始

大韓帝國某所

一人の軍人が小振りの花束を石碑に捧げていた。御影石で出来た表面にはその国で使われている二種類の文字が数百個、整然と並んでおり、その上部には一際大きな字でこう刻まれていた──『大韓帝國軍文碑』と。

その人は特権階級の生まれだった。自国が貧しいのは外国の干渉故と信じ、暫くは排外運動に従事していた。しかし殆どの民衆は“国民”という意識すら乏しく、近代国家として成立する為に無知蒙昧な彼等を教化する必要性を痛感させられ、次第に直接的な行動からは距離を置く様になった。
隣国の如く全国民に義務教育を施すのを目標とした彼が最初に躓いたのはその大多数が文盲(非識字者)であり、初等教育に文書を用いる事が出来ないという現実だった。自身は支配階層に必須な膨大な表意文字に通じていたが、そもそもは習得に長い教育期間を要するそれが民衆を文盲に留める要因であった。

幸いというべきか、隣国の漢字に由来する独特の文字と同様の表音文字が五百年前から存在し、細々ではあるが全国的な広がりを持っていた。それを基に数字や度量衡など必要最低限の漢字を混成した文章を国文として普及させようとしたのだ。しかし彼も属していた階層、特に漢文を絶対視する儒学者による長年の排斥や弾圧を経て各地に広まる段階で文字その物や読み方の差異が極めて大きくなり、嘗て敵対していた独立派から現れた賛同者達の協力を得て文字の収集を行う処から始めなければならなかった。

時は流れ、隣国が列強の座から奇跡の大廉売とも云われる連戦を経て世界を二分する程の地域覇権国家へと成り遂せた頃、自国は極めて苦しい立場に追い込まれていた。保護国とされている割に非常に寛大な──単に放置しているとも──扱いを受け乍ら、支配者層の事大主義による敵対列強への内通が発覚したからである。すぐさま粛軍クーデターという形で政変が起こり、誰も彼もが生き残りと潜在的敵対者の排除を兼ねて互いを“反隣国派”として火事場泥棒的に告発する、混乱を通り越した混沌が全土を飲み込んだ。
親隣国派というより現実主義的な軍指導部は事態の沈静化に勤めたが、そもそも将校士官の大半を占める支配者層が率先して火に油を注ぎ、文盲故に一般教育が等閑に附されている事の多い下士官兵は上層部よりも直属の上官の意向を汲む場合が多く、今更ではあるが義務教育の必要性を痛感させられていた。

自国が時代に翻弄される中、その人は表音文字の標準化と併用すべき表意文字の選別・段階的区分について三十年もの長きに渡り営々と編纂を続けていた。そこへ思わぬ場所から手が差し伸べられた──軍である。その人の薫陶を受けた者の中に
無学文盲の身から軍人への道を志し、下士官を経て士官、それも軍指導部に近い立場へ身を置く様になった人物がその人を招聘すべく進言したのだ。
折りしも軍指導部は旧支配者層と実質的に対立しており、それ故に下士官兵の供給源である庶民の教育について儒学の頚木から逃れた表音文字の導入を強く求めていた。唯、表音文字だけでは同音異義語が多く、軍隊の根幹を成す指示命令で用いるには致命的欠陥があった。その解決方法をその人に求めたのである。

399 :saru ◆CXfJNqat7g:2013/07/01(月) 17:34:47
その人は“老骨に鞭打って”という表現そのままに痛々しい姿で自らの成果を開帳した。
先ず地方毎に差異の有り過ぎる表音文字を標準化する所から始まった。これは士官の中からも抵抗はあったが、小国分立からの統一と近代的国家への脱皮を果たした隣国や欧洲の覇権国家の実例を挙げて沈黙させた。次いで数字や階級、部隊規模等の用語や命令に不可欠な表意文字群を三段階に分けて選定、兵・下士官・士官が覚えるべき最低限の物として定義された。
そしてこの両者を縦横に組み合わせた物が軍での公式文書や命令伝達に用いられる事となった。その為、例え勲功があっても兵から下士官、下士官から(准)士官への昇進にはそれに相応する文字群の習得が不可欠とされ、初年兵であっても自分の名を表意文字で書けるまで暴力すら用いられる程の徹底した教育が行われた。
これ等は徴兵制度と併用される事で壮丁のみとは言え兵役を経て一定の言語統一が成される道筋を作り、更には技術の進歩により専門化が著しくなった兵器の操作に士官だけでは無く下士官兵を充てる事が可能となり、軍全体の戦力底上げに貢献したその言葉は何時しか“軍文(クンムン)”と呼ばれる様になった。

一方、かつての(そして現行の名目上の)支配者層は儒学絶対視の観点から表意文字のみで構成された文章を絶対視し、今尚影響下に置いている宮中で公文書から表音文字を排斥し続けていた。これは軍部、そして政府から皇帝に奏上される文書に於いて顕著であり、横書き──欧米由来の物を原語で併記出来るという利点がある──中心の軍文に対して頑なに縦書きを堅持するそれは“宮文(キョンムン)”と呼称された。尤も、宮文を常用する側にして見れば自分達の表記が唯一無二であり、軍文とやらは無学の者が文士ぶる為の落書きに過ぎないという認識だったが。

兵役上がりの庶民が身辺や商売の利便を図って軍文表記を広める一方、旧態已然たる支配者層出身官僚の一部は初等教育への軍文導入を妨害するなど、将来を担う国語の座を巡る争いが熾烈を極める中、その人は死の床で自らの墓所に軍文の碑を建てる事を強く願い世を去った。

そして60年代、軍文は多少の改訂を経て全国民が学ぶべき国語の基礎として義務教育に導入された。巷では未だに軍文派と宮文派に二分された新聞が活字媒体の雄として系列出版社を従えており、売り場では両文併記で高級紙扱いの『日ノ出新報』韓文版を挟んで左右に分かれていたが、建前上は「本来の国語である宮文を学ぶ為の敲き台にして過渡的な物」という形で軍文が実を取っていた。

21世紀の今も「父祖の遺産に泥を塗った」「言語に対するテロリスト」という評価が一部で存在するその人──“軍文先生”こと安重根は故郷の片隅に建立された石碑の下で自国と国語の未来を見据えている。

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最終更新:2013年07月03日 20:44