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支援_yukikazeさま_旅順要塞の砲兵隊司令官であったV・ベールイ少将の日記
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540.
yukikaze
2010/11/20(土) 21:46:01
憂鬱について8で旅順戦が話題になったので、日記形式のSSを
日露戦争において、ともすれば二次戦線として忘れがちな旅順包囲戦であったが、開戦より1年近く堅持した要塞が陥落したと言うニュースは、
列強各国においては「ロシアの敗勢濃厚」と見られる一因にもなった。
ここで、当時旅順要塞の砲兵隊司令官であったV・ベールイ少将の日記を紹介することで、旅順要塞部隊の心情がどのように
変化して言ったのかを見てみたいと思う。
1904年2月10日
マカーキどもが、無謀にも我国に戦線を布告してきた。
実に愚かなと思うが、心配なのは本国より増援軍が到着するまでの間、マンチュリアにおける我が方の軍勢は劣勢であり、本要塞がしばらくの間孤立せざるを得ないことと、本要塞が未だ未完成状態であると言うことだ。
無論、ポート・アーサーにいる我が艦隊が目障りなマカーキどもは、本要塞に攻め寄せるだろうし、それを撃退するのが我々の役目なのだが。
1904年2月24日
予想通りマカーキどもは攻め寄せたのだが、忌々しいと言うか小癪と言うか、夜にまぎれて小型ボート(注:水雷艇のこと)で襲撃を繰り返してきた。
艦隊の被害はそれ程でもなかったのだが、襲撃を防げなかったと言うことで、海軍側からステッセル司令官に猛抗議が為され、責任者である私が謝罪する羽目になった。
元はと言えばお前等が暢気に港に停泊しているからだろうが!!
1904年4月13日
この日、海軍の連中はまさに葬式であった。
陸軍軍人としても尊敬すべき男であったマカロフ提督が戦死なされたのだ。
心配なのは、水兵達が口々に「もう終わりだ」と嘆いていたのだが、このことが旅順要塞に敗北主義を植えつけることにならなければいいのだが。
541.
yukikaze
2010/11/20(土) 21:47:02
1904年4月20日
要塞司令官であるスミルノフ中将が苦虫を噛み潰している。
理由は簡単で、海軍の水兵共の悲観主義に街中が動揺しつつあることと、この事態に腹を立てた陸軍将兵との間で乱闘騒ぎが起きていることであった。
誰も声には出さないが、こうした状況が続けば「ウラジオに出て行け」などという言葉が将官会議で出てきそうではあるが。
1904年5月10日
この日の将官会議は大荒れであった。
日本海軍の艦隊がよりにもよって、海上の堡塁に対して砲撃を加えたからだ。
無論、こちらも砲撃を加えたのだが、演習をまともにやっていないツケが出て、打撃らしい打撃を与えることが出来ずに、逆に3隻の奇妙な艦(注:松島級のこと)による艦砲射撃を受け、湾口出入り口を守る砲に被害が出ることになった。
海軍側は私の無策を大いに責め立てたのだが、ことが部下達への誹謗中傷になったときは流石に我慢が出来ずに、「ではこちらが必死になって撃っていたときにお前等は何をしていたんだ」と怒鳴りつけ、最後は喧嘩別れに近い状況になった。
会議終了後、ステッセル司令官からお小言を受けたのも気に食わない。
弾薬の節約命じたのはお前だろうが。
1904年5月15日
とうとうあのごく潰し共が出撃をした。
湾口を守る堡塁が一時的に無力化されたのを受けて、あの奇妙な艦が堂々と湾内に艦砲射撃を加えて、眠りこけていた連中の戦艦一隻と巡洋艦一隻を大破してのけ、港にも被害を与えたからだ。
勿論連中は文句をつけてきたのだが、「だったらお前等の砲をうちの堡塁に貰えんだろうか。マカロフ閣下が亡くなって「終わりだ」と敗北主義述べているお前さんたちに使われるよりも遥かに仕事するだろうよ」とスミルノフ中将に嫌味を言われて、にっちもさっちもいかなくなったらしい。
我が陸軍の兵士諸君が罵声と嘲笑を浴びせて連中の出航を見送ったのも当然だと言える。
1904年5月16日
ごく潰し共がボロ負けを喫して帰ってきた。
戦艦5隻の内、1隻が撃沈。4隻が大・中破。巡洋艦や駆逐艦を見捨てて逃走したのだから、馬鹿かアホかと。司令官も完全に呆れ果てて、有無を言わさずに、生き残った艦艇で使える砲を堡塁用に取り上げて、更に海軍将兵を陸軍に編入して工事に使うことを決定した。せめて最後くらいは役に立ってもらわないと困る。
542.
