739 :グアンタナモの人:2014/11/09(日) 19:44:45
 日本において、最も有名な熊とは誰だろうか。
 そう巷で問うた時、誰もが口を揃えてこう応えるであろう。
 それはヴォイテク軍曹だ、と。

 これは夢幻の中にあっても数奇な運命を辿ることとなった、一匹の忠実なる兵士の物語である。



     ――― 提督たちの憂鬱支援SS・ヴォイテク軍曹 ―――



 全ての始まりは、一九四二年に遡る。
 当時、西アジアに位置する国家、イラン帝国では前年に発生したイラン進駐(*1)を受け、
 国内に駐留していた大英帝国を筆頭とする旧連合軍が英独停戦に基づき、
 順次撤退を行っている最中であった。

 そんなイラン帝国領ハマダーン州にて、親を亡くした一匹のシリアヒグマの子供が現地の少年に捕獲された。
 そのシリアヒグマの子供を捕まえた少年は、
 船便の順番の関係から未だ現地に駐留を余儀なくされていた自由ポーランド軍の兵士達に対し、
 数個の缶詰と引き換えに捕まえたシリアヒグマの子供を譲渡した。
 このシリアヒグマの子供こそが、後のヴォイテクである。

 ヴォイテクを自由ポーランド陸軍の兵士達が引き取ったのは、半ば気紛れのようなものだった。
 イラン帝国がドイツ第三帝国に接近したことにより、
 イランが有する潤沢な石油がドイツの手に渡ることを恐れて進駐に踏み切った旧連合軍であったが、
 巻き込まれた側のイラン人達にとっては、招かれざる占領軍であることに変わりは無い。
 当然ながら、彼ら自由ポーランド軍に向けられる視線も厳しかった。
 だが撤退しようにも、祖国を失った彼らの行き先は不透明であり、撤退の優先順位も後の後に回されている。
 ドイツ第三帝国と手打ちを行った大英帝国は、彼らを含む各国の自由政府軍を切り捨てようとすらしていた。
 唯一、旧連合軍を構成していた大日本帝国が彼ら自由ポーランド軍の収容を行うと公式に宣言していたが、
 数万人規模の彼らをすぐさま撤退させるには輸送船の数も足りておらず、
 彼らは失われた祖国から遠く離れた西アジアの地で、不安を抱えながら日々を過ごすことを強いられていた。

 そんな彼らの下に舞い込んできたのが、幼いヴォイテクだった。
 不安を抱える自由ポーランド軍将兵にとって、ヴォイテクは貴重な癒しとなった。
 まだ一歳にも満たないヴォイテクは酒瓶に詰められたコンデンスミルクを飲みながら、すくすくと成長。
 そんなヴォイテクの姿は、いつしか付近に駐留する自由ポーランド軍の非公式なマスコットとなり、
 今にも折れそうな彼らの心を支え続けたのである。

 そして、ついにハマダーン州に駐留する彼ら自由ポーランド軍にも撤退の日が訪れた。
 彼らに割り当てられた日本の輸送船団が到着したのだ。
 だが、ここで一つの問題が起きた。そう、ヴォイテクの扱いである。
 日本軍は航海の安全上、猛獣の乗船を認めていなかった。
 つまり、このままではヴォイテクは船に乗ることが出来ないのだ。
 この事態に対し、自由ポーランド軍は大騒ぎになった。
 当初こそ気紛れであったとはいえ、今では家族同然であるヴォイテクと別れる気にはとてもなれなかったからだ。
 どうにかして、ヴォイテクを連れては行けないだろうか。
 こうした少なくない将兵達の声を聞き届けたのが、
 現地の自由ポーランド軍の指揮を預かっていたヴワディスワフ=アンデルス中将(*1)だった。

740 :グアンタナモの人:2014/11/09(日) 19:45:40
 数日後、輸送船に乗船する自由ポーランド軍の兵士達と名簿とを照らし合わせていた
 日本海軍の中尉が、名簿に記載されている一人の二等兵が姿を見せないことに疑問を持った。
 それについて自由ポーランド軍の兵士に問うと、兵士達は口々に彼は頑固で部屋から出てこないと語る。
 しかし当然、それで許されるはずもなく、中尉はその二等兵を連れてくるように彼らへ命じた。
 そして数分後、中尉はやって来た二等兵の姿を見て、思わず言葉を失った。
 自由ポーランド軍団第二二補給中隊所属、ヴォイテク二等兵。
 なんと彼は、熊であったのだ。

