597 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:06:35

【ネタ】瑞州大陸転移世界徒然点描4 布哇の領有と久世寿臣

日本人がハワイへの入植を果たした際、意外とスムーズに進んだ。
その理由は様々だが、ハワイに起こった異変故に、ハワイの現地勢力が生存のために日本に飲み込まれるしか
無かったというのがもっとも大きな要因と言えるだろう。

では、ハワイ島に起こっていた異変とは何だったのか?
簡単に言えば、大陸の転移に伴う気候変動だ。これは、ある意味瑞州(オーストラリア)に起こっていたこととほぼ同じだ。
ハワイがなぜ温かいかといえば、概ね北もしくは北西から流れる暖流の影響がある。加えて、太平洋に浮かぶが故に気候の
区分がそうなったからと言える。だが、瑞州の転移は全てを壊した。

まず変化したのが海流だ。神の視点から見れば、瑞州は黒潮の北上を推し進めるようになった。
瑞州と日本列島の間を抜けた暖流は北上してアリューシャン列島を温め、アラスカ海流へと一部が流れ込む。
そこで十分に熱を放出しきった海流はそのまま南下する。すると冷えた海流となって丁度ハワイへと流れ込む。
ギリギリ新金州にならば南太平洋海流の恩恵を受けられるが、よりダイレクトに受けるのがハワイ島だった。
本来ならば北西から流れ込むはずの温かい潮の流れは、瑞州大陸によってほとんど防がれてしまった。

さらに厄介なことに、転移の発生が年末であったことが拍車をかけた。ハワイは意外かもしれないが雪が降る。
それは主に高い山に限られるのだが、それでも雪を降らせるのに十分な冷気ということになる。
史実の遠い未来においては異常気象もあってなのか雪が降り氷点下にまで下がることがあったほどだ。
その為に、転移直後のハワイ島はいきなり冬の猛威にさらされた。

まず起こったのは気温の低下による作物の死滅だ。多くの植物が体験したことのない気温の変化によって大きく弱り、
おまけに雪が平地でも降って冷え込んだ。更に気温が冷えたことで、それまで無縁に近かった病気が俄かに勢いづいた。
後の幕府の調査によれば、住人の4人に1人の割合で風邪か肺炎に近い病気にかかっていた可能性があるという。南の
島であるが故に、そういった病気に対する抗体を持つ人間はほとんどいない。隔離されているが故に、外部から病原が
持ち込まれないというメリットと同時に、外部から抗原が持ち込まれないというデメリットが生まれていたのだ。
これによってハワイ島の住人の1割から2割が命を失ったか、肺などに重大な病気を抱える羽目になったようである。

さらに不幸なことに、これは冬が終わっても続いた。流石に冬のようには冷えないのだが、平均気温は間違いなく下がった。
明確な記録はないのだが、それまでよりも5℃は間違いなく下がっており、場合によってはそれ以上冷えたようである。
当時の衣服は常夏の島に相応しい、所謂ワンピースのようなものか、あるいは上半身裸というのが主流だったようである。
ムームーという服もあるのだが、一説によれば西洋から持ち込まれた物であり、転移発生時にはどうやら存在しなかったようだ。
転移の発生に伴って長袖などが登場したようである。

だが、これが致命的な影響であったのは言うまでもないだろう。栄養という概念の有無が疑わしいこの時代において、
特に乳児や子供が風邪などにやられないためには、抵抗力や体力をつける必要があってもそれを実践できるかは妖しい。
そして、これによって族同士の争いが勃発した。元は12世紀以来アフプアアという制度が定着し、族長の采配によって
秩序が構築されていたのだが、命の危機というものに面した時にそれは無視された。
瑞州大陸転移から十数年は、しばらく生活しやすい土地の奪い合いが起きたことが、ハワイの伝承に残っている。

