659 :フォレストン:2014/04/05(土) 12:59:40
豪州陸軍はガチで本土決戦志向。

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱豪州陸軍事情

南半球唯一の有力な国家であり英連邦に所属している豪州であるが、この国の歴史は建国以来血にまみれていると言っても過言ではない。

入植時に先住民族であるアボリジニを虐殺し、さらに英国本国からは犯罪者の流刑地とされていたため、やってきた犯罪者達に狩猟をするがごとく、これまた殺戮されたのである。

1920年代になると、豪州政府はこれまでの方針を転換して保護政策を始め、彼等を白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたのであるが、これは実質的に人種隔離政策であった。
長年住んでいた土地を追われるとあって、当然アボリジニ側も抵抗したのであるが、時の豪州政府は反乱を軍隊をもって鎮圧したのである。

土地を追われて、荒涼な大地で細々と生活することとなったアボリジニであるが、彼らには希望があった。眠れる獅子と言われた清と、列強であるロシアに勝利した東洋の新興国。すなわち日本である。

『何時の日か同じ有色人種である日本が我々を助けにきてくれる。それまで何が何でも生き延びよう』

これが、当時のアボリジニの共通認識だったと言われている。
夢幻会の人間が知ったら驚愕すること請け合いであろうが、この認識はアボリジニ特有のものではなく、当時の有色人種全てに当てはまるものであった。
開国してから瞬く間に列強の座を射止めた日本は有色人種の希望であり、同じ有色人種からは尊敬と、そして期待の大きさゆえに余計な問題も抱えることになるのである。

アボリジニの日本に対する期待感を豪州政府は察知しており、当然ながら日本に対する警戒を強めていった。
日本軍がアボリジニと内通して豪州軍を挟撃する。
当時の日本の実力を鑑みれば絵空事であるが、豪州の軍関係者にとっては悪夢そのものであった。
いっそアボリジニを絶滅させるべきだと言う意見も当時は強かったのであるが、さすがにそのようなことをすれば国際的な非難をあびる可能性が高く、さらに日本軍侵攻の呼び水と成りかねないとして却下された。

「人種問題と豪州の豊富な資源を日本が放置しておくはずがない。」

当時の豪州政府関係者の発言である。
豪州政府がいかに日本に対して危機意識を持っていたかがよく分かる発言である。

軍部は政府以上に危機感を持っており、1930年には国防省で陸海空3軍合同戦略会議が開催され、対日防衛戦力整備要綱がまとめられた。
この要綱は年を経るごとに修正が加えられて第2次大戦終了時まで適用され、豪州軍は要綱に沿った戦力整備に勤しむこととなる。

肝心の要綱の内容であるが陸軍だけ抜粋すると大まかには以下の通りである。

  • 歩兵用小銃の開発
  • 対戦車兵器の開発
  • 新型戦車の開発

1932年の上海事変、1939年のソ連軍のフィンランド侵攻時に見せた日本軍の実力を意識した内容となっているのが興味深い点である。これが可能だったのは、英国本国からの情報提供があったからである。世界有数の情報収集能力を持つ英国情報部は、世界に先駆けて日本軍の最新兵器の情報を不完全ながらも掴んでおり、その情報は豪州政府にももたらされたのである。

英国本国では半ば以上半信半疑とされ、まともに検討されなかったのであるが、日本脅威論に凝り固まっていた豪州軍上層部は真剣に対策を検討し、新世代の兵器開発と実戦化に心血を注いだのである。

660 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:07:36
歩兵装備の小銃であるが、豪州軍では史実よりも早くリー・エンフィールド小銃(Rifle No.4 Mk I)が全部隊に配備されており、新型小銃はこれをベースに開発することになった。

当時の日本軍の主力小銃であった昭5式自動小銃と同じく、自動小銃として開発が進められたのであるが、ちょうど隣国ニュージーランドのフィリップ・チャールトンが、エンフィールド小銃をベースにした自動小銃のアイデアを売り込みに来たのでこれを採用することになった。

