288 :弥次郎:2016/03/15(火) 20:00:20

【ネタ】瑞州大陸転移世界 徒然点描2 価格大変動

さて、江戸時代には象徴的な物価の変動があった。
いくつかの例を挙げれば、塩・砂糖・ゴム・生糸がある。

まず塩である。これは戦国時代に松平家が収入源の一つとしていた塩の生産の方法が、全国へと広まったことによる。
揚浜式塩田という極めて労力のかかる手法から入浜式塩田や流下式塩田といった効率的で楽のできる方法が完成したのだ。
だが、松平家は、というか夢幻会はこれを広めることで塩の価格暴落などが起こることを恐れた。たかが塩であるが、
その影響力は極めて高い。塩は醤油・味噌に使われるし、保存食づくりには欠かせないもののひとつである。
つまり、戦国時代においては一種の戦略物資というべきだろう。迂闊に量産方法を広めれば、周辺の大名から付け狙われる
原因を自ら作ることになる。

江戸に幕府が成立し影響力が全国に及んだ頃、幕府は塩の専売制を行うことを宣言した。
容易な塩の生産が可能になった一方で、塩が余り飽和状態となることを抑制し、安定した市場を構築するための策だった。
とはいえ、砂糖などと同様に保存食品に使えることもあり、賞味期限などもきちんと管理すれば存在しないも同義の塩は
開拓を行う人々にとっては重要だった。特に瑞州内陸部では沿岸から遠いこともあり高値で取引された。

塩が若干関連するので補足するが、江戸時代においてかなり魚も普及した。
以前述べたようにリヤカーや馬車の普及で物資の運搬速度は向上し、また氷室がより普及して鮮度が保ちやすくなったことが
普及を後押しした。また、今でいえば冷凍保存に近い状態を維持したまま運搬するリヤカーないし馬車として氷室車が登場。
それまで人の足に頼っていたことで生まれていた限界を突破する要因となった。
ここには塩の価格が下がって、生産がより効率的になったことで塩漬けや干物の価格が落ちていたことも由来するようである。
瑞州の内陸部では魚を求めて専用の馬車鉄道が用意されるほどだったという。勿論牛や豚の肉を食べる例もあったのだが、
やはり日本人にとってなじみがあったのは魚の方なのだろう(※1)。干物・塩漬け、あるいはそれに類する保存食が
開発され、
また、船舶の大型化によって釣り上げた魚を生け簀に入れるスペースが生まれたことで、傷が少ない高品質な魚が手に入るようになった。
こうした技術の進歩は、所謂海なし県と呼ばれる地域へ海魚を届けることを可能とし、栄養状態の改善に大きく貢献した。

ここら辺の異様な発達や、加工すらも行うことが可能な大型船が建造されるといった動きが見られたのは、やはり諸藩に
紛れ込んでいる夢幻会のメンバーが、前世で食べた物を、あるいは前世では高すぎて手に入らなかったものを食べようと
努力したのが関連しているだろう。

289 :弥次郎:2016/03/15(火) 20:01:22

続いて、砂糖。
これもまた、薬や高級嗜好品として珍重されていたのだが、江戸時代に入り比州(フィリピン)・台湾・琉球が支配下に入った
ことで、安定して砂糖の生産が可能となり、価格が落ちて行った。加えて、テンサイの導入が東北や北海道において進み、
比較的土地の余っていた瑞州北部でも輸入されたテンサイが栽培されるようになると、生産量は格段に増えた。
日本の南北でしか生産できないとはいえ、航海技術の向上や気象観測データの蓄積に伴い、本土へと輸送されやすくなったことが
価格変動に大きく影響し、戦国時代におけるステータスを示すものとしての価値はほぼ失われたと言ってよい。
これを良いとみるか悪いとみるかは微妙だが、所謂生理食塩水への利用や嗜好品の普及、さらに保存食への利用が容易となり、
開拓へと活用されたことは大いに喜ぶべきことだろう。砂糖は過剰摂取はまずいが、逆に言えば高カロリーの食品でもある。

江戸期には多くの菓子メーカーが創業しているのだが、やはりこれも関連しているのだろう。
各地では転生者や逆行者などが砂糖を用いた菓子や特産品の生産に力を入れ始め、前世で楽しんだ味をまた味わうべく
努力を重ねていった。まあ、それで何が生まれていったかは想像にお任せする。(※2)
概ね価格については江戸初期と中期で最大で数倍の差がついていたという。
砂糖を扱う商人は、やがて一般向けの廉価なブランドとある程度量産性を無視したブランドを設けるようになり、
生産を行う農民もまた、量だけでなく品質に関してかなり気を遣うようになった。自然と質の向上が発生し、効率的な
生産のために簡単な機械の導入も行われていたようである。