yukikaze
2010/11/20(土) 21:48:01
1904年7月30日
遂にマカーキの陸軍が本要塞に迫ってきた。司令官の命令で、海上堡塁の建設に全力を費やすことにしていた為、前線兵力の一時的な減少を招き、鳳凰山を突破され、そして大弧山と小弧山まで占領されることになった。
海上からの砲撃に神経を尖らせるのは当然だし、その点で皆も賛同したのだが、大弧山が奪われたのはいささかまずかった。あそこは要塞各所への観測は限定的なのだが、港や市街地への観測も可能ではあるのだが。
1904年9月1日
我が軍は遼陽で大敗を喫したそうだが、ここは平穏であった。
恐らく2個師団強(注:実際には3個師団。攻囲するのは14師団と15師団。そして戦時編制された16師団。軍司令官は川村景明)で攻め寄せてきたマカーキ達は、来てから今まで黙々と塹壕線を掘っているのである。当初は、塹壕を利用しての攻城戦かと思ったのだが、むしろ包囲戦をやるらしい。連中も、半年以上かけて補強したここを攻め寄せるのは無謀と言うだけの頭はあったのか。
1904年11月15日
悪辣極まりないマカーキどもめ!! 魔女の婆さんに呪われるがいい!!
奴等が攻め寄せなかった理由はこれだったのか。
忌々しい。実に忌々しい。
半月前から始まった野戦重砲による市街地攻撃。やつらはまともに要塞に攻め入ろうとせず、野戦重砲を市街地に撃つことで、市民の不安を掻き立てやがった。
最初は「市民を撃つとは何事か」と猛抗議をした司令官たちの言葉にマスコミや市民も賛同したのだが、それも「市民を盾に安全な所に篭っているお前等が言うな」というマカーキの司令官の言葉の前に、徐々にその勢いを失い、今では市民から白い目で見られる有様だ。司令部の一部には、司令部機能をどこかの堡塁に移すべきだと言う意見も出ているのだが、司令官は「通信の問題がある」と気乗り薄らしい。
1904年12月6日
ポートアーサーの雰囲気は日に日に悪くなっている。
連中の陸海軍による包囲の締め付けが徐々に市民生活に響いているからだ。
一度、前線の堡塁から、野戦重砲陣地や、大弧山の観測所に向けて砲撃を加えたのだが、すぐに反撃の砲撃を受けて、沈黙することになった。
既に司令部では、コンドラチェンコ中将を筆頭に、敵の観測所に向けて総攻撃を仕掛けるべきであると言う意見が日増しに強くなってきている。
場合によっては堡塁の砲兵部隊まで狩り出す可能性もあるのだから、私にとっても人事ではないのだが。
1904年12月16日
将官会議において、これ以上包囲が続くと、壊血病によって、3万人以上いた正面戦力が半数以下に陥ると言う報告がなされた。
配給面において一番恵まれていたはずの正面部隊がそれなのだから、他の部隊はおしてはかるべしである。出撃を求めるコンドラチェンコ中将の意見に、大多数の将官も賛同し、消極的な姿勢を示しているのは、ステッセル司令官くらいであった。
要塞守備を重視するのは当然なのだが、現状のままでは戦わずして崩壊しかねないのだから、状況打開のためには決戦せざるを得ないのだが。
543.
yukikaze
2010/11/20(土) 21:48:45
1904年12月25日
最悪のクリスマスを迎えた。
大弧山に向けて出撃した主力部隊が壊滅的な被害を受けて戻ってきた。
彼らの塹壕線を叩き潰すために、5日にも渡る猛砲撃を加えたにも拘らず、彼らは塹壕に待避壕を作っており、こちらが突撃したと同時に、濃密な機関銃による十字砲火を受けて、我が軍の精鋭たちは、バタバタと倒れていった。
4度に渡る波状攻撃も空しく、我が軍は主攻略目標に達するどころか、最初の塹壕すら越えることが出来ず、総兵力2万で攻め込んだのに、死傷者が6割近いという壊滅的打撃を受けることになった。
総司令官であったコンドラチェンコ中将も、撤退戦指揮中に敵の砲撃で重症を受けてしまい、我が要塞の士気はどん底になっている状態である。
1905年12月30日
かねてより療養中であったコンドラチェンコ中将が亡くなられた。
あちこちで「俺たちの大将がなくなった」「もう終わりだ」という声が巻き起こっている。流石に士官たちが注意をして回るのだが、その声にも精彩はなく、酷いものになると下士官兵たちと共に自棄酒を飲むものまで現れていると言う。
どうなるというのだ・・・この要塞は。
1905年1月1日
緊急の将官会議だが、降伏論と徹底抗戦論に分かれた。
私は砲弾がまだ充分にあることを理由に、徹底抗戦を求めたのだが、フォークは小麦と肉の備蓄量がもう1月しか残っていないことを暴露して、降伏を主張する。
司令官はコンドラチェンコ中将が亡くなったことがショックだったのか、降伏論に傾いているらしい。しっかりしてくれ。あんたがそういう態度を示すと、周りが困るんだ。
1905年1月18日
司令官と、降伏論者のフォークが話し込んでいるらしい。嫌な予感がする。
1905年1月19日
要塞降伏の使者が派遣された。
我々は、マカーキ・・・いや日本軍の掌で完全に踊らされた挙句、降伏という恥辱を受けることになった。この怒りは誰に向ければよいのだろうか? 狡猾な日本軍か? 降伏を決めた司令官か? それとも孤立無援のままわれわれを追い込んだ上層部か? わからない・・・
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