598 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:07:43

しかし、ハワイの住人達も座して滅びを待つはずもなかった。
推測によれば、1630年代には西側に転移してきた島、史実ではニュージーランドと呼ばれた島へと少数の人間が逃げ込んでいた。
幸い、ニュージーランドには肉食で人の脅威となりうる動物は存在しなかった。しかしながら、当時集団での移住は難しく、
精々食料などを求めて渡航が行われる程度であったようである。
さらに時代が下って1660年代には本格的に移住が始まり、史実で言えばニュージーランドの北島へと一部が移住した。
数は多くはなかったのだが、それでも安息の地を得たことは言うまでもない。かなり移住までに時間はかかったようで、
一説によれば数百人規模の村が沿岸沿いに形成され、沿岸沿いに集落をいくつか形成していったようである。
少なくとも、彼らにとって故郷よりも深い森というのは恐れの対象だった。

人口が安定して増えてきた1700年代初頭。人口がおよそ8万人前後にまで膨らみ、人々は山への進出を、つまり
内陸への進出を始めた。この進出は緩やかに進み、ハワイの住人たちの生活圏はニュージーランドの東側を3分の1ほどに
まで広がっていた。漁業が大きなウェイトを占めながらも、内陸での耕作も進み、転移後の病気の流行によっていびつに
歪んでいた人口ピラミットもかなり改善していた。

そんな彼らを日本人が見つけ始めたのは1720年からの事だったとされる。
開拓の先遣隊が史実のタスマン海を超え、後の新金州南島を発見し、周辺を探検した際に元ハワイの住人たちを見つけたのだ。
当初は気にもかけなかったようだが、本格的に入植がはじまった1740年代に、新金州の南を回って探索を行った際に
最初に接触があったとされる。明らかに日本で使われている船とは異なる形の船で、所属などを表す旗が掲揚されていないなど
違いがあったのが確認されたのだ。そして1748年に新鱒町、その前年の1747年に史実のウェリントンに到達したことで
本格的に交流が始まった。当時の人口はハワイ人の方が多かったのだが、それも西部から日本人が次々と移住してきたことで
あっさりと追い抜いてしまった。ここで夢幻会はアボリジニとは異なる言葉と文化を持つ彼らが、ハワイからやってきたのだと
理解した。遅いと思われるかもしれないが、確証はなかったのだ。また、夢幻会が未来からやって来た、あるいは生まれ
変わっているというのは公になっておらず、以前述べたように行ったこともないハワイのことを知っているのはあまりにも
不自然であるため夢幻会も地図には載せていなかったためだ。

599 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:08:52

日本人と新金州人(当時はハワイ人とは分からなかった)とのコミュニケーションがとられるまでそれなりに試行
錯誤を必要としたが、ほどなくハワイ人たちが日本人側へと吸収されていった。元々の数が日本人の方が圧倒的であるし、
道具の進歩などがより進んでいたのは日本人であったためだ。日本人にしてみれば、瑞州開拓時に吸収し100年かけて
瑞州系日本人というカテゴリーを生みつつあるため、大した混乱は起きなかった。加えて、瑞州だけでなく比州や蝦夷州(北海道)
においてもアイヌ系として吸収を果たしていたので、大した苦労ではなかった。

こうして新金州人の案内もあり、1752年にはハワイ島へと日本人が渡航。
蒸気機関を搭載した船の就役もあって、ハワイ島には次々と日本人が入植を開始した。
この後に起こったことを分かりやすく言えば日本人による征服活動である。
新金州に移住していたハワイ人を援護するという名目で布哇を支配下に置いたのだ。技術や知識などだけでなく持っている
武器や住居などの根底からして異なるレベルの日本人にとっては、ハワイの敵対勢力を退けるなどたやすいことだった。
ほどなくハワイ島の首長であったカラニオプウが藩主として布哇藩が成立。カラニオプウが江戸で将軍に謁見し、国交を樹立。
幕府からの援軍と援助を得て、彼はカメハメハ1世が初めて成し遂げるはずであったハワイ島全島の支配をあっさりと確立した。