 誰の仕業かと言えば、アンデルス中将の仕業としか言いようが無い。
 彼はヴォイテクに正式な陸軍二等兵の階級を与え、
 自由ポーランド軍団第二二補給中隊所属の一兵士として扱うことで、輸送船に乗船させようとしたのだ。
 結局、アンデルス中将の試みは露見し、思わぬ事態に日本軍を上から下に騒がせることになったが、
 後に詳しい説明を受けた日本軍は最終的に絆された。
 日本海軍の将兵が突貫で輸送船にヴォイテクが乗船できる空間を整え。
 そこに入ることを条件にヴォイテクの乗船を認めたのである。

 この乗船を認める旨を日本軍が自由ポーランド軍に対して伝えた際の
 映像が偶然にも従軍記者のカメラに収められており、手放しで喜ぶ自由ポーランドの兵士達と
 見様見真似で両手を天に向かって振り上げるヴォイテクの姿が今なお残されている。

 その後のヴォイテクと自由ポーランド軍が歩んだ道は、決して平坦なものではなかった。
 まず彼らは日本へと向かう途上、マラッカ海峡を抜けたところで大日本帝国が
 中華民国及びアメリカ合衆国と相次いで戦端を切ったとの一報を耳にする。
 そのため、彼らを乗せた輸送船団はアメリカ軍の攻撃を警戒し、海南島へと一時避難。
 そこで情勢が落ち着くのを待つことになった。
 そして、ここでもヴォイテクは活躍を見せる。

 当初、日本海軍の輸送船団から降り立ったとはいえ、
 海南島の住民達は見慣れぬ白人の軍隊に戸惑いを見せていた。
 しかし、そんな中にあっても無邪気に振舞うヴォイテクの姿が
 徐々にではあるものの、双方の緊張を溶かしていったのだ。
 また自由ポーランド軍も現地の日本軍に協力する形で、海南島の開墾作業に従事。
 戦時下故に万が一、補給が滞るような事態を想定し、
 この時期一気に拡充された海南島の耕作地の一部を
 自由ポーランド軍が開墾した、というのは現地では広く知られている話だ。

 幸か不幸か、戦争は大日本帝国の優勢で転移した。
 海南島も海上封鎖を受けることはなく、中華民国の降伏とアメリカ合衆国アジア艦隊の壊滅を受け、
 島を取り巻く情勢もほぼ安全と言えるまでに回復する。
 そこで自由ポーランド軍はようやく海南島を発つことになった。
 この頃には海南島の住民達も自由ポーランド軍に心を開いており、
 彼らが島を発つ際には多くの住民が港に駆けつけて見送ったとされている。
 中でもヴォイテクを惜しむ声は大きく、一部の住民はヴォイテクを描いた大きな旗を振っていたようだった。

 こうして海南島を発った自由ポーランド軍とヴォイテクは一路、大日本帝国東北地方の宮城県へと移動する。
 そして、現地の王城寺原演習場へと集められた彼らに対し、日本製の武装が大量に提供された。
 それを手にした彼らは、海南島に居た頃とは打って変わって日夜、錬成に励むこととなる。
 表向きは自由ポーランド軍の錬度維持とされていたが、
 当時、日本軍が計画していたアラスカ侵攻(*2)に際し、
 大日本帝国と自由ポーランド政府の間で密約が交わされており、
 自由ポーランド政府と自由ポーランド軍への支援継続と引き換えに、
 自由ポーランド軍がその戦力の一端として組み込まれる予定だった、という説が現在では最も有力だ。

 さて、ここにおけるヴォイテクはどうだったのか。
 驚くべきことに、彼は所属していた第二二補給中隊の兵士として弾薬運搬作業に従事していた。
 冗談ではない。事実である。
 これまた切っ掛けは見様見真似であったと考えられるが、
 自由ポーランド軍の兵士達に混じり、人間では持ち上げるのに一苦労する重い弾薬箱を一匹で抱え上げ、
 運搬トラックへと載せる作業をせっせと行っていたのだ。
 これには軍事顧問として参加していた日本陸軍の将兵も驚いたとされ、
 ヴォイテクを自由ポーランド軍でも指折りの優秀な輜重兵とする資料が公式に残っている。