特に生産が続いたのは、比州や琉球など南の島々である。そこを管轄する藩や自治機関は収入を得るためにサトウキビの生産に
乗り出したところが多かった。食料が充実すると、次にほしくなるのが嗜好品だ。その需要は戦国時代のそれを超えていた。
有名どころでは薩摩藩だろう。まあ、この世界の薩摩藩主には時折転生者が中身として収まっていたのか、史実ほどの散財は
起こらなかった。ただ、はっちゃける遺伝子だけは受け継いだのか度々派手なことをやらかしているのだが……
閑話休題。そういった騒ぎを起こすにもお金がかかるため、どうやら薩摩藩は早くからサトウキビに注目していたようである。
また、香辛料やトウガラシの栽培にも力を入れており、西日本でのシェアを大きく占めることに成功しており、収入が
数割増しになるという驚きの結果を生み出していた。対抗した尾張徳川藩が「名古屋コーチンつくるぜぇぇ!」とか言っているが
気にしてはいけない。いけないのだ(真顔)。

関連するが、醤油と合わせて所謂『鍋』もこの頃に普及し始めた。
醤油と砂糖、さらに出汁をとる昆布などがあれば、あとは適当に野菜と肉か魚があれば簡単に作ることが出来るこれは、
材料代も安く済むという中々に庶民の味方だったのだ。勿論、鍋が神聖という考えもあったために、
皇室や将軍という権威を利用し、少人数で囲む鍋の普及に乗り出していた。大げさともいえる広告を打ち出し、
『庶民を飢えから救い、うまいものを食べられるように鍋の使用の許可を下賜する』と宣言したのだ。
まあ、ここで鍋の好みを巡って大論争と一心不乱の大戦争が起きたのだが、ここでは割愛する。

290 :弥次郎:2016/03/15(火) 20:02:44


そして、意外かもしれないがゴムの価格も大きく動いていた。
比州を手に入れた日本は、ゴムのプランテーションの実施を行い、ゴムを得ることに成功した。
これは最初普及しなかった。まだ技術が未熟で、使うとしても精々車輪に使う程度であったためだ。この頃はゴムの価格も
高く、むしろ日本でも生産できるファクチスの方が需要があった。勿論現代においてファクチスはタイヤには使われて
いないのだが、完全に無意味というわけでもなく、民間で使う程度ではむしろファクチスで十分だったのだ。

それが崩れたのも1640年を過ぎるあたりであった。ゴム加工技術が安定化し、ある程度の自由度を持たせることに成功した。
医療分野への応用や精密機械への転用、一部ではゴム車輪の開発が行われ、徐々にファクチスにとってかわった。
また、コンドームの原型がゴムで作られるようになったのもこの頃であった。まだ避妊程度にしか注目されいなかったが、
それでも効果は大きい。こうしてゴムの需要が拡大したことで、ゴムは量産が進みながらも価格が高騰した。
余りの需要拡大に、幕府は一時的にゴムの専売制を導入。一部を税として金蔵に放り込みつつも、用途や使う車輪についての
マニュアルを配り、むやみやたらにゴムを使用することを戒めた。この頃にはコメの生産も安定し、麻幹と混合して
生産された樹脂の方も質が向上しており、そちらへの再度置換も行われていた(※3)。

この頃定められた法の内容について少々触れると、載せる荷物の重量と車輪の直径から使う車輪について規定していた。
どちらかといえば戒めというよりは習慣づけを目的としており、厳格なところもなく、処罰なども比較的軽かった。
いずれにせよ、この法が発布されゴムの価格が高まっていたことから自然とゴム離れが起きていたようである。
江戸中期以降にはようやく価格が一定に落ち着いて、使用する場所に関してもある程度定まりつつあった。
これに幕府も専売制を解除し、避妊具などに使われるゴム製品には耐久性などを調べるように義務づけを行うなど
関連する法の整備を進めた。これにより、雑多に広まっていた生理用品のブランドが整理され、質がばらばらで当たり外れが
大きくなっていた市場を落ち着かせることに成功した。

しかし、意外なことに江戸後期には度々高騰した。
というのも、ゴム製品の便利さについて交易をしていた欧州において広まり、質と量が備わる日本製のゴム製品の需要が
いきなり増えたのだ。勿論インドや東南アジアの植民地での生産が出来たのだが、やはり先を行くのは日本製である。
経済的なつながりもあり、日本の通貨や紙幣の信頼性は高かったことも後押しした。
ゴムタイヤはもちろん、リヤカーなどの輸出も少数ながら進んでいて、比州から得られるものはかなりの高値がつけられて、
欧州圏の王族の散財を後押ししたとされる。例えばスペインとかフランスとかスペインとかフランスとか(※4)。