この当時のハワイの政治体制は当時の江戸幕府のそれを参考にしている。
カラニオプウが藩主(対外的に言えば国王)の座に就き、彼に服属した他の島の首長らが集まった首長会議が下にあり、
さらにその下に各行政機関が組み込まれた。この際、カラニオプウは首長間での婚姻や同盟関係の構築を禁止し、武装の
制限などを設けて、反抗勢力が出来るのを阻止する体制を生みだした。また、人員を提供させて布哇藩軍を成立させた。
幕府から鉄砲などを購入し、大型の船舶を揃えて国有の海軍陸軍を設立。幕府水軍との連携を行えるようにした。
幕府はこの首長会議に日本人自治州の代表者を送り、首長会議代表に就任させて、日本の意思を伝えていた。
まあ、藩主であるハワイ王は日本との間で婚姻関係を結ぶことが多かったし、首長会議に参加する首長たちが
日本とも積極的につながりを求めたことから言っても、根底の部分に幕府の意思が通っていたことは言うまでもない。
政治形態としては自治都市に近い形と言えるだろう。

ほどなく、日本の通貨や言語が輸入されて布哇に定着し、建築やインフラにも日本のそれが持ち込まれ始めた。
ハワイ風のアレンジや改変はくわえられていたが、概ね日本のそれを輸入したものだと、見る人によっては分かるだろう。
アボリジニを、この世界線における言い方としては瑞州人を飲み込んでいた日本人にとって、新金州人(ハワイ人)も
大した障害とはならず、日本人のグループの一つとして徐々に飲み込まれた。布哇藩(ハワイ王国)もまた、明治維新まで
脈々と受け継がれていき、明治維新後は大日本帝国布哇自治州を経て布哇県として編入された。
この際、ハワイ王の一族の扱いについては相応に議論を呼んだのだが、明治維新後はいわゆる華族として残されることになった。
ここら辺の事情も詳しく述べたいところだが、ここでは省略する。

600 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:09:57

さて、瑞州の転移によってその運命を変えられた偉人というのは海外にもいた。
史実においてハワイを訪れた人物の一人、キャプテン・クックことジェームズ・クックがその筆頭と言えた。
彼はオーストラリア東岸やハワイに到達した冒険家で、壊血病によって死者を出すことなくオーストラリアとニューギニアの
探検を成し遂げるという当時では考えられない偉業を成し遂げた。まさしく奇跡といえた。史実においては非業の死を遂げる彼は、
ヨーロッパ人の中で最初にハワイへと到達した人物として記録されている。

この世界線におけるジェームズ・クックは史実同様「メガラニカ」「テラ・アウストラリス」の探索に乗り出していた。
当時の考え方というのは、「北半球に大陸があるならば南にも同じくらいの大陸があってバランスをとっているのではないか」
というもので、南極大陸を中心に広い土地が広がっていると想像されていた。それが「メガラニカ」である。
金星観測にかこつけたこの探検の命令は、欧州諸国に先駆けてメガラニカを発見し領有したいという思惑があったようである。
しかしこの世界線においては残念ながらオーストラリア大陸やニュージーランドに到達することは叶わず、代わりとして
オーストラリア大陸の位置に出現していた諸島を発見して領有を宣言する程度だった。因みにだが、この島は史実のミッドウェー諸島
であり、彼の命名によってサウスブリテン島と呼ばれることになった。

さて、このサウスブリテン島。クックも発見時に思ったことなのだがあまりにも狭かった。
面積は6.2平方キロメートルしかなく、オーストラリア大陸の消失に伴って荒れやすくなっていた南太平洋においては
些か頼りない島でしかなかった。だが、その価値はイギリスにとっては重要な目印となる島という意味では大きかった。
イギリスの目論見は、本国・ケープタウン・セイロン・インド。サウスブリテン(ミッドウェー島)を経由して
インドネシアを迂回。そしてそのまま北上して太平洋上に存在するはずの瑞州(リキッドランド)に向かうというものだった。
地図上では間違いなく届くルートであった。ジェームズ・クックはこれにならってニューカレドニアとバヌアツに到達して
領有を宣言。現地で物資を補給したのちにさらに北上した。

