83. 辺境人 ◆8D9w8qm5Zc 2009/04/25(土) 14:50:37
<提督たちの憂鬱  支援SS「飛燕開発物語」>

  昭和14年(1939年)  横須賀。


  坂井三郎海軍少尉は訓練飛行を終えて、滑走路へと着陸、タキシングしながら格納庫へと機体を移動させた。

  制式化されてまだ2年もたっていない九六式艦上戦闘機。坂井はこの機体を気に入っていた。1500馬力の<金星四四型>エンジンは以前の九三式艦上戦闘機と違った大馬力ならではの加速をみせ、その大馬力を受け止める機体も頑丈で急降下ならば600km以上出してもびくともしないのは一撃離脱を得意とする坂井にとって理想的とも言える戦闘機だった。人によっては複葉機の九三式艦上戦闘機と比べると巴戦(ドッグファイト)での旋回性が悪いと言うが十分に腕でカバーできる範囲であった。

  坂井は昭和8年に海兵団に志願、卒業すると同時に士官学校への入学を推薦され、新設された陸海共通の統合士官学校に入学、航空科への志願も認められ新世代の士官の一員として鍛えられた。漠然と思い描いていた航空への道があまりにもあっけなく実現したことに本人も不思議がっていたが、まさか軍の上層部に自分のファンが(それも複数)いるなどと想像の限界を超えているので分からないのも当然ではあった。

  航空科において履修された訓練において坂井は主席で卒業、恩賜の短剣を下賜される。そして卒業後に配属されたのが横須賀航空隊である。ここは海軍航空隊の総本山とも言うべき場所であり、新型の航空機の試験運用や航空戦技の研究などが行なわれる後世の言葉で言うならば実験飛行隊とアグレッサー部隊を兼ねた部隊であり、その訓練の激しさは日本一とも言われる精鋭部隊であった。


「おい、聞いたか。例の新型、増加試作された機体をうちで運用試験をするそうだ」

  食事中、岩本徹三中尉が航空食の玉子焼きを食べながら坂井に話しかけてきた。彼は坂井の長機である。2機1組の編隊2組で一個小隊とした昨今の航空隊編成においてコンビを組む僚機の存在は最近になって重視されてきており、一騎打ちを好む旧世代のパイロットからは二人で一人前の半人前呼ばわりされることもあるが嶋田繁太郎が空母<天城>艦長時代に普及させた無線通信による連携戦術はすでに母艦航空隊だけでなく陸軍も含めた戦闘機パイロット全ての基礎として根付いてきていた。

「九六が制式化されてまだ2年ちょいだってのにもう新型ですか?」

  イワシの丸干しをかじりながら坂井が疑問を口にした。

  横須賀で始まった風習(?)として、パイロット用のメニューは目に良いとされる食物が多い。ニラ、大豆、マグロ、イワシ、サンマ、貝、卵、柿などが食事に取り入れられている(腸内のガスを抑えるためと納豆も取り入れられているが関西出身者に評判が悪くまだ完全には普及していない)。同じく横須賀で研究、取り入れられた視力トレーニング法のせいもあってパイロットの視力は正確な統計は分からないものの確実に史実よりも上昇しており、横須賀航空隊では4.0で普通と言われていた。これらの指導をしたのが夢幻会であることは言うまでもない。
  ただし岩本は珍しい例外であり、視力1.0でありながら誰よりも早く敵機を見つける特技を持っており、敵機を見るのではなく感じるのだと言って「ニュータイプかあいつは……」と某提督を陰で感嘆させていた。

「聞くところによると空母に着艦はできない陸専用の戦闘機らしいが基地防衛用の局地戦として採用できないかってんで倉崎が持ち込んできたらしい。九六と比べても火力も速度も桁違いだって話だ」

「へぇ、九六も相当速いのにそれ以上ってのはすごいですね。パイロットは誰が?」

「まだ決まってない。が、乗ってみたいと思わんか?」

  ニヤリと笑う岩本の表情はどう見ても帝国海軍士官というよりは悪童のようであった。
84. 辺境人 ◆8D9w8qm5Zc 2009/04/25(土) 14:53:46
「……まさか本当に乗ることになるとは」

