972 :名無しさん:2016/03/29(火) 01:39:17


提督たちの憂鬱支援SS 北欧の国から '44 冷戦


かつて北欧は平和であった。しかし第二次世界大戦は北欧を二つに分断し、親日国の『北欧条約機構』と ドイツによって設立された『バルト海諸国理事会』の対立は、やがて北欧史において『冷戦』と呼ばれるようになる。


3月 アイスランド西部 ケプラヴィーク

アイスランド共和国初代大統領スヴェイン・ビョルンソンは空港(富嶽の離着陸可能)の建設予定地の視察に来ていた。現地では日英の工兵に加え、津波で船を失ったアイスランドの漁師たちも働いている。
「順調に進んでいるようですな。」そう言いながら同行していた日本領事を見る。

1月のサンタモニカ会談の結果、イギリスの占領下にあったアイスランドの独立が認められた。しかしそれができたのは、日英に軍用地を提供するかわり アイスランドの独立と復興を支援する,という秘密協定があったからだ。一応独立はできたうえ 日本から復興支援を受けられたので、国民の不満は高まっていなかった。

日本の領事は言う。「本国は漁船だけでなく 発電用タービンの提供を考えています。」「タービン?」「この国が復興、いや成長すれば電力消費量は増えるでしょうからね。しかし豊富な水力や地熱を利用すれば、余るくらい発電できるでしょう。」「ふむ ふむ。(その電力を上手く使え、と?確かにアイスランドの経済は漁業に依存していたせいで 津波で大損害を受けたからな。他の産業の育成も必要か。) わかりました。アルシング(アイスランド議会)に伝えます。」


ケプラヴィーク空港は地震や火山灰の追加対策をしながらも、数年後に完成した。
空港の完成はアイスランドに経済成長をもたらした。日本からイギリス,フィンランドなどを結ぶハブ空港であったうえ、島独特の景観や温泉を目的とした観光客を呼べるようになったからだ。ついでにいうと、アイスランド産の魚介類を日本に空輸で輸出できるようにもなった。
安価な電力を利用したアルミニウム精錬も発達した。地熱は発電以外にも利用が進み、暖房や温室農業などにも使われるようになる。

一方で安全面では、当初は日英の駐留軍に依存していたが、ある出来事が変化を齎す。『タラ戦争』、イギリスとアイスランドとの間の漁業権争いである。大西洋大津波の後、食料不足のせいで外国漁船がアイスランド近海で乱獲を行うようになると、水産資源の枯渇を恐れたアイスランドは広大な領海を宣言、漁船の拿捕を始めた。しかしその漁場で多くの漁船が操業していたイギリスは激怒、軍事・経済的に圧力をかけたため両国の関係は悪化した。日本の仲裁によりなんとかなったが、このことが日本やフェノスカンジア(スウェーデン,ノルウェー,フィンランド)との関係を強めるきっかけになり、後には北欧条約機構に参加することになる。

973 :名無しさん:2016/03/29(火) 01:40:31
4月 スウェーデンの首都 ストックホルム
この日、ストックホルムのあるホテルでスウェーデン赤十字社主催のパーティーが開かれていた。
「本日はお招きいただき ありがとうございます。」在スウェーデン日本大使館附武官 小野寺 信の礼に対し、王族で スウェーデン赤十字副総裁でもあるフォルケ・ベルナドッテが返礼する。「日本には感謝しています。貴方達のおかげで『世界防疫機関』をスウェーデンに設立でき、国の安全を確保できたのですから。日本自体にノーベル平和賞を送ろうと言う人だっています。」
スウェーデンは第二次世界大戦のとき、中立国であった。しかしその中立はかなり危ういもので、ドイツのノルウェー侵攻時には軍の通行を要求されている。そのときは「たまたま」フィンランドから移動してきていた日本軍が ソレを防いだが、ノルウェーでの国民連合戦線の蜂起や独ソ戦が起こると 今度はドイツから領空侵犯を受けるようになったため、同じく領空侵犯されていたフィンランドとの協力を強め 終戦までの間凌ぐことになった。