なぜこのような面倒なルートを通ったのか。
ここには東南アジアからアンボン虐殺事件後に撤退したイギリスが、独自に交易路を確保したいという思惑があった。
当時スマトラ島などはオランダ領東インドで多くが占められ、マライ連邦を領有しながらもその立地は非常に危ういものだった。
イギリスは常にオランダからの侵攻に警戒しなければならなかったし、日本との交易にはマラッカ海峡を通過する必要があり、
必然的にオランダの目の前を通らなければならない。史実においてイギリスとの交易は既に途絶えているのだが、この世界では
イギリスも交易を続けようと必死だった。必ずしも効率的とは言えない。だが、もしもの武力衝突に備えておきたい。
さらに、植民地争奪は日本の存在もあり史実よりも過熱しつつあった。東南アジアが日本との交易には必須だという
共通認識の拡大は、思わぬところにも響いていた。

彼の記録によればだが、彼はギルバート諸島とマジュロ島を経由してしばらく漂流。
そして北赤道海流やその周辺の天候に翻弄されながらもなんとか北上し、南須賀諸島近海まで到着することに成功した。
この際、クックはイギリス国籍を示す旗を掲げて日本の漁船ないし交易船にわかるようにして、それまでの隠密性を
かなぐり捨てて進んでいた。これが功を奏したのか、南須賀諸島周辺を巡回していた幕府水軍麾下の海上取締方の船舶に発見され、
彼らの案内を受けることが出来た。これも、この頃の幕府がイギリスとの交易をある程度行っていて、所属などが互いに
わかるように取り決めをしておいたのが
鮮華町には英語に通じる通訳がいたこともあり、彼と彼の部下たちは大きな驚きを以て迎えられた。

601 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:11:10

鮮華町で歓待を受けたクックは、現地の日本側の航海士などと会議を行って航路の確認を実施した。
当時の日本は布哇と新金州をあらかた開拓し終わり、内陸部への進出と開拓し終えた地域の再開発にいそしんでいた。
だが、それに並行して南洋諸島への入植も並行して進めていた。

これは将来的に敵対するかもしれないアメリカへの備えで、アジアへの進出を阻止するとともに、他の欧州列強が進出して
自国の勢力圏へ進出される拠点が構築されるのを阻止するためだった。つまり、遠い将来を見越した進出と言えるだろう。
進出先はオークランド島・パルミラ島・マリアナ・パラオ・北マリアナ・ミクロネシアなどである。これらは順次領有されて
実効支配が進んだ。支配といっても最初は監視のための基地が作られる程度ではあったのだが、徐々に貿易商や漁業関連での
進出も進められた。現地住民との混血家系は南洋系日本人として徐々に組み込まれていく。

閑話休題。つまり、既に南方への探索を試みていた日本と、日本よりもさらに南方の航路を通って来たイギリスの両者が
互いの航路情報を共有し合うことで、正確な海図の政策が可能となったのだ。日本としてもフィリピン以南つまり
オーストラリア大陸があった場所がどうなっているかは不明だったし、イギリスも瑞州周辺の地図を欲しがった。
つまり、互いの利害が一致したと言えるだろう。

これによって、イギリス・ケープタウン・セイロン・インド・サウスブリテン・ニューカレドニア・ギルバート・
リキッドランドを結ぶ航海図をクックは書き上げた。その後クックは瑞州西部において瑞州将軍と瑞州探題との会談を行い(※1)、
さらに日本本土において江戸幕府将軍への謁見を果たした。クックは正式な外交官ではなかったが、彼が発見した航路を通じての
交易を検討するという確約を取り付けた。幕府はクックの類い稀な指揮能力を讃えて勲章を贈り、物資なども提供した。
クックは数か月日本国内に滞在したのちに、来た時と同じ航路を通ってイギリスへと帰還した。彼は自身の航海で
その航路の有用性を証明してのけたのだ。
この際の日本の見聞を収めた『新約・東方見聞録(※2)』はイギリスに遥か東方にある日本への興味をより強くさせるきっかけとなった。