  一週間後、試作機の前で呆れたような顔でしみじみ坂井は岩本の手腕に感心していた。戦隊長のところに乗り込んで試作機のパイロットに志願するや口八丁手八丁で実現してしまうそのバイタリティには脱帽という他ない。機体が運び込まれる前に赤本(マニュアル)を頭に叩き込み、搭乗後に報告書を大量に書かされるなど色々と苦労もあるが坂井は新型機に乗れるのを楽しみにしていた。

  試作機は見た目からして九六艦戦とはまるっきり違っていた。

  液冷エンジンの特徴である尖った機首を持ち、絞り込んだ胴体は九六式とは違った優美さを感じさせた。大型のラジエーターを機体下部に取り付け、翼も大型機関砲を搭載していることを証明するかのように厚みが増えている。なによりも九六式よりも一回り大きい機体はまだ正式名となってはいないが倉崎工業の開発陣からは<飛燕>と呼ばれる機体だった。

  その機首に搭載されているのは<流星>発動機。これは倉崎重工が開発した新型液冷エンジンであり、通称マーリンJと呼ばれていた。マーリンの名の通り、原型は英国ロールスロイス社が開発したマーリンエンジンである。元が900馬力程度の馬力しかなかったこのマーリン?発動機をベースに二段式過給機を搭載、気化器をキャブレターではなく燃料噴射方式へと再設計したものであり、直径は変わらないものの長さが延長されていた。これにより出力は倍近い1600馬力を発揮、当時の列強諸国のエンジン、DB601やR1830といったエンジンよりも強力なエンジンとなった。史実のグリフォンエンジンほどとは言わないものの、大雑把ではあるがマーリンエンジンの改良の歴史を知っていることで改良の方向性を明確にできたことがなんとかこの時期の完成をもたらしたのであった。
  マーリンエンジンの生産権を取得し、それが九七式中戦車のエンジン(厳密には希少金属などを減らして鉄製部分で代替し、車両用に加給機などを外した別物といって良い)として搭載されることになった倉崎は航空機用でも<流星>エンジンを搭載した戦闘機を採用させんと売り込んできたのである。

  史実の零戦の伝説をこの世界でも生み出さんと倉崎と三菱が共同開発中の十二試艦戦、後に海軍では烈風、陸軍では隼と呼ばれる戦闘機の開発に倉崎は小山悌、三菱は堀越二郎というエースを投入していたが技術の倉崎の名は伊達ではなく、小山と並ぶエースである土井武夫を投入して史実における第二次世界大戦最高の戦闘機と呼ばれるP51の再現を狙ったのだった。マーリンを世界最高のエンジンだと絶賛して是非ともマーリンを搭載した機体を設計したいと常々言っていた堀越などは帝大の同期であった土井に先を越されたと苦虫を噛み潰し、後に土井に酒席で愚痴をこぼしたという。

「おおっ、ずいぶんでかい大砲積んどるなぁ」

  大型の機関砲は正式名称を九七式20mm機関砲と言った。ボフォース社と大日本兵器社がエリコン20mm機関砲をベースに共同開発した機関砲であり突出した性能は無いもののバランスの取れた優れた機関砲であった。

「これが新型の20mmか……こんな大砲を4門とは翼がでかくなるわけだ」

「さてと、そんじゃ乗ってみるか……」

  腕まくりをして岩本が飛燕の操縦席に上り、坂井も同様に乗り込んだ。スライド式の風防を開き中に入るや岩本の上機嫌な声が聞こえてくる。

「うむ、九六と比べても尻の収まりが良いのは変わっとらんな」

  坂井も操縦席に入るや似たような感想を抱く。今まで乗っていた操縦席と比べて計器の位置など若干の改良点はあるが岩本の言う通り九六艦戦に感じていた尻の座り心地が良さは変わっていないのは有り難かった。
  航空機設計においていまだ世界でもそれほど力を入れられていないが後世、人間工学と呼ばれるパイロットが操縦しやすいように椅子の座り心地や見やすい計器配置などを配慮した操縦席の開発を専門とした設計チームが創設された成果なのだが、坂井もそこまでは知るよしもない。キャノピーも窓枠が少なくなっており、視界が改善されていた。

  まだ真新しいオイルの匂いが鼻につく中、防弾用に強化プラスチックが一部に取り付けられて重くなった航空帽をかぶりフットバーに足を乗せて整備員に手を振って発進を伝えると「点火(コンターク!)」と甲高い声と共に発動機が点火される。