日本人で初めてノーベル賞を受賞する者は誰か,歩きながら話していたが、周りから人がいなくなると話の内容が変化してくる。
「そういえば、スウェーデンは難民を保護しておられましたな?」「ええ。『隣国』の協力もあって、多くの人々を救えています。」「しかし『大丈夫』なのですか?」ここで小野寺が尋ねているのは【スウェーデンはこれ以上難民を受け入れられるのか】ということと【デンマークはこれ以上協力できるのか】ということである。
スウェーデンでは戦時中デンマークと協力し、ユダヤ人などを国内に脱出させてきた。その他の国でもラウル・ワレンバーグなどが 多くのユダヤ人の亡命に尽力していた。このことはドイツ側も知っていたが、中立国のスウェーデンを捕虜交換などに使っていたこと、スウェーデンの軍事力は侮れず,戦争になったら鉄鉱石の供給がしばらく途絶えるであろうことから 独ソ戦が終わるまでは見逃していた。
が,しかし、国王の体調の悪化に加え、サンタモニカ会談で 北シュレースヴィヒのドイツへの『返還』や アイスランドの独立などが決められたことが デンマークを動揺させており、これまでどおり難民の脱出が続けられるのかわからなくなったのだ。

「おっしゃるとおり、結構厳しいですね。この国でも食料は足りていませんし…」
「日本は彼らの一部の受け入れを考えています。ただし優秀な学者や技術者を優先しますが。ですが、日本でなら充実した環境で研究ができるでしょう。」
「しかし優秀な人物は既に「引き換えにスウェーデンには開発中の新型戦闘爆撃機(超烈風のこと)の輸出を許可します。そして貴国の海軍に対しても大規模な支援が考慮されています。」…(作れるか分からないものに巨額の予算を投じるよりも、日本から輸入した機体を解析して新型機を開発した方がいいか?)」実は、当時のスウェーデンにはゲオルグ・ド・ヘヴェシー(ノーベル化学賞受賞者)などの優れた人材が亡命していたので、彼らに原子力を研究させようと考える人物は少なくなかったのだ。
「…わかりました。ですが海軍の支援についてはほどほどにお願いします。」必要以上にドイツの警戒を買いたくありませんから。

…こうして、ストックホルムの夜は更けていく。

974 :名無しさん:2016/03/29(火) 01:42:26
5月 フィンランドの首都 ヘルシンキ
「マスゴミの馬鹿共がっ!」フィンランドで活動中のドイツの諜報員は、本国の有名新聞を壁に投げつけた。
【フィンランドで駐在ドイツ人死亡!死因は毒キノコ!?】【『蛮族』の卑劣な罠‼】今月1日にヘルシンキでドイツ人が食中毒で亡くなった事件について書かれていた。

ところでフィンランドでは春にはシャグマアミガサタケという毒キノコが生えるが、日本人がフグを食べるように フィン人はソレを毒抜きして食べている。事件はコレが普通に売られていることで起こり、一部のドイツ人はキノコの食べ方を知らない彼にワザと売りつけたのだと主張し始めた。
しかし外国人も多い首都・ヘルシンキの売り場では 警告を表示しながら売られており、見た目の悪さもあって毒キノコであることは普通にわかる。おそらく件のドイツ人は興味本位で買って 毒抜きに失敗したのだろう、がドイツ人のフィンランド叩きが止まることなく、新聞には【日本に媚びる欧州の裏切り者】【卑劣な彼らは独ソ戦の最中、ドイツに宣戦布告する代わりにソ連にカレリアを返してもらうことを考えていた】【赤子に『蒙古班』が出るフィン人は『ツラン民族』とやらが北方人種の血を汚して生じた蛮族】などの罵詈雑言や嘘が書かれ、そのことを知ったフィン人の反独感情を高めている。
「・・・もはやフィン人の協力者は作れんだろう。確かに 日本と手を組んで順調に発展しつつあるこの国を妬む気持ちはわからんでもないが、コレらの記事のせいで我々の活動が難しくなっているぞ。」彼の口からため息が出た。