さて、クックについてだが、ハワイやオーストラリアに到達しなかったことなどを含めてかなり史実と剥離した。
その影響なのか、その後もかなり史実と異なる人生を歩んだようである。イギリスに帰国した彼は多くの業績を讃えられて
王立協会からコプリ・メダルを授与され、フェローにも選出された上に、なんとナイトの称号を王室から送られてしまった。
まあ、海外領土の獲得と日本との交易、そして長大な航海を無事に果たした彼は前人未到の偉業をなした英雄というべきであり、
彼が持ち帰った日本の物産や見聞・知識も誰にとっても喉から手が出るほど欲しいものだった(※3)のが影響したのだろう。
これには、帰国後に再び航海に出るつもりだったクックも困惑。周囲から生ける伝説として讃えられ、必死に引き留められた
ために仕方なしに海軍を休職し、本国で航海士を育てる学校で教鞭をとることになった。

そして彼はそのまま50代まで教鞭をとった後に職(※4)を辞し、騒ぐ世間に疲れはてたためなのか瑞州へと引っ越した。
彼なりに考えて隠居生活ということなのだろう。日本風にアレンジされた洋食(※5)に慣れて舌が肥えていて本国で
旨と思える物が無くなったことと、これまた日本風のオーケストラ(※6)や音楽にはまっていたなどの理由があるとされる。
海の上だけではなくときには自らの足で瑞州各所を探検したり、時には自ら測量を行ったりと、年を取っていながらも
かなり精力的に活動していたようである。60代を迎え、死が近いことを悟った彼は本国へと戻ろうとしたのだが、
船旅の途中で寄ったインドにて病没。探検家として名をはせた彼の最後は、史実とは異なりかなり穏やかな物だった。
彼の遺体は防腐処理を施したのちにイギリスへと運ばれた。また、彼の希望で遺髪は瑞州へと送られて埋葬された。
彼も、どうやら人生を費やして探検した瑞州にかなり思い入れがあったのだろう。

将軍は彼の死を悼みクックに対して『久世新金守寿臣』の名を与えて彼の業績をたたえた。また、彼が瑞州に引っ越したのちに
探検した史実キング島は彼にちなんで久世島と自然に呼ばれるようになり、後に正式に『久世島』と呼ばれるようになった。
もし、瑞州かイギリスを訪れることが出来れば彼の墓地を見ることが出来るだろう。
そこには英語と日本語で彼の名前と業績が並んで記されており、彼の偉業を末代まで伝えることになるだろう(※7)。

602 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:13:03

イギリスはその後にニューカレドニアとバヌアツ(ニューヘブリディス諸島)の本国化を推し進め、瑞州との交易を
行うための準備を迅速に実施した。日本もイギリスに合わせる形でギルバート諸島を領有。マーシャル群島と並んで
貿易の拠点として活用できるように法整備や海上取締方・海軍の人員増強などを勧めた。
以後、ニューカレドニアとニューヘブリディス諸島はイギリス領として編入され、史実と異なりフランスに取られることもなく
イギリスの太平洋での拠点としてしばらく残り続けた(※8)。

そして、クックが伝えた瑞州・布哇島・新金州の伝聞は些か誇張を含みながらも諸外国にも広まった。
領有をと考えた国がいなかったわけではないだろうが、あいにくと既に布哇は日本の領土に編入されてがっちりと守られていた。
立地を見れば当然のことなのだが、布哇島は新金州と瑞州の目の前にあり、日本侵攻の楔としては有用でも、軍事的に維持するには
距離の暴虐にさらされる場所だった。地球の反対側に、日本の侵攻を受け止めきれるだけの軍備を維持するというのは
この時代では無理だった。

幕府としてもハワイを手放すつもりは毛頭なく、布哇やその周辺の諸島を奪われないためにも海軍の増強や本国化を
推進した。その後もヨーロッパやアメリカから多くの移民者が押し寄せたのだが、ハワイ王国は付け入る隙を与えないように
慎重に対応した。事実、移民が増えていった1800年代には警察・消防・海軍・陸軍といった準備が整い、日本のそれを
見習い制定された近代的な法が発布されていたため、トラブルにも迅速に対応ができるようになっていたし、日本の勢力圏
ということもあって独立を煽るような活動はほとんど見られなかった。