オーストラリア・エレクトロラックス社で機関部を含む一部部品の交換、重心バランスを適正化したモデルを開発したのであるが、銃本体のみで7kg以上という重量は取り回すには重量過大であり、自動小銃としては不適格と判断された。しかし、その重量ゆえにフルオート射撃時でもコントロールは容易であり、バイポッドを追加して軽機関銃として採用された。

チャールトン自動小銃改め軽機関銃は、不足していたブレン軽機の穴埋め目的でそれなりの数が量産された。自動小銃としては失敗作であったが、軽機関銃としてはむしろ成功した部類であり、豪州陸軍では1960年代まで現役であった。

チャールトン自動小銃が失敗に終わった原因は使用弾丸にある。
.303ブリティッシュ弾(7.7×56mmR)は反動が強烈過ぎて、単発ならともかく連射には向いていない弾丸だったのである。この問題を解決するには小口径弾を選択するしか方法は無いのであるが、弾丸の選択は兵站に直結するため、たとえ平時とは言えど、おいそれとは出来ない相談であった。

661 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:08:39
チャールトン自動小銃が事実上の失敗に終わった後も、自動小銃の開発を継続した陸軍であったが弾薬の問題は如何ともし難く、最終的に自動小銃の開発は中止されたのである。
豪州陸軍が念願の自動小銃を手にするのは、戦後英国で開発されたジャンソン・ライフル(Rifle No.9 Mk1)を制式採用してからになる。

自動小銃の実用化に見切りをつけた陸軍が、次に目をつけたのが短機関銃であった。
当初の構想では、南下してくる日本軍をニューギニア方面で迎え撃つことが考えられていたため、ニューギニアの大半を占める見通しの悪いジャングルの中で威力を発揮する短機関銃が求められていたのである。

AIB(Army Inventions Board,陸軍発明局)所属のエヴリン=オーウェンが、1940年に完成させたオーウェン・マシンカービンの特徴はその特異な外観にある。銃身の上部という型破りな位置に装着される弾倉、水道管に銃床やグリップを付けたかのような姿は他の銃と見分けるのは容易であった。

使用する弾薬は45ACPが採用された。
在フィリピン米軍との弾丸の融通を考慮したとも言われているが、少しでも威力を稼ぎたいために採用されたのが本当の理由である。

作動方式にはシンプルブローバック方式・オープンボルト撃発という当時の標準的な機構を採用していた。 単純な部品構成によって分解清掃も容易であり、テストでも高い耐久性が確認された本銃は直ちに大量発注された。

自動小銃と短機関銃、どちらも連射能力があるという点では共通であるが、射程、威力、命中精度において短機関銃は劣っており、自動小銃とまともに撃ちあえば短機関銃に勝ち目は無い。
短機関銃の本来の用途は、見通しの悪い場所や狭い場所での取り回しの良さや、突発的な遭遇戦における瞬発火力の展開にあるのである。

上述の短機関銃のメリット・デメリットは陸軍上層部も一応理解はしており、全てのエンフィールド小銃を置き換えるようなことはせず、当初は一部の歩兵中隊の中にSMG小隊を設けるのみであったが、その火力と使い勝手の良さから配備を熱望する兵士が後を絶たず、全ての歩兵中隊にSMG小隊が設立された。

さらには海軍歩兵から、偵察部隊や空挺部隊などの特殊部隊、果てはホームガードに至るまで幅広く使用され、特に戦車兵ではクルー全員が装備している部隊もあったほどである。まさに豪州陸軍を代表する短機関銃となったのである。

ここまで大量に、大々的に採用されたのは豪州という戦場の特異性も忘れてはならない。
そもそも豪州は、そのほとんどが不毛の地であり居住地域は都市部に限定されているため、陸軍部隊を維持するためには都市部かその近郊に陣を構えざるを得ないのである。
豪州の占領・維持は都市部の確保にあるといっても過言では無いのである。

そのため陸軍の戦闘は必然的に市街地での戦闘がメインであり、日本軍侵攻の際には都市に篭って防衛に徹して持久出血を強いるのが豪州陸軍の基本戦略だったのである。

市街地での防衛戦であるため射程距離は必然的に短くなり、短機関銃でも問題無いとされたのである。
防衛戦において、建物内での制圧戦闘が多発することを考えると小銃よりも取り回しの良い短機関銃が好まれたのである。

