9. ham 2009/03/21(土) 17:14:04
作者  辺境人  すいません
>>8
書き忘れました。

<提督たちの憂鬱  支援SS「対戦車ライフル」編>

  どこか遠くで砲声が聞こえてくる。西部戦線では時報代わりに大砲が使われるほどありふれた音だった。兵たちも特に動揺することもなく、東から来るだろう敵軍にのみ神経を集中する。

  1918年3月、フランス東方。

  第一次世界大戦における最後の年、1918年春季攻勢と呼ばれたドイツ軍最後の大規模攻勢の中、日本帝国陸軍は連合軍の塹壕陣地の一角に陣取り、敵の襲来を待ち構えていた。
  
「戦車だ!」

  恐怖をにじませた叫びに日本兵たちはつばを飲み込み三八式小銃を握る手に力をこめる。同盟国たるイギリス軍の戦車の登場にはさすが大英帝国とその技術力に圧倒され、同時に勇気づけられたが敵軍のドイツも戦車を投入してきた時には若い兵たちが少年時代に胸躍らせて聞いた日露戦争の武勇談などとは全く違うまるで別世界の戦場に放り込まれたかのような錯覚に陥らせた。

  数年に渡り長く続く大戦で各国の兵たちの士気も下がり、ドイツやロシアでは革命の機運すらあるという状況の中、日本軍は例外的に高い士気を維持していた。それは列強に比べてまだまだ弱小国である日本の地位を高めなければならないという当時の日本人に流行していたコンプレックスじみた強迫観念からきていた。つまるところ白人相手にみっともないところを見せられないという見栄のようなものである。  

  だが、それだけでなく司令官の命令で戦車を相手どる時の戦術があっという間に立案されたのも大きかった。優れた将が兵をしっかりと掌握し、動揺を毛先ほども見せずに自信を持って命令を下す姿は兵たちに勇気と安心感を与えてくれたのだ(司令官が日露戦争でも活躍した歴戦の英雄であるということも大きい)。

「火炎瓶の用意はできてるな!」

  古参兵がガスマスクを首に下げたまま大声で叫び、ドイツ兵から奪ったルガー拳銃を左手に持ち替え、右手で用意された火炎瓶を箱から取り出す。ガソリンに砂糖を混ぜた単純な代物だが、戦車に有効だということで西部戦線では「サムライ・カクテル」の名で流行していた。

  機甲戦術のノウハウすら存在しない時代とはいえ、機関銃を連射しながら突っ込んでくる戦車相手に歩兵が無闇に突撃しても蜂の巣になるだけだのためギリギリまで引き付けて塹壕から飛び出るよう命令されている。それでもなお後方からのドイツ兵の援護射撃に薙ぎ倒される可能性は高い。
  故に日本軍は可能な限りの策を練り、待ち構えていた。すでに撤収した最前線の塹壕を乗り越え、無限軌道の規則正しい、だが神経にさわる音が地響きと共に近づいてくる。歩兵で戦車とやり合う以上は引き込んで戦うしかない。だが、それは一つ間違えれば陣地を突破されかねない危険な選択でもある。

「てっ!」

  ドンッ、と小銃などとは比べ物にならない、だが大砲ほどでもない中途半端に大きな銃声が多数戦場に響く。

  次の瞬間、ドイツ戦車の側面に多数の弾痕がつけられその中の一発が砲塔に命中、貫通していた。何発かは覆帯を破壊している。側面でも20mmと恐らく防御力に措いては世界最強の戦車だが砲塔部や転輪はさすがにそこまで厚くはない。砲塔内部の射手は間違いなく即死だろう。それでもなお戦車は恐竜のごとく一部の損傷など気づいていないように動き続けるが、覆帯が破壊されてしまえばまともに前進することはできない。

「煙幕展開!」

  手製の煙幕弾や撤収していた塹壕に設置した燃料に有線で着火され、ありとあらゆる手段で戦車とその後ろに続いて突撃しようとしてくるドイツ兵との間を分断する。まだこの時代は歩兵と戦車が同時に進撃し互いをカバーするといった戦術は確立されていないのが幸いしていた。それでも機関銃の弾は煙幕ごしに襲ってくる。
10. ham 2009/03/21(土) 17:14:51
「肉攻班、突撃!」

  号令と共に塹壕に伏せていた歩兵が沈黙した砲塔の方角から煙幕にまぎれて突撃していく。煙幕ごしの射撃に倒れる者、火炎瓶を打ち抜かれ火達磨となる者、方向転換した戦車にひき潰される者もいる中、ある程度の距離まで接近して火炎瓶を投擲、何本もの激しい炎を噴き上げ、戦車が炎と煙に包まれ中から火達磨になった乗員が悲鳴をあげつつ転がりおちる。世界大戦ではこのような凄惨な光景は珍しくもないが見てて気持ちの良い光景でもないため即座に慈悲の一撃として銃弾が撃ち込まれトドメが刺され、兵たちは直ちに塹壕へと撤退していく。この時、すでに10名以上の兵が戦死していた。

