10 :yukikaze:2015/02/07(土) 21:58:18
61式中戦車殿∩( ・ω・)∩ばんじゃーい

61式中戦車

全長:   8.80m
車体長:  6.90m
全幅:   3.18m
全高:   2.25m
全備重量: 35.0t
乗員:    3名

主砲 58式105ミリ戦車砲(史実試製十糎戦車砲(長)の改良)
副武装 7.62ミリ機関銃×2(主砲同軸及び車長用キューポラの左側)
エンジン 三菱DL10T 4ストロークV型12気筒空冷ターボチャージド・ディーゼル 600馬力
速度 45km
装甲厚 90ミリ(車体前面:Strv.103A戦車並みに傾斜)35ミリ(車体側面)25ミリ(車体後面)

(解説)

朝鮮戦争において名実ともに復活を遂げた日本陸軍であったが、その時対峙したソ連義勇軍の装甲部隊は、極めて脅威と言える代物であった。
この時期の日本陸軍の主力戦闘車両は、M4A3E8シャーマン中戦車およびM24チャフィー軽戦車であったが、これらの車両は信頼性が高く、第二次大戦型戦車としては標準クラスの性能を誇っていたものの、独ソ戦という次元の違う戦車戦を勝利してのけたソ連軍機甲部隊と比べるとどうしても見劣りがするものであった。

故に日本軍としては、M26パーシング、出来ればM46パーシングⅡを供与してもらう事を望んでいたが、アメリカ軍としても自軍や欧州に同車両は必要とされており、日本軍が望む数量を供与するには時間がかかるのは明白であった。(実際には、M48の大量生産により、日本側にも予想より早くM48戦車手に入りました。)
これにより、機甲部隊の一派が、勾配の強い我が国においては、M26はアンダーパワーで柔軟な機動運用に難があり、M46は供与がまだ先。しかも両者ともに90ミリ砲であり、T-55やスターリン重戦車相手では不利になるならば、我が国で自主開発した方がよいのではという意見が出ることになり、三菱重工業もそれを後押しした。

結局、「アメリカからの供与を待っているだけでは防衛整備に不安定さを覚えることになり、また防衛産業の育成も必要になってくる」という意見の元、国産戦車開発がスタートすることになる。

11 :yukikaze:2015/02/07(土) 21:59:00
同戦車の最大の特徴は、砲塔を廃止していることである。
これは同戦車が計画された時に主敵と考えられた、スターリン戦車及びT-55戦車を打ち破るためには100ミリ砲以上の主砲が必要とされたからであり、そして数量ではソ連が圧倒的上である以上、可能な限りアウトレンジで撃破することが必要であると考えられたからである。
そのため同戦車では、主砲の旋回・俯仰機構を省略できることと、主砲が動かないことで自動装填装置が採用し易く、それによって発射速度の向上と装填手が廃止でき車体の小型化が可能であるとして、砲塔の廃止及び主砲を車体に直接固定装備していたのである。

勿論、照準のためには、主砲の微調整が必要だが、左右の照準は車体を旋回させて行い、主砲の俯仰は油気圧式サスペンションを利用することで、主砲の俯仰は、-10~+12度の範囲で可能であった。
(史実90式戦車のように、前後部だけが油気圧、他はトーションバー)
主砲は、戦前に搭載が計画されていた試製十糎戦車砲(長)を改良することで処理している。
これは当時日本が入手可能であった西側諸国の主砲が、パーシングⅡの主砲位しかなく(L7は1959年に開発完了)また自動装填装置の採用が絶対条件であった事から(彼らは発射速度の低下を極度に嫌った)、戦前に計画されたホリ車の主砲を流用することにしている。
車体後部に設けられている自動装填装置の弾薬庫は主砲を挟んで左右に分けられており、各22発ずつ合計44発の105mm砲弾を収容した。
同砲は、初速とAPDS弾や粘着榴弾等の採用により、元となった砲よりも威力は向上しているが、それでもL7に比べると劣っており、74式戦車が採用されて以降は、榴弾の比率を多くして、歩兵部隊の直協的な役割を担わされるようになる。
なお、後期型ではアクティブ式暗視装置が最初から組み込まれ、前期型も適宜改修されている。

車体は圧延防弾鋼板を溶接した低平な箱型構造で、特に車体前面は避弾経始を考慮して鋭利な楔形にデザインしている。車内レイアウトは車体前部が機関室、車体中央部が主砲を装備した戦闘室、車体後部が自動装填装置と弾薬庫となっており、車体前部に置いたエンジンも、被弾の際には乗員を守る装甲の一部として考えられている。
ただし、この配置は砲弾の進歩によりあまり用をなさなくなり、更に言えばエンジン交換の為に、前面装甲に穴をあけてボルトで止める方式にした為、カタログスペックよりも耐弾性能に劣ることになった。
(幸いにもカンボジア紛争では、RPGや無反動砲が主であった為、前面装甲にあたっても事なきを得た)

エンジンは、三菱が戦前から得意としている空冷ディーゼルを採用すると共に、トランスミッションについてはパーシングⅡ戦車シリーズに採用されたクロスドライブ式自動変速・操向装置をライセンス生産して採用している。(当初は供与およびノックダウン)
サスペンションについては、前述したように、前後の4軸が油気圧式サスペンションで中央の2軸はトーションバー式サスペンションにしたが、導入当初はトラブル続出であり、かなりの批判を浴びることになる。
また、車高低減の為、上部支持輪を廃止したが、そのせいで走行中に履帯が外れ易いという悪癖を持つようになり、急遽、履帯脱落防止装置を取り付けている。

同車は1961年に61式中戦車として採用され、量産性に優れた車両であったことから、74式戦車が導入されるまで820両もの大量生産がされ、日本陸軍の機甲戦力の向上に買うことになる。
もっとも、将兵の評価は二分されており、戦前の従軍経験のある者は「97式中戦車殿が更に立派になって戻ってきてくださった」と大喜びしたのに対し、アメリカ製兵器に慣れた人間は「何で居住性とか防御力とか改悪するんだよ」と、不平をこぼしてもいる。(ただし機動性や主砲の威力については評価している)
そして、74式戦車導入後は、対戦車隊に配属される事になるが、混成旅団においては最後まで主力として使われており歩兵の友として将兵に愛されることになる。
特に第七混成旅団(善通寺)の将兵は、カンボジア紛争において、自分達の守り神として傍らで奮戦した同車に対する愛着は深く、同車が退役した2000年において、塗装をきれいに白く塗り直し、「我らが偉大な戦友である61式中戦車殿に敬礼」と、自費で退役セレモニーを行っている。

同車は、いくつかの問題点はあったものの、戦後の技術的空白期を克服し、他国の戦後第1世代MBTに引けを取らない戦車を作り上げ、カンボジア紛争でも活躍をしたことから、見事にその役割を果たしたと言えるであろう。

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最終更新:2021年04月05日 09:26