「よーし、出るぞ!」

  液冷エンジンが重厚な発動音を響き渡らす。九六式の<金星>空冷エンジンとはまた違った感覚が尻から伝わってくる。坂井は先に滑走路へと移動する岩本の後を追う形で飛燕を動かし、離陸させた。
  高度4千まで九六艦戦よりも素早く上昇し、規定通り試験内容をこなすべくそれぞれ離れて機動試験を開始する。
85. 辺境人 ◆8D9w8qm5Zc 2009/04/25(土) 14:54:27
「おおっ。なんだこりゃ?  こいつなかなかのじゃじゃ馬だ!」

  無線機から流れてきた岩本の声に坂井は思わず岩本機の方向に目をこらすが、無線機からは岩本の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。気の荒い奔馬を乗りこなすような楽しさを堪能しているようだった。

「くっ、こいつの加速はすごいな!」

  飛燕は九六艦戦と馬力はさほど変わらないが機首の尖った液冷エンジンに空気抵抗を可能な限り排除した機体はスロットルをあければ九六艦戦を遥かに凌ぐ加速を見せ、時速700kmの最高速度を発揮していた。急降下をかけてみればあっという間に速度計が動き800km以上の速度を出してもびくともしない。

  坂井は岩本と同じく一撃離脱が得意であったが、同じ一撃離脱でも岩本が垂直降下による攻撃を必勝パターンとしていたのに対して坂井は岩本とは正反対に敵機の死角となる下方向から突き上げる戦法を必勝パターンとしていた(ある意味でこれほどペアに向かない組み合わせもないはずなのだが、何故か二人はぴったりと息の合った連携を見せた)。その意味では加速と上昇力に優れたこの機体は坂井にとっても文句なしの機体と言って良く、すぐに惚れこんでしまう。

「こいつに乗ってればどんな機体がきても負けませんな」

「ああ、まったく同感だな……なぁ坂井、こいつの素晴らしさを下で見物してる連中にも見せてやらないか?」

「いいですね、やりましょう!」

  坂井も興奮しているのか普段は無茶の多い岩本の相棒としてストッパー役な発言が多いのに、あっさりと同調する。坂井自身、史実でも無茶の多かった人間だけに士官になった程度では人間そう本質は変わらないということなのかもしれない。

  糸が繋がっているかのように2機の飛燕が距離をぴったりと保ち編隊を組んだまま基地に向けて急降下、そして引き起こしをかけてそのまま急上昇に入る。天地が逆転し、頭から血が引いていく感覚。G対策として腹に巻かれたサラシも気休め程度には役に立っているのか意識を失うこともなくループを終了して水平飛行へと移る。

  初めて乗る機体で編隊宙返りを行う妙技に地上の兵たちは歓声をあげているかもしれないが、岩本と坂井には顔を真っ赤にしている戦隊長の顔が見えるようだった。

「地上に降りたら戦隊長から大目玉だな」

「お供します」

  二人は地上に降りて戦隊長からこってりと絞られた後、飛燕の性能に惚れこみ連名で早期の制式化を求めるという報告書を提出する。この後、岩本と坂井の二人は耐寒訓練の名目でまだ雪に覆われたカムチャッカへと飛ばされ、更に遣芬義勇軍の一員として北欧の空を九六艦戦と共に飛ぶことになるのだが、結果として二人が飛燕に乗ることなかった。

  試験結果も良好で手ごたえは十分と倉崎は売り込み攻勢を強化したが、ここで最大の障害が立ちふさがる。飛燕よりもわずかに遅れて開発されていた十二試艦上戦闘機、烈風と対決することになったのである。性能的には互角に近いが烈風を陸上機として使うことはできても飛燕を艦載機にすることは不可能ではないにしても難しい(整備性に問題のある液冷エンジンは艦載機には向かないという意見もあった)。ならば機体を共通化するためにも烈風で生産を一本化すべきだ、という意見に飛燕は窮地に陥ったのである。
86. 辺境人 ◆8D9w8qm5Zc 2009/04/25(土) 14:55:03
  これが史実のP51と同じ3千kmを超える航続距離を持っていたならば制空戦闘機として烈風を押さえることができたかもしれない。だが、設計者が史実での飛燕を設計した土井武夫だった影響か、史実の飛燕に比べれば大きいがP51よりは小さいという中途半端な大きさが災いしたのか航続距離は2千km強程度の航続距離であった(史実のP51と同じペーパータンクはまだ開発中であったが採用したとしてもP51には及ばないことがすでに判明していた)。これは戦闘機としては脚の長い方ではあるが、烈風より多少長い程度でありさほど差はない。それに機体設計を含めた理想的なバランスによって高性能を発揮している飛燕と違って烈風は大馬力エンジンに物を言わせた機体であるため、1.5トンもの爆弾を搭載できることから陸軍としては戦闘爆撃機としても使えるのは魅力的であった。