「目標撃破!  次弾を装填して再攻撃準備!」

  ボロ布をかぶせて隠蔽された浅い塹壕に伝令が伝えられ、臨時編成された対戦車狙撃小隊の兵たちはボルトを引いて空薬莢を取り出し新たな銃弾を装填していく。ズキズキと痛む肩を片手でもみ、新たな攻撃に備えて三脚で据え付けられ、さらに地面にがっちりとボルト留めされた巨大な銃を構えなおした。

  五年式大型狙撃銃。
  遠距離から自動車を狙撃するために開発されたというこの巨大な銃が使えそうな体躯の良い兵を砲兵や輜重など力自慢の多い部隊から射撃の上手い者が出兵前から選抜されていたが現地で戦車の噂を聞くや直ちに対戦車小隊と改名されていた。

  装甲の厚いドイツ戦車を撃破するために複数の狙撃手で同じ目標を狙いどれか一つでも機関銃や砲を沈黙させたなら煙幕を展開し、その方角から火炎瓶を持った歩兵が肉弾突撃を行なう。この戦術で少なくない犠牲者を出しながらも戦車を撃破することで日本兵は歩兵だけで戦車を撃破する戦術を確立していた。
  この日、日本軍陣地に突入してきたドイツ戦車は8両。連合軍の砲兵隊の援護を得られなかった日本兵たちはそのほとんどを歩兵のみの肉弾突撃によって多くの犠牲を払いながらも撃破した。連合軍司令部はその奮闘を称え戦後、イギリスとフランスの両国から勲章を与えられることとなる。

「日本兵1人は植民地兵5人に匹敵する」

  (時代故の人種的偏見が有るが)そう絶賛した某国の将軍がいたほどである。

  この奮戦により歩兵による戦車撃破が十分に可能であり、戦車不要論という誤った主張が戦後、陸軍に流布しそうになり、その修正に当時の欧州派遣軍司令官が「もっとちゃんとした対戦車兵器があればあれほど部下を失うことはなかった」と歩兵による対戦車戦闘を強く戒めることとなるが、それほどこの時の日本兵の強さは際立っていた。

  英国に日本の利用価値を認めさせ同盟関係を変わらず維持するため、近代戦を直接経験させ戦訓を蓄えるため、様々な理由があったがそれでもその代償を得るには血を流さなければならない。
  そして今回のドイツ軍の攻勢を凌いでもそれだけで戦争は終わらない。いかに日本兵が奮闘しようともたかだか二個師団にすぎず、遠い日本からでは満足に補充兵を送ることも難しく、戦局を変えることなどできようはずもなかった。

  この戦いの後、英仏両国は作戦指導の統一をようやく成し遂げ、毎月数十万人が送り込まれてくるアメリカ軍を主力としてドイツに対して最終攻勢をかけることとなる。
  第二次マルヌ会戦、アミアンの戦い、サン・ミッシェルの戦いといった歴史に名を残す激戦に日本軍が参加するのはこれよりおよそ4ヶ月後の事であった。

<完>
11. ham 2009/03/21(土) 17:15:28
>兵器データ
五年式大型狙撃銃(後に五年式対戦車銃と命名変更)
口径:13mm  装弾数:1発(徹甲弾使用)  銃身長:1100mm  重量:13.5kg
作動方式:ボルトアクション方式
<解説>
第一次世界大戦時、本格参戦を計画していた日本は第一次世界大戦で登場した新兵器、潜水艦、航空機、戦車、毒ガスに対する対策をあらかじめ(他国にバレない範囲で)計画していた。その中で対戦車用兵器として開発された世界初の対戦車ライフル。遠距離から自動車を狙撃するための大型狙撃銃という口実で開発され、当時の技術で装甲貫徹能力を高める手段としては単純に弾を日本の6.5mm規格を倍にした13mm口径にして火薬量を増やし更に弾頭を可能な限り硬度を高めた鋼芯弾頭(タングステンなどの素材は当時の日本の技術力では加工がまだ無理であった)にしただけの徹甲弾を特殊弾として採用した。そこまでしても重装甲のドイツ戦車の装甲を破るのは難しかったため、主に砲塔部やキャタピラなど比較的装甲の薄い部分を狙っての攻撃が主な攻撃法である。反動が凄まじいので銃口にマズルブレーキをつけストック部にゴムパッドを装備するなど一部に先進的な機構が取り入れられたが、それでも当時の日本人の体格では厳しかったため体格の良い兵から射撃の上手い者だけを選抜して配備された使用者を選ぶ兵器である。この活躍により対戦車ライフルは陸軍においてそれなりの信頼される兵器となったが後継となる銃器は開発されず(いずれ時代遅れになると分かっている兵器であり、対物ライフルとしても日本人の体格では辛いという意見が夢幻会で主流であったため)、後にブローニングM2重機関銃が代用されることとなる。

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最終更新:2012年07月06日 23:02