オーウェン・マシンカービンは豪州陸軍のほか、隣国ニュージーランド軍でも使用され、戦後はカリフォルニア共和国や南アフリカ連邦でも使用されて最終的には50万挺以上生産された。
豪州陸軍では1970年台まで現役であり、数々の紛争で使用されてその有効性を実証した後に後継のサブマシンガンに道を譲ることになる。

662 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:18:06
過去の上海事変やフィンランドへのソ連軍侵攻の際に、日本軍が有力な機甲部隊を保持していることが明らかになったため、豪州陸軍ではその対策に追われることになったのであるが、この時代の陸軍における戦車への対抗手段は2つである。一つは対戦車兵器であり、もう一つは戦車である。

前者の対戦車兵器であるが、英国陸軍で採用されていたボーイズ対戦車ライフルを、豪州陸軍でも制式採用してそれなりの数を保持していたのであるが、昨今の戦車の大火力重装甲化によって威力不足が叫ばれていた。

新たな対戦車兵器を模索していた陸軍では、英国の砲兵将校であるスチュアート・ブラッカー中佐が個人的に開発を進めていた戦車擲弾発射器のアイデアを元に、29mmスピガット・モーターを開発し、開発者の名前にちなんでブラッカー・ボンバードとして1941年に制式採用したのである。

スピガットモーター、直訳すると差込型迫撃砲となるこの兵器は、元をただせば第一次大戦時にミーネンヴェルファーやストークス・モーターと共に多用された曲射砲の一形態である。

歩兵の直協支援用としては砲弾が重過ぎて少量しか携行できない上にストークス型ほどの速射はできず、第一次大戦後はストークス型の迫撃砲に淘汰されてほとんど用いられなくなったのであるが、構造が簡易で生産が容易なため、火砲など重火器の不足していた豪州陸軍においては貴重な対戦車火力として重宝されたのである。

この手の兵器としては大型であったため可搬性に難があったのであるが、可搬性の悪さも上述の砲弾の重さによる携行性の悪さも、市街地で陣地を構築して立て篭もるのが基本である豪州陸軍では問題にはならなかった。
構造に起因する命中精度の悪さは、数を揃えることによる大量投射によって補うこととされた。

ブラッカ-・ボンバードは対戦車用に安定翼付き榴弾を発射でき、日本軍の戦車に対して十分な威力を有すると考えられていた。他に対人用の榴弾も用意されていた。

663 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:19:01
防衛戦に徹するという基本戦略故に、機動性の悪さは度外視されたブラッカー・ボンバードであるが、市街地戦においても迂回しての奇襲戦術は有効であり、歩兵単独ないし数人で運用出来る対戦車兵器が望まれた。

当時豪州陸軍が採用したばかりのNo.68AT擲弾は、いわゆるライフルグレネードであり、エンフィールド小銃に装着して発射するものであった。
理想的な状態で着弾すれば50mm程度の装甲板を貫徹する威力であったが、過去に日本軍の戦車がKV-1の76mm砲弾を弾き返した事例が報告されており、より大威力で携行性に優れた対戦車兵器を開発することになったのである。

新たな対戦車兵器の開発は難航し、そうこうしているうちに日米が開戦して陸軍上層部の焦燥も色濃くなってきた1942年。英国本国から対戦車兵器販売の打診があり、迷わず飛びついたのである。

PIAT(Projector, Infantry, Anti Tank:歩兵用対戦車投射器)は、バトル・オブ・ブリテン時に、本土に上陸してくるであろうドイツ軍の重戦車対策として開発された。

史実のバズーカやパンツァーファウストのように、発射に薬莢に充填した装薬や弾体内部の推進剤の噴射を用いる兵器と異なり、PIATのバネを使う機構は簡易かつ軽量な対戦車兵器を実現し、それが短期間の大量生産につながったのであるが、諸々の事情で実現した枢軸側との早期停戦のために使用する機会もなく、大量の在庫が倉庫で埃をかぶっていたのである。