  だが飛燕にも空戦性能ではわずかな差ではあるが烈風を凌ぎ、更に烈風よりも安価であるという強力な利点があり、大蔵省など財務関係者は飛燕を推薦し(それでもコストを考えるなら烈風で陸海共通化して量産効果でコストを落とすべきという意見もまた大蔵省にはあった)、陸軍としても戦車や重砲など予算がいくらあっても足りない状態では飛燕は葬り去るにはあまりに惜しいと考えていた。戦争の行く末を左右することになる主力戦闘機の選定だけにどちらも簡単には引かず、議論は百出してなかなか結論が出ない。

  ここから喜劇的ともいえる飛燕の迷走が始まる。

  大の飛行機狂いとして知られる倉崎の会長、倉崎重蔵の鶴の一声により、飛燕を多用途機としても使えることを証明することでその発展性をPRしようと考えたのである。
  ある程度発展性に余裕があったことが迷走を加速させ、空母で運用できるように着艦フックなどを取り付けた艦載機型、史実の五式戦を参考にわざわざ金星エンジンに換装し性能を落として価格と量産性を向上させた輸出型、翼のハードポイントを増やした戦闘爆撃機型、機首にモーターカノンを搭載した火力強化型、あげくの果てには流星とは直径がまるで違う大型エンジン栄(ダブルワスプ)を無理やり搭載した機体まで開発された。主任設計者たる土井武夫がすでに飛燕の次の主力戦闘機たるジェット戦闘機の開発責任者として転属していたこともあって飛燕の改良は新人や中堅どころの技術者たちが中心になって行われ、腕試しとばかりに様々な派生機が設計されては没になっていった。最高の機体バランスによって構成されていた飛燕の高性能は見事にバランスが崩れ、ピーキー過ぎる奇怪な機体が図面上だけとはいえ乱立したのである(一部は実際に試作された)。

  こうした貪欲ともいえる技術開発のトライアンドエラーの繰り返しによって倉崎の航空技術は三菱よりも優秀と言われ<技術の倉崎>の名を高めているのだが、何にでも表と裏があるようにこうして悪い方に作用してしまうこともある。会長である倉崎重蔵がむしろそうした技術的な挑戦を推奨していたこともあって技術的暴走とも言える機体が作られるのは珍しいことでもなく、倉崎重蔵が引退した後は暴走も減ったが一度染まった社風というのはそう簡単に変わるものではないため倉崎航空名物の技術的暴走は後も続いていくのである。

  結局、飛燕は倉崎とは良好な関係を築いていた陸軍が烈風に不具合が出た時の保険を兼ねてハイローミックスで数をそろえるための機体として採用されたが、開発後半のゴタゴタが祟り(試作機の迷走により実用化した技術を取り入れたせいもある)、開発は烈風よりも進んでいたにも関わらず制式化は零式として採用された烈風に遅れて一式として採用されることとなった。

  こうして混乱の末、誕生した飛燕であったが制式化されてみれば日本最強の戦闘機の地位を名実ともに実証することとなる。若干のマイナーチェンジを施されたことはあってもすでにレシプロ戦闘機の極限近くまで発展していた戦闘機を開戦初頭から配備していたのだからチートにも程があり、その後継機はターボプロップやジェットといった発動機そのものが全く違う機体となったことからもそれが分かる。

  戦略環境の悪化から夢幻会が過剰なまでに戦略爆撃を警戒して戦闘機開発を前倒ししたことで迎撃機としての活躍期間はそれほど長くなかったものの、ジェットなどではまだ無理な長距離侵攻作戦などでは変わらず活躍し、飛燕は第二次世界大戦中、最も美しい戦闘機として知られることになるのであった。

<完>
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最終更新:2012年01月03日 21:32