741 :グアンタナモの人:2014/11/09(日) 19:48:13
 しかし結局のところ、アラスカ侵攻は実際に行われることなく、太平洋戦争は終結した。
 されど、彼ら自由ポーランド軍には向かうべき戦場が存在していた。

 大日本帝国軍北米派遣軍。
 カリフォルニア共和国を筆頭に米国風邪の影響を受けて、
 混迷を極める北米太平洋沿岸諸国に対する鎮定の戦力として向かうことになったのだ。
 大日本帝国が設置を約束した自由ポーランド自治区(*3)のために
 実質的な外国人部隊として、日本軍の指揮下に組み込まれた彼ら自由ポーランド軍は、
 自由フランス軍などと共に北米派遣軍の中核として機能し、
 北米封鎖線後方における警備活動を担い続けた。
 その中には当然の如くヴォイテクの姿もあったとされる。
 この頃には陸軍伍長にまで昇格していた彼は弾薬箱の代わりに
 食料品や医薬品が詰まった箱を抱え、後方での支援活動に従事(*4)していたようだ。

 その後、北米派遣軍の縮小に合わせて、自由ポーランド軍も順次撤退。
 一部はそのまま大日本帝国陸軍外人部隊(*5)として残されたものの、
 大半は大日本帝国領東遼河に沿って設置された、遼河外灘自治州へと収容。
 現地の国境警察隊として、再編されていった。
 そして陸軍軍曹に昇進後、自由ポーランド軍の解散によって
 軍を退役する形になったヴォイテクは、その国境警察隊に再就職。
 国境警察隊警視の階級を得た後、国境警察隊官舎の一角に住処をもらい、
 一九七〇年(*6)に最期を迎えるその時まで、そこでかつての戦友達に囲まれて平穏に暮らした。
 享年は二十八歳。
 死後、国境警察隊の両方で二階級特進を果たし、国境警察隊警視長の階級を得ている。

 こうしたヴォイテク軍曹の記録は、自由ポーランド軍と行動を共にする機会が多かった
 日本軍の手によって数多く、かつ克明に残されていた。
 また当時、日本軍が行っていたとされる自由ポーランドに対するイメージ戦略の下、
 広く喧伝されたことで大日本帝国の一般臣民にも広く知られており、
 さらには一九五〇年代、日本のとある映画会社がアニメーション映画の題材として
 ヴォイテク軍曹を取り扱うまでに至っている。
 これは後にオーパーツとも称される〝銃を手に怪異と戦う空飛ぶ魔女〟のアニメーション映画と共に
 日本における最初期のアニメーション映画の一つとして有名であり、
 彼が日本において最も有名な熊とされる主因と言っても過言では無いだろう。

 自由ポーランド陸軍軍曹、ヴォイテク。
 もしも遼河外灘自治州、東波(フスフト=ポルスカ)自治市を訪れる機会があったならば、
 東波中央駅前の広場に足を運んでみて欲しい。
 そこには彼の銅像がある。砲弾を抱えた、自由ポーランドの英雄たる彼の銅像が。

(終)

 *1 : 史実ではソヴィエト連邦軍に抑留されたが、
    この世界においては脱出を果たし、自由ポーランド軍団の指揮を取っていた。
 *2 : 所謂、星一号作戦。アメリカ合衆国崩壊により、実際には行われなかった。
 *3 : 後に遼河外灘自治州、東波(フスフト=ポルスカ)自治市として結実する。
 *4 : この功績が称えられ、後に功六級金鵄勲章が授与されている。人間以外では唯一無二の勲章授与者である。
 *5 : 遼河外灘自治州などからの志願兵が組み込まれる伝統部隊となる。
     また第二二補給中隊も存続しており、部隊章には〝砲弾を担ぐ熊〟が採用されている。
 *6 : 戦友達と共に暮らせたこと、さらには日本の好意で獣医が付けられたことで史実より七年も長生きしている。

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最終更新:2014年12月02日 23:01