頭を抱えた補給科将校らであったが、豪州陸軍が対戦車兵器を欲しているとの情報が入ってきたために、渡りに船とばかりにバーゲン価格で在庫を一掃したのである。
英国は不良在庫が掃けて大喜び。豪州は対戦車兵器が手に入って大喜びと、どちらにも損は無いWinWinな取引であった。

PIATの特徴を挙げると以下の通りである。

  • 強力なスプリングと極少量の装薬で発射するのでバックブラストが発生しない。
  • 装薬が少ないために発砲炎が極めて小さく発見されづらい。
  • 低初速なため、弾道が山なりとなり命中率が低い。
  • コッキングするのに強い力(90kg程度)が必要。

史実ではほぼ同時期に開発されているバズーカや、パンツァーファウストに比べて多少メリットも有ったものの、それ以上に運用性に難があり、英軍ではもてあまし気味だったPIATであるが、豪州陸軍で運用するにおいては特に問題にならなかった。

この手の兵器の代名詞とも言える史実のRPG7は、その派手なバックブラストと発砲炎により敵に即座に発見されてしまうため、別名自殺兵器とまで言われているのであるが、技術的に上述のブラッカー・ボンバードの流れを汲むPIATは迫撃砲に近い構造をしており、バックブラストが発生せず発砲炎も発射音も極めて小さいことは、市街地戦において有利となると思われた。

強力なスプリングと少量の炸薬で発射する構造は、発射時における被発見率を低減させたのであるが、その代償としてPIATの初速は遅く、その分砲弾の弾道が山なりとなり命中率が低下したのであるが、待ち伏せて十分に引き付けてから攻撃するので問題無いとされた。

PIATは発射前に内部スプリングをコッキングする必要があるのであるが、このスプリングが曲者であった。スプリングの圧縮のためにはある程度の引きしろが必要であり、小柄な人間だと充分な引きしろが確保できない恐れがあったのである。
コッキングに必要とする力もかなりのもので、非力な人間が行なうと背骨を痛める可能性があっ

たため、豪州陸軍ではPIATを扱う兵士を体格の良い者(180cm以上)に限定していた。

(史実では)半ば以上欠陥兵器であり、ほとんど活躍することが無かったPIATであるが、環境と運用の工夫によって豪州陸軍では個人運用出来る対戦車兵器として重宝された。
その単純な構造故に改造も容易であり、信管形状の改良による不発率の低減や、シアと連動した砲弾の滑り落ち防止装置の追加、新型砲弾の採用による威力増進などの改良が加えられて上述のブラッカー・ボンバード共々1970年代まで豪州陸軍では現役であった。

664 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:21:51
補助的な意味合いも兼ねて、対戦車地雷の開発と埋設方法も研究された。対戦車地雷ならば装甲に関係無くキャタピラを吹き飛ばして戦車を無力化することが可能であるし、停車状態や低速機動している戦車ならともかく、高速機動している戦車にブラッカー・ボンバードやPIATを命中させるのは困難だったからである。

対戦車地雷は中央に踏圧板のある扁平な円筒形の鉄板から構成されており、踏圧板の中央には起爆プラグがあり、使用時にはセーフティを解除するようになっていた。

踏圧板は信管の上にあるベリビルスプリング上に位置しており、踏圧板に一定以上の圧力がかかると、コンサーティーナスプリングが圧縮されて信管を起爆させるようになっていた。
初期ロットには側面および底面に地雷除去対策用に第2信管を設置できる孔が設置されていたのであるが、後期タイプは量産性を考慮して省略された。

現在もそうであるが、戦車というものは視界が極端に悪いシロモノであり、対戦車地雷を埋設するのに高度な偽装は必要無い。しかし随伴歩兵には簡単に発見、除去されてしまうため、対戦車地雷と一緒に対人地雷も設置することが提言された。

当時の豪州陸軍の地雷運用マニュアルでは、対戦車地雷の周囲に数個程度の対人地雷を敷設することと明記されており、状況に応じて信管(感圧式、ワイヤー等)を使い分けて適度な偽装することとされていた。

