12. ham 2009/03/21(土) 17:16:27
作者  辺境人


<提督たちの憂鬱支援SS  〜美術(?)編〜>  

  大正9年(1920年)。フランス。

「ここがそうか……」

  古賀峯一海軍少佐はパリの郊外近くにある建物を前に一人呟いた。

  高い塀に囲まれ、警備員も立っている厳重な建物の中に入っていくと中は北斎や広重などの浮世絵や水墨画、鎧兜や日本刀といった様々な品がガラスケースの中に陳列されていた。1階は日本美術だが、2階に行くと一転して西洋美術も陳列されている。ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ、ロートレック、モディリアーニ……当時としても名が知られる芸術家たちの作品が多数陳列されている。
  建物の門の左右には看板が1つずつつけられており、片方にはフランス語で「ミュゼ・ジャポニカ」、そしてもう一方には墨痕も鮮やかな日本語で「日本帝国美術館  仏蘭西別館」書かれていた。


  夢幻会が美術関係に手を出すこととなったのは古くは明治時代まで遡る。

  逆行者は何故かオタクが多い(というかジャンルの違いや深みにはまったレベルの差はあれどオタクしかいない)。そして漫画の内容なら台詞などを全て正確に覚えているというオタクには珍しくもない(?)特殊な記憶力の持ち主も相当数存在し、そして漫画のジャンルには美術関係を主題とした作品も多かった。そこで未来知識を生かして将来億単位の価値を持つことが分かっている美術品の先物買いを行なうという芸術への敬意の欠片もない活動が行なわれることとなったのである。

  そうした活動を行なうために帝国美術院を創設、日本美術以外にも西洋美術や日本以外の東洋美術などありとあらゆる芸術を学べる環境を整えるという名目の下、東京美術学校と東京音楽学校を史実より早く統合し日本芸術学校を創設するなど大鉈をふるった。

  その結果、西洋美術と日本美術とで対立していた日本美術界の混乱が無理やり帝国美術院という形で統合されたことで混乱もひとまず収まることとなる。やはり自分だけの美意識を持ち、それを重視する芸術家を責任者にすると他の美に対する評価が辛くなってしまうということなのだろう。

  史実では敗戦時に日本にあった美術品の相当数が海外に流出してしまったが、まだこの時代では多数の美術品が国内に存在している。それを生かして諸外国に日本美術をPRしていった結果、ジャポニズムの影響がまだ強く残るフランスのような芸術にうるさい国の上流階級との接触が増え、時には美術品を日本国が寄贈することで外交活動がスムーズにいくという副産物的な効果が発揮されるようになった。外務省では外交官に芸術関連の勉強をするようにしたほどである(特に日本美術は必須であった。自国の芸術を知らずに他国の芸術に詳しくても逆に馬鹿にされるのが上流階級の紳士淑女の常識というものだからである)。

  そしてそれは芸術関係に限らず様々な分野に影響をもたらすこととなる。
  古賀少佐がフランスに着任してすぐにこの美術館に赴いたのもそれが原因だった。
13. ham 2009/03/21(土) 17:17:17
「ようこそ、古賀少佐。当美術館の副館長をしております佐藤です」

「初めまして。帝国海軍少佐、古賀峰一です。この度は在フランス駐在武官に任じられましたのでご挨拶に参りました。手紙を預かっておりますのでお渡しします。本国のご家族からの手紙だそうです」

  敬礼をして、日本を出る時から預かってきた封筒を渡す。これで任務の一つは完了した。だが、まだ気は抜けない、というか目の前の男は気を抜いて相手をして良い相手でもないと認識していた。
  紅茶を口にして、一息ついた後、世間話に興じつつ把握しておくべき内容を口にする。

「他の国への展開はどうなっていますか?」

「さすがにここほど大規模な美術館は無理ですが、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダ、スペイン、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ポーランド、ベルギー、トルコなどに画廊を開く準備ができています。国際情勢によっては貴重な美術品を守るため場合によってはいつでも店を引き払えるようにしなければなりませんので港に近い方が有り難いですがやはり首都の方が人の出入りも多いので難しいところですね」

「いずれ引き払うにしても当面力を入れるべきは……」

「アメリカは別格として欧州ではドイツとポーランド、でしょうな。特にドイツはバロック調の美術品も多いですし均整の取れていない点が日本人好みで、もしも作品を日本で展示したらきっと大きな反響があると思いますよ」

  帝国美術院は欧米の美術界にネットワークを作り上げようとしていた。それは第二次世界大戦という嵐の中で多くの美術品が失われ、略奪されたことを知っていたためである。有名なところではナチスドイツが行なった美術品の略奪やナチズムに沿わない芸術の追放運動などで焼かれたり行方不明となった美術品は山ほど存在するし、逆にドイツから大戦末期にソ連軍がベルリンを含めてドイツの美術品を略奪した例も存在する。そうした美術品を戦火から守るために活動を行なう……というのが言わば建前の話。いかに夢幻会の権力が強かろうと美術品のためだけにそこまではしない(そうした美談を得るための宣伝はもちろんするが)。

  その芸術関係のネットワークは実は諜報関係のネットワークと重なっていた。美術関係者として外国に入国し、諜報活動を行なう。それが美術院に活動費として会計予算以上の予算が投じられる理由だった。

  そしてこの目の前にいるにこやかに芸術に関して語る佐藤と名乗った男こそ(名前も本名かどうか怪しい)、欧州の諜報責任者であり明石元次郎から伝わるスパイ網を引き継いだ男なのであった。いかに夢幻会の関係者とはいえまだ少佐でしかない古賀としてはできれば関わりあいになりたい相手でもない。情報関係者が探るのは何も敵だけとは限らないのだから。

  そしてドイツとポーランド、この組み合わせは史実を知る古賀にとっては自明の理だった。
  ドイツ軍のポーランド侵攻、第二次世界大戦の号砲ともいえる事件を前もって予想し、あらかじめ諜報網を作り上げるということなのだろう。おそらく画廊を引き払っても諜報網が残るように準備万端整えるに違いない。

「そうですか。それは楽しみですね。いずれ日本に帰った時に良い土産話になりそうです」

「よろしければどうぞ館内をご自由に見てください。ゴーギャンの絶筆などここでしか観れない作品も多いですからな。一見の価値あることは保証しますぞ」

「ありがとうございます。それでは拝見させていただきます」

  にこやかな表情を意識して作りながら古賀は思った。ここは歴史に名が残る芸術品に囲まれた美の神殿かもしれないが、一歩裏に入れば万魔殿だ。外国人に日本の食文化を紹介するため日本茶や和菓子を出す和風カフェは魅力的だが、よほど切羽詰らない限りここに出入りするのはやめよう。こんなところで食べても味がよくわからないに違いない。

  そう決心した古賀だったが、遠い異国の地での和食への魅力は耐え難く、数少ない海外の日本人向けとして裏メニューに白米と味噌汁も出ると聞いて再び訪れることになるのは数ヶ月後のことであった。

<完>

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最終更新:2011年12月29日 19:26