319 :倉崎ネタの人:2013/11/12(火) 23:31:41

倉崎ネタ続き

倉崎工業は飛行機を開発したことで、世界中から注目を集めだした。その技術力によって列強からの注目をあつめ、貴族や富裕層を中心に飛行機の受注を受けるようになっていた。
そんな中、倉崎はフォードよりも一足早く生産ラインによる大量生産体制の構築にかかっていった。
これにより、職人的な技術者は製造の現場から駆逐されることになってしまった。しかし、これは倉崎の思惑通りであった。自分の息子が成長してきているのをいいことに、経営をほとんど部下と若い息子に任せ、自分は新たに創設した倉崎設計にて職人集団とともに日夜、寝食も忘れて飛行機開発にのめりこんでいったのであった。そして、10年後の第1次世界大戦が始まる前の1914年1月日本の倉崎設計にて、とある飛行機の試作型が完成する。

史実の九一式戦闘機と九三式双軽爆撃機である。(この世界では皇紀2574年なので74式戦闘機と74式双爆撃機)
エンジンは史実の寿エンジンと同程度のスペックで信頼性や耐久性は史実のものよりも格段に良かった(原料の獲得が容易なことと、製造技術のが向上していることによる)
機体構造がすべて金属でできている軍用機の出現はWW1にて敵国であるドイツのみならず、同盟国である英米仏を驚愕させ、世界中で全金属機の開発が加速することとなった。

ちなみに、この機体はWW1の際には青島攻略時に使われ、青島にある艦艇や要塞に対しての爆撃や機銃掃射で損害を与えることに成功している。
また、ヨーロッパ戦線にも遣欧部隊と一緒に輸送され、英国の飛行場から250機の戦闘機と50機の爆撃機が出撃してドイツの首都とラインラントへの爆撃を成功させている。このときのドイツ戦闘機とのキルレシオは15:1とも言われている。
この日本の成果により世界中で航空主兵論が台頭し、米国は海軍軍縮条約による戦艦保有制限もあり空母機動艦隊の整備にまい進したのは余談である。

WW1後倉崎重蔵はほとんどの社長業を息子と部下に引き継ぎ(丸投げともいう)、自分はジェットエンジンの開発とその派生であるターボプロップの開発を進めていき、前回果たせなかったWW2にジェット機(疾風)を制式配備するという野望を実現させるためにさらなる情熱を傾けていくのであった。


321 :倉崎ネタの人:2013/11/12(火) 23:35:25
以上です。さすがにこれ以上は無理です。軍事知識がほとんどなくWiki便りな自分では
新しい機体の設定をつくることがががが。
誰か、ネタとなる設定ください。w

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最終更新:2014年01月18日 10:57