因みに立憲制への移行はしてはいなかった。ここにはまだまだ衰えが見えない幕府体制をどうするかが夢幻会や
江戸幕府、そして朝廷でも悩んでいたところで、迂闊に立憲制への移行をすればそれへの介入を招くと判断されていたのも
関与していただろう。ともあれ、日本領となったハワイは概ね平和に発展していった。
虐げられることがないだけ、彼らはとても幸福と言えた。

603 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:15:08
※1:
瑞州将軍は江戸幕府将軍の名代。瑞州探題は公家となった羽柴家(豊臣家)が世襲する名誉職。
どちらも瑞州の統治と開拓を担う重要なポストであった。

※2:
日本名では「新約・東方見聞録」英語タイトル「Holiday in the Liqid Land」。
瑞州の文化・風習をはじめ、日本の政治制度・支配体制・風俗・歴史・料理・文化などをイギリス人の視点から描き、
彼の体験談と個人の感想を交えながらも、開拓に熱狂する日本の様子を冷静に記している。
また、彼と部下たちが日本本土に向かうまでの旅の風景も克明に描いており、日本の視点から見て非常に貴重な資料と言える。
マルコ・ポーロのそれが憶測を交えた伝聞によるものだとするならば、こちらは確固たる見聞に拠るものである。

蒸気機関による産業革命・活版印刷技術・鉄道などによる交通網・国家運営のインフラ・ゴム製品など、イギリスだけでなく
ヨーロッパ全体に、東の果てに暮らす文明人のことを大々的に広めるきっかけとなった。
象徴的な一文としては「ジパング(日本)には正しく黄金があった。欧州の黄金を全て差し出してでも得るべきものが
ここにはある」というものもあり、どれだけ彼が衝撃を受けたのかを物語っている。

これは帰国した後のジェームズ・クックが、周囲に乞われて彼と彼の部下の日記帳の内容を再編して出版したという経緯があり、
初版は彼や船員の一部が知り合いや家族に配るために250冊程度刷られた。が、当然のように重版するはめになった。
その為、この初版の「新約・東方見聞録」は現代においてはすさまじい高値がついている。初版の中でも特にクック自身が
自らサインして知り合いと家族に配った63冊は正しくプレミアの付いた一品となってしまった。

彼としては別に出した報告書の方が驚かれただろうと思っていたのだが、報告書は非常に事務的であり難解なところも
あったようで、彼はこれを出版した後に呼び出されて「なぜこっちを出さなかったんだ!」と説教を受けた。

※3:
東方からの物産を巡る投資はかなり熱が入り、相応に焦げ付きもあったようである。
数回ほど経済危機があったがインドが犠牲になったことで何とか国が傾くことは免れた。

※4:
名誉職を含めて海軍・民間・国など所属先を問わずかなりのオファーがあったようである。
彼は最終的に航海士養成学校の校長にまで昇進を重ねていた。ただの船員から出世したにしては正しく破格と言える。

※5:
夢幻会の介入があったため、幕府は海外からの気品をもてなす役割を持つシェフを揃えていた。
また、日本国内においても輸入された食材をベースに和風アレンジされた洋食が日本国内において流行っており、
それに魅せられたようである。
また、彼が生きた時代はイギリスにおいて産業革命が起こった頃で徐々に家庭の味というものが失われていく真っ只中で
あったことや、長い航海で娯楽としての食事にかなり飢えていたことが日本食への印象を良くしたと思われる。

この世界線において、現代の食事を再現しようと精力的に夢幻会が活動した結果、葡萄や麦の輸入が行われ、
ワイン・ビール・エール・ウィスキー・パン・ピザ・パスタといった洋食に欠かせない食材が数多く生産されていて、
ジェームズ・クックは日本に居ながらにして欧州の味を楽しむことが出来た。

※6:
楽器の輸入を進めていたため、かなり洋楽が広まっていた。日本人向けにアレンジが加わっている。
音楽史的には、この頃から東洋クラシックが生まれ始めたとする説も見られている。