市街地における陣地の構築、地雷の埋設などには専門の知識技能を持った工兵が必要であり、工兵の大量育成が行われた。合わせて機械化も大々的に行われ、それでも不足する分は民間から徴発することで補うこととされたのである。

日米開戦後には日本軍の空襲も想定されたため、空襲被害からの復旧を迅速に行うためにも工兵の存在がますます重要となり、さらなる工兵の育成が行われた結果、豪州陸軍はその規模に比して異常なほど工兵部隊が多い陸軍となり、数万人規模の工兵を統括するために豪州陸軍工兵司令部が設置された。

戦時の陣地構築や地雷埋設、平時には軍関係の施設の建設管理が主な任務だったのであるが、インフラ整備関連企業の少ない豪州において、道路工事その他のインフラ整備のために幅広く活動を行った。
戦後には英連邦諸国の復旧活動のために各地に派遣されて活躍し、その知名度を上げることになるのである。

665 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:37:22
陸戦の王者たる戦車の敵は、やはり戦車である。
既に対戦車兵器が実用化されているとはいえ、その運用には制約があるために可能な限り戦車には戦車で対抗することが望ましいというのが、当時の関係者の常識であった。

1940年末、試作案であるAC Ⅰ(MK.I Australian Cruiser Tank Mark.I)は、オードナンスQF2ポンド砲を装備したデザインに始まった。初めに意図した設計は、正統派の巡航戦車を目指したものであった。

豪州軍の巡航戦車は、アメリカ軍の中戦車M2のエンジン、変速機、下部車体、砲塔を基礎に用いた。さらに英軍のクルセーダー巡航戦車の設計に沿い、一体構造で作られた上部車体と砲塔を組み合わせた設計となっていた。

豪州軍期待の新型巡航戦車AC Ⅰは1942年初頭にセンティネルと名付けられた。開発そのものも順調に進み、年内に量産を開始するメドも立っていたのであるが、ここで凶報が飛び込んできたのである。

1942年9月16日。
日米が開戦して1ヶ月経ったこの日、上海に続いて満州の要衝たる遼陽が陥落した。
現地メディアの情報を収集し、さらに英国本国経由の情報も統合すると、在中米軍の戦車M2は日本軍のタイプ97に全く歯が立たずに一方的に撃破されたという衝撃的な結論に至ったのである。

センティネル戦車はM2をベースに開発したといっても良い戦車であり、性能もそれに準じていた。裏を返せばタイプ97には絶対に勝てないということである。

この事態に陸軍上層部は恐慌状態に陥ったのであるが、すぐに立ち直るとセンティネルの改設計を命じた。

原設計からの変更点は以下の3つである。

  • より大出力なエンジンへ換装
  • 大口径砲の搭載
  • 装甲厚の増大

シンプルであるが、王道とも言える。
王道ゆえに確実な効果が見込めるのであるが、簡単に出来れば苦労しない。王道とはそんなものである。

まずエンジンであるが、原設計では330馬力のベリエ・キャディラックを積んでいたのを、より大出力なエンジンに換装することになった。

ちなみにベリエ・キャディラックは、3基のキャデラックV8エンジンを結合した24気筒マルチバンクエンジンである。

初期の案ではプラット・アンド・ホイットニー R-1340単列星型ガソリンエンジン、またはギバーソン星型ディーゼルエンジンがあったのであるが、当時の豪州の工業技術水準その他諸所の事情で豪州ではこれらを使用することができなかったため、苦肉の策としてこのような形式のエンジンを搭載することになっていたのである。

改設計案では、400馬力クラスの出力が求められたのであるが、適当なエンジンが見つからなかったため、戦闘機用のエンジンであるロールス・ロイス マーリンをデチューンして使用することが検討されたのであるが、当然ながら空軍から猛反対を受けることになった。

結局、エンジンを改良することで出力を確保することになり、クランク・ケースを共通化する等の改良を施したベリエ・キャディラックは397馬力を発生することが可能になったのである。