291 :弥次郎:2016/03/15(火) 20:03:57

さて、最後に生糸である。
どちらかといえば麻や木綿なども含めた衣類というべきだろう。
割と容赦のない法令を農民に下していた家康だが、ある意味では生産力に追いつかないほどの需要が生まれることを抑止した
と言えるかもしれない。とはいえ、勤労意欲や生産性に間接的に影響する可能性が高いため、そこら辺は全力で撤回させた。

少々脱線するが、非差別階級について夢幻会の取り組みの一部を紹介しよう。
夢幻会は、所謂差別階級の地位向上に早くから取り組んでいた。それこそ、松平元信が生まれるずっと前の、松平宗家に代々
仕えながら、あるいは今川家へと仕官して後に桶狭間の戦い以降に合流したりと、伝手を作っていた。
非差別階級は一般には出回らない技術の持ち主である。それを独占できるということは、将来性のある技術者や
専門知識を持つ集団を抱え、技術研究に大きく差をつけることが出来るということなのだ。
その一環として、仕官を許し、名字や土地を与え、場合によっては出資を行った。結果としてだが、差別階級をいくらか減らし、
意識を改善することに成功した。もとより河原者という視点はあったのだが、河原者さえも重用するとアピールしたのだ。

仏教からの反発も少なからずあったのだが、油や蝋燭を得るには彼らを頼らざるを得ず、自然と地位向上が起こった。
特に瑞州の開拓においては、牛・豚・ペンギン・アザラシの皮や脂肪を加工する技術が必須となり、開拓者たちにとっては
重要な外貨獲得手段を担う職人であったために、差別的な扱いが減っていった。むしろ、瑞州へと多くの非差別階級が
移ってしまったことで、彼ら以外の階級が大いに困ったという事態すら起こった(※5)。

さて、そうした意識の改善によって割と衣服の自由は保障された。
一方で、農民の副業としての蚕などの飼育は大いに推奨された。平和な時代ともなれば、人口は基本的に増えていく。
更に開拓を国の四方へと拡大する幕府にとっても、そういった物資はあるに越したことはない。
夢幻会が松平家臣であったころからの普及の努力もあり、鶏など鳥類の羽を使った羽毛布団や防寒着も全国に広まっていた。
よって、需要は拡大しており、市場は急速に拡大していた。農民にとっても重要な現金収入であった。既に米と貨幣の
兌換は成立しており、江戸初期から中期にかけて、西暦で言えば1670年代から1680年代には米の販売についても
ある程度の裁量権を農民は獲得しており、農民は収入を得るためにもより糸や木綿などの生産に励んでいた。

こうした背景もあって、衣服の値段はかなり落ちた。どちらかといえば緩やかな下落傾向といえる。
勿論加工や装飾を施せば高くなるのだが、それでも元々の値段が下がれば誰もが手に入れやすくなる。
順調に生産が増えたことで、幕府が各所で導入した飛び杼や機織り機の導入などと相まって、均一な質と単価の安い
衣類の提供が可能となった。これは武士や商人にしても出費を減らせることで歓迎され、また比州を介してオランダや
イギリスへと輸出され、高値で取引された。イギリスが産業革命を終えたころにはかつての勢いはなくなったのだが、
日本においては凍死者などが開拓地で大きく減ったことからかなり効果あったようである(※6)。
ついでに、量産が可能になったとはいえ衣服は貴重であり古着を扱う業者も史実同様に普及した。

292 :弥次郎:2016/03/15(火) 20:04:40

こうして、制度の改革と技術発展と共に、物価というのは大きく変動した。
これは、それまで問屋制手工業故に存在した限界が解放されて、マニュファクチュア即ち工場制手工業へと部分的にシフト
しつつあったことが、生産性の向上と質の均質化を呼び起こし、大いに
特に1730年代から1750年代にかけて緩やかに進行した産業革命後(※7)には工場制機械工業へとシフトし、物が不足の
無いように生産できるようになっていった。だが、未だにそれ以外の技術がネックとなり現代のような過剰ともいえる生産は
抑止された状態であった(※8)。