どうやら転生者の中には「歌ってみた」「演奏してみた」をどこぞのサイトで投下していた人物がかなりの数いたようである。
彼らが無駄に連携した無駄な動きで無駄に活動した結果、どこかで聞いた覚えのある曲が、無駄に洗練されて楽譜や楽曲
として残されていた。どのようなものであるかは想像に任せる。

『新約・東方見聞録』にも、彼は文中で何度、も数ページにわたってこの音楽のすばらしさを語っており、作詞・作曲家との
交流があったことが日記には記されている。ジェームズ・クックのみならず、日本に来訪した多くの外国人がこの音楽に
魅せられていった。

※7:
史実以上に有名になり、また日本においても知名度はそれなりにあった。
どこぞの聖杯を巡る戦争においては、彼もまたサーヴァント化された。

※8:
オランダが徐々に弱った後には無理にその交易路を維持する必要はなくなり、維持が面倒になったためなのか
後に日本へと売却された。どうやらイギリス式統治はそう長く持たなかったようである。

604 :弥次郎:2016/03/29(火) 00:16:20
以上となります。wiki転載はご自由に。非常に長くなってしまいすいません…

今回はハワイの領土編入と、本来ハワイに到達するはずだったジェームズ・クックのお話でした。
史実においても彼はメガラニカを探し、結果としてオーストラリアとハワイにたどり着いています。
この世界においては、征服者というよりは探検家としての面が強い結果となりました。作中に書いてはいませんでしたが、
クックが日本を訪れたのは1774年と考えています。史実でも1772年から1775年にかけてハワイの発見などをしていますので
概ね順当かと思われます。下手すると黒船来航よりも有名かもしれませんね、彼の来訪は。

またハワイの気候に関しては若干憶測が入っています。まあ本来やってくる暖流が遮断されますので、相当冷え込むのは
間違いないかと思われます。本当はハワイの人々がハワイから出ることもなく、すごく数が減ってしまうという展開も
考えましたが、ニュージーランドに逃げ込まないのもなんだか変なのでとりあえず入植してもらいました。
一応ハワイの住人も長い船旅の果てにハワイに到達したようなので、これくらいはできるのではないかと。

それと、少しだけですがこの世界における食事の情勢を載せました。
日本大陸世界にも匹敵するほど洋食の普及は進んでいます。
今後書いていくつもりですが、瑞州や蝦夷州(北海道)では麦・ジャガイモ・テンサイ・トウモロコシ・カボチャ・
サツマイモが生産されて一般化しますし麦食も普及します。パスタやパンというのは夢幻会も食べたいと思う食べ物ですしね。
なので、ジェームズ・クックをはじめとした西洋人には日本風の洋食が提供できるようになっています。
というのも、塩・胡椒・砂糖・味噌・醤油・唐辛子など一通りの調味料はこの時代にはすでに手に入るようになりまして、
肉食を禁ずる法令も半ば形骸化してますので、もはや遮るものは何もない状況ですから。
因みにスペイン経由でトマトが既に手に入っていますので、そろそろナポリタンが生まれます(真顔)。
イタリア人も呼びましょうか?

次はフィリピン情勢とついでに蝦夷州以北の開拓についても書いていきたいですな。
歴史を調べた結果、フィリピン周辺での思わぬ事実が分かりましたので、そこも正確に書いておこうと思います。
そうしたらようやく19世紀に取り掛かれますかね…いよいよ帝国主義の時代の幕開けです。

しかし、事前情報を甘く見て乗り込んでくるペリーさんは大丈夫でしょうかねぇ…
黒船自体が派遣されるかどうかも怪しいですけど。
とりあえずイギリス・オランダ・スペイン相手に磨いた外交戦術の展開と西洋方式でのOMOTENASIでしょう。
あと幕府水軍による観艦式もサービスしましょうか。

おそらくですが蒸気機関搭載の船舶の運用実績は日蘭世界に匹敵します。というか、産業革命をイギリスとほぼ同時に
実現してますので、下手に「交易プリーズ!」と乗り込んだら瑞州で大量生産される安価で良質な製品に国内市場が
流れ込んで超涙目ですな……おまけに日本は別にアメリカと交易する必要もないという。

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最終更新:2016年03月29日 20:13