エンジンの確保が出来たら次は武装である。
豪州において火力向上に利用可能な砲は、オードナンスQF25ポンド砲(87.6mm)であった。
砲弾に一般的な榴弾以外にも徹甲弾が用意されており、戦車砲に改造するのに都合が良かったのである。

25ポンド砲は金属製の薬莢を使用する薬莢砲であるが、弾頭と薬莢が分離された分離薬莢式の火砲であった。対戦車戦闘用の徹甲弾を高初速で発射するためには、スーパーチャージと呼ばれる強装火薬を使用する必要があるのであるが、反動が強すぎるため戦車砲に改造する際に砲口にマズルブレーキが装着されている。

高出力エンジンに大口径砲、この2つを積むにはM2をベースにした原設計案では車体が小さすぎたため、車体の全面的な設計変更が行われた。全長は1m近く延長され、全幅も広げられた。
当然重量も増大したため、M2戦車に倣って採用されたVVSS(Vertical Volute Spring Suspension:垂直懸架サスペンション)からHVSS(Holizontal Volute Spring Suspension:水平懸架サスペンション)に変更された。

666 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:41:07
豪州で戦車を作るにおいて、その工業水準の低さに起因する数々の問題が発生したのであるが、その中で最大の難物だったのが装甲板の作成である。
計算上の重量限界が30t弱であり、そこから逆算すると40mm~60mm程度の装甲板が必要だった。

原設計案では厚いところでも30mm以下であり、この程度なら既存の設備を活用すればなんとかなったのであるが、それ以上となると設備も人材もノウハウも無かった。国内でなんとか出来ないなら他所を頼るしか無いのであるが、アメリカは津波被害で半壊してそれどころでは無かったので、結局英国本国に頼ることになったのである。

英国も余裕は無かったのであるが、豪州からの申し出を意外とすんなりと了承している。もちろん、もらえる物(資源&食糧)はきっちりもらったのであるが。

欧州枢軸側と停戦していた英国では、津波被害からの復興と海軍の再建が最優先であり、本土決戦にしか使えない対戦車兵器や戦車、それを造るための設備などは重要視していなかったのである。
英国からしてみれば豪州の申し出は、休眠状態の施設をロハ同然で稼動出来て、戦車作りのノウハウを得る絶好の機会であった。

改設計案ではセンティネル巡航戦車は、4つの大きな鋳造ブロックから構成されており、最大のものはメイン車体でそれにノーズパーツがボルト止めされ、機関室カバーと砲塔が取り付けられていた。
戦車部品でこれほど大きなものを鋳造したことは英国でもこれまで無かったことであり、貴重なノウハウを得ることが出来たのである。この時の経験が英国の次期主力戦車の開発で生きることになる。

667 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:41:51
さて、英国で戦車というと当然17ポンド砲である。
自国の戦車が軒並みこけている英国では、17ポンド砲搭載の戦車の開発も当然難航していた。
そこに鴨がネギしょってウェルカム状態だったのが、豪州から持ち込まれたセンティネル巡航戦車だったわけである。

英国陸軍ではセンティネル戦車が17ポンド砲搭載に足ると見ており、豪州陸軍から試験用にセンティネル戦車を譲り受けて、17ポンド砲搭載型を試験したところ結果は良好で、英・豪州両陸軍の上層部を歓喜させたのである。

改修の結果、重量は若干増大したものの、トーションバーサスペンションの採用により、接地長も増したため接地圧は改修前より低くなり、路外機動性が向上した。反面、最高速度が低下してしまったため、日本軍の戦車の機動力に対抗するためにエンジン出力の向上が図られることになった。

開発に英国も参加しているとはいえ、生産は豪州で行うので現地で調達出来るエンジンが望ましかった。
そこで航空機用エンジンであるジプシー・メジャーを4基結合して、マルチバンク化することになったのである。このエンジンは練習機用のエンジンとして当時の豪州で生産されており、その信頼性は折り紙つきであった。

開発者からは『カルテットエンジン』と呼称された新型エンジンは、ジプシー・メジャーを扇状に4基結合した複列16気筒空冷ガソリンエンジンであった。
空冷エンジン故に狭いエンジンルームに搭載すると冷却不足に陥る可能性があったので、強制空冷ファンを追加装備している。