程よく技術革新が進みながら、日本はいわゆる幕末へと動きを加速していった。
世界では植民地拡大の動きがほぼ落ち着き、残された領域を巡って水面下での暗闘が起こり始める時代。
そして、アメリカ大陸において勃興した国が、国家としての遺伝子に書き込まれている様に、フロンティアを求めて動き出す時代。
日本という国家が、本格的に国際情勢に、強大な国力を持つ国家間のぶつかり合い『グレート・ゲーム』へと参戦する時代が
殆ど目の前に迫っていた。

293 :弥次郎:2016/03/15(火) 20:06:31

※1:
馬や牛は労働力になるために重視され、どちらかといえばスペインから輸入された豚や山羊の方が食用として普及した。
鶏に関しては、戦国時代からタブーの解除に動いた結果、鶏糞を肥料として集める必要も生まれたことからかなり人気になった。
アボリジニ(瑞州人)の影響もあってか野生の獣を狩る動きも加速し、徐々に普及した。

※2:
明らかに海外や未来において作成された菓子などを作ろうとしたものが多数みられた。
これらの菓子は海外へと一部逆輸入され、オリジナルが日本になってしまう事態が多数発生した。
スペイン・オランダ・イギリスなどから原材料が仕入れられるようになったことも後押ししたようである。

※3:
質が劣るとはいえ、やはり日本でも生産できるということは大きな強みであった。
やはり、ゴムの代用品として側面が強かった。

※4:
ある程度割増で少量を売っていたのだが、どうやら奪い合いが激しくなったためなのか、欧州にたどり着いて販売される
際には最大で元値の十数倍にまで値段が膨れ上がっていたようである。王侯貴族の乗る馬車などにも使われたため、
より価格の高騰を招いたとされる。


※5:
穢多・非人といった階級は、生活に必須の道具の多くを生産する役目もあったほか、動物の死体などを処理する役目を
負っていた。を嫌う仏教の考え方と、穢れ(血)を嫌う神道の考え方がまじりあった結果、差別が生まれたと言える。
瑞州ではそういった差別などが開拓を行うという状況故に意味をなさない傾向にあったため、渡航希望者が殺到。
その反動なのか、雪駄・蝋燭・灯心などの価格が高騰し、生活に支障をきたすようになっていった。
このため幕府は事態の収拾に追われた。混乱を生んだが差別の不合理性などが周知の事実となり、差別意識の改善に
つながったとする説もある。

※6:
瑞州のおよそ3分の1が東北や北海道並の緯度に位置し、さらに冬には寒流の影響もあってかなり冷え込んだ。
その為分厚い防寒着が必須となり、開拓が進んだ江戸中期にはある程度衣類が支給される程度には普及していた。

※7:
初期に動力革命に成功したのは主に転生者からなる職人頼りのレベルで、知識の普及はかなりゆっくりだった。
また、導入する側にしても、幕府や夢幻会が介入し過ぎるのもよくないとの意見が採用されたためである。
真っ先に導入されたのは、幕府が管轄する鉄道や公営の蒸気船航路などであった。新技術へのショックが落ち着いた頃に
普及が進んだため、民間レベルでの活用は実質的に1760年以降となった。

※8:
生産効率と質は向上したが、肝心の原材料の生産はまだ蒸気機関の導入が進んでいなかった。
マザーマシンの開発と、それから開発される道具の普及は十分であったが、やはりそこが制限を生んでいた。

294 :弥次郎:2016/03/15(火) 20:07:25
以上となります。wiki転載はご自由に。
ちょっとした蘊蓄と言いますか、ネタのような話ですね。夢幻会が介入したことで史実と大きく剥離を起こしていまして、
その一部を書いてみました。ちょっとずつですが、瑞州大陸転移世界の情勢を描ければと思います。

ゴムについては、ファクチスが欧州においてはゴムの代用品としてかなり使われたようです。
一応日本で作れなくもないですしいけるのではないかと。これを知った経緯は『なろう』から書籍化した作品なのですが、
目に見えないところで大きな影響を及ぼしそうですよね。特に長距離移動を必須とする瑞州ではかなり重要でしょう。
日本列島においてもやはり移動速度などは重要視されることもありますし、物の移動を加速させるのは国力向上にも
必須ですしね。

この時代の物価とかもなかなかに調べるほど興味深い事実がでてきますね。
武家の家計簿という作品も名前しか知りませんでしたが、今後チャンスがあれば見てみようと思います。
とにかく習慣だとかプライドに囚われて立ち行かなくなりがちだったようですし、制度的な限界もあったようですね。
まあ、自縄自縛というのは割と日本人にありがちっぽいので、不文律を適度に壊してやる必要がありますな。

コツコツと書き溜めてどんどん投下しようと思います。
ではでは

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最終更新:2016年03月15日 21:18