定格出力は420馬力であるが、このエンジンには水噴射装置が装備されており、エンジンルーム内に水噴射することによって、短時間であるが500馬力近い出力を出すことが出来た。
空冷エンジンだからこそ可能な荒業であるが、豪州の地で運用した場合、噴射した水に埃が混じり、さらにそれがエンジン熱で熱せられて泥状になってこびりつくので、整備兵泣かせのギミックであった。

エンジン出力を強化した結果、最大速度は56km/h(緊急最大出力で65km/h)にまで向上し、これは中戦車としては当時世界最速であった。
反面装甲がやや薄かったので、後期生産タイプではボルト締めで増加装甲を追加している。

17ポンド砲を搭載し、各部を改修したセンティネル戦車は英国側でサンダーボルトの愛称がつき、それがそのまま豪州側での制式名となった。

改良というより完全な新規設計となったセンティネル改め、サンダーボルト巡航戦車は、1943年8月に豪州ニュー・サウスウェールズ州のチュローナ工廠で組み立てが開始され、英国本国から送られてきた鋳造ブロックを組み立て、エンジンや武装を組み込んで完成させたのである。

豪州陸軍では対日戦用として月産70輌、総計で2000輌という途方も無い大量生産計画を立ち上げたのであるが、その場合ネックとなるのが装甲板製造関連施設である。

英国本国からの輸入に頼っていては生産が頭打ちになるのを恐れた豪州側は、設備の移転を強く働きかけたのである。英国にしてみれば戦車開発ノウハウが手に入ったうえに、老朽化した設備を買い取ってくれるわけで悪い話ではなく、早速施設移転の計画が立てられた。
1944年半ばごろまでには、英国から関連設備が移転されて完全一貫体勢で生産が可能となるはずであった。関係者の誰しもがそう思っていたのである。1944年1月10日までは…。

豪州陸軍関係者の、英国まで巻き込んだ戦車開発は1944年初頭に開催されたサンタモニカ会談によって水泡に帰した。曲りなりにも終戦となったため、軍事予算は真っ先に削られることになり、サンダーボルト巡航戦車の大量生産計画は破棄されたのである。

最終的に120輌生産されたサンダーボルト巡航戦車は、豪州陸軍機甲部隊に編入されて改良を加えられながら、1970年代まで現役であった。その後は予備兵器として現在でも保管されている。

サンタモニカ会談による第2次大戦の終結と、英国本国からの度重なる忠告(警告)により強硬路線から一転、対日融和路線に傾かざるを得なかった豪州政府に対して、陸軍上層部が政府に対して強い不満を抱き、後に事件を引き起こすことになるのであるが、それはまた別の話である。

668 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:46:49
あとがき

というわけで、豪州陸軍について書いてみました。
海軍はどうしようも無かったですが、陸軍は弄り甲斐がありました(オイ

戦闘が市街地戦メインという設定は、豪州の人口が都市部にほぼ限定されてしまっているからです。ここらへんの設定はガンダム外伝から引っ張ってきてます。
水も電気もその他インフラも都市部でないと手に入らないため、都市部の確保が重要となるわけで、それを逆手にとって豪州陸軍は都市に篭って防衛をするわけです。

戦略としては、都市近郊で機甲師団が主力となって日本軍を迎え撃ち、劣勢になったら都市部篭って持久出血戦法をとります。仮に都市部で戦闘になった場合、それこそ史実のスターリングラードの再現となることでしょう(怖


以下登場した兵器です。

チャールトン軽機関銃

重量:7800g(弾薬除く)
全長:1150ミリ
使用弾薬:.303ブリティッシュ(7.7×56mmR)
装弾数:ベルト給弾
作動方式:セミオートマチック・ガスオペレーション
発射速度:600発/分
銃口初速:744m/秒
有効射程:910m
最大射程:1830m

フィリップ・チャールトンのアイデアを元に、リー・エンフィールド小銃をベースに機関部を含む一部部品の交換、ハンドガード、ピストルグリップ、バイポッドを追加したモデル。
当初は自動小銃として開発が進められたが、重量過大のため軽機関銃として採用された。
史実では豪州モデルとニュージーランドモデルの2つが存在したのであるが、本銃は豪州モデルにニュージーランドモデルの機構を組み込んだ折衷案となっている。


オーウェン・マシンカービン

重量:4210g
全長:806mm
使用弾薬:45ACP
装弾数 27発(箱形弾倉)
作動方式:シンプル・ブローバック
発射速度:700発/分
銃口初速:280m/秒
有効射程:200m

エヴリン=オーウェンが開発した短機関銃。
開発時期と使用弾丸が9mmから45ACPに変更されているのが、史実からの変更点。(史実での生産開始は1942年。45ACP使用モデルは試作のみ)
特異な外観が特長であるが、構造がシンプルで分解整備が簡単に行えるうえに耐久性も高いという理想的な短機関銃。シンプルな構造故に大量生産向きでもあり、憂鬱世界では最終的に史実の10倍である50万挺以上が生産された。


ブラッカー・ボンバード(29mmスピガット・モーター)

重量:156kg
要員数:3人
口径:29mm
発射速度:12~15発/分
最大射程:対戦車弾頭で91m以上
     対人弾頭で457m以上

史実のブラッカー・ボンバードそのもの。
スチュアート・ブラッカー中佐が個人的に進めていた設計案を、AIB(Army Inventions Board,陸軍発明局)が入手して開発、1941年に実用化というのが拙作SSの設定。
構造が簡易で生産が容易なため、火砲などの重火器が不足気味だった豪州陸軍では重宝された。威力はともかく、砲弾が重過ぎて少量しか携行出来ず命中精度も悪いため、市街地で強固な陣地を構築して大量運用するのが基本であった。


No.68AT擲弾

重量:894g
弾頭:リッダイト、ペントライトもしくはRDX/蜜蝋
炸薬量:156g
信管:着発

史実では世界で初めて実戦使用されたとされるHEAT兵器。
豪州陸軍でエンフィールド小銃が全廃されなかった原因の一つである。

669 :フォレストン:2014/04/05(土) 13:47:31
続きです。

PIAT

口径(弾頭直径):76mm
全長:99.04cm
重量:14.4kg
砲身長:86.4cm
弾体長:38.1cm
弾体重量:1.35kg
対戦車有効射程:90m
最大射程:685m
使用弾種:対戦車成型炸薬弾、破片榴弾、煙幕弾など

史実では散々な評価だった対戦車兵器。
バックブラストが発生しないという利点を生かして、隠れて至近距離から側面を狙えばタイプ97だって殺れるはず…。


対戦車地雷

重量:9.1kg
直径:333mm
高さ:83mm
爆薬:TNT 4.45kg
作動圧力:160~340kg

性能的には史実米軍のM6対戦車地雷そのもの。
タイプ97を擱坐させるには十分な威力…なはず。


サンダーボルト巡航戦車

全長:6.32m  
全幅:2.77m   
全高:2.56m 
重量:32t 
懸架方式:トーションバー
速度:56km/h(65km/h)
行動距離:290km
主砲:オードナンス QF 17ポンド砲(弾薬50発)
副武装:7.7mm ヴィッカース機関銃 1挺(弾薬2500発)
エンジン:デ・ハビランド ジプシー・メジャー × 4 420馬力(緊急出力480馬力)
乗員:4名
装甲 
砲塔前面:63.5mm
砲塔側面:50.8mm
砲塔後部:50.8mm
車体前面(上部):63.5mm(傾斜66度)
車体前面(下部):50.8mm(傾斜付き)
車体側面(上部):44.45mm
車体側面(下部):44.45mm
車体後部(上部):44.45mm(傾斜70度)
車体後部(下部):44.45mm(傾斜70度)  

史実ではアメリカからM4が大量に供給されたので、試作のみに終わったAC?そのもの。
名前はAC?からそのまま使用。英国でも少数生産された。
17ポンド砲の威力はタイプ97を殺るには十分な威力であり、大量配備が熱望されたが終戦のため生産は少数で打ち切られた。

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最終更新:2014年04月06日 22:18