毒キノコを食べることもそうだが、フィンランドに独特の文化(特に食)が存在し、それらは外国の外交官やスパイを苦しめた。
ドイツ人はサルミアッキには耐性があったが しばしば難解なフィンランド語と文化には翻弄されており、なかでも 外交官がマンミというチョコレートペーストに似た菓子を見て「フィン人は《一度食べたもの》をまた食べるのか」と混乱した話が有名だ。
さらには自国の政治家が「フィンランド料理はイギリス料理より僅かに美味いだけ」「ダイエットに最適」と発言して 関係を悪化させた枢軸国もあり、枢軸陣営のフィンランドでの活動は苦戦が続くこととなる。

しかし、その独自文化が受け入れられた国もある。極東の島国、日本だ。
日本は冬戦争のとき フィンランドに多くの将兵を派遣していたが、帰国した将兵は国内にフィンランド文化を持ち込んだのである。サウナ付きの温泉や銭湯が現れ、イェヴァン・ポルッカのような民謡に スオミネイトやサンタクロースのようなキャラクターも伝えられた。フィンランドブームは戦後のムーミンのアニメ化で頂点を迎え、観光客がフィンランドを訪れるようになる。
一方で遣芬義勇軍は置き土産を残していった。それは何かというと…

「やった!Mangaの最新刊が入荷しているぞ!」「それ日本語版だけどいいのか?」「だからこそ想像力が掻き立てられるんじゃないか!」「お、おう。」
夢幻会良識派が危惧したとおり、フィンランドに送られた兵士たちはオタク文化を広めていた。レニングラードに投下した同人誌だけでも ベリヤを目覚めさせるという効果があったのだ、彼らと直接交流したフィンランド兵が染められたのは当然だろう。日露戦争以来親日国であったため 民間に受け入れられるのも早く、ヘルシンキの書店では、44年にはすでに日本の漫画(未翻訳含む)や同人誌が置かれるようになったという。日本軍はサブカルチャー以外にも、日本食や柔道なども広めていった。また、冬戦争のあとには子供や商品に日本の名前を付けることが流行ったという。


このあともフィンランドは日本との良好な関係を維持し、戦闘機などを輸入することで防衛力を高めていく。だが、そのことが某国を刺激し、そして…

975 :名無しさん:2016/03/29(火) 01:45:10
6月 リトアニア共和国の首都 カウナス
ここはバルト三国。東欧歴史的に北欧諸国とのつながりが強く、史実の国際連合の分類でも北ヨーロッパにされている。しかし他の北欧諸国と違い、町を歩く者の目は暗く,あるいは荒んでいた。

「ここも随分とボロボロになったな…」カウナスの街並みを見ながら呟いたのは、東欧の諜報活動を指揮することになった杉原千畝である。戦前リトアニア領事代理としてこの町に赴任していた彼は、この地で多数のユダヤ人を救っていた。
ところでバルト三国の荒廃の始まりは、史実以上に酷くなった世界恐慌が独立したばかりの三国に襲いかかったことに始まる。史実同様,三国とも独裁者によってなんとか乗り切ったが、このとき日本によってミノックス(『スパイカメラ』で有名な企業)といくつかの文化財が買収されている。
だが本格的に荒廃が進んだのはソ連によって占領された1940年である。まずソ連は占領地の工場を根こそぎ東へと移転させたが、これは史実よりも工業力が低いことに加え 早い段階で独ソ戦を睨んでいたからである。さらに反抗的な現地住民は次々とシベリアへ送られ、残された住民も防御陣地などを作るために働かされた。
そして独ソ戦が始まると、バルト三国は地獄と化した。ソ連が築いた陣地は強固であったため、ドイツ軍はそれを突破するためになりふり構わなかった。ときには街ごと鉄道の駅を爆撃し、ときには艦砲射撃で港を吹き飛ばした。そしてソ連軍も撤退するときにインフラを破壊し尽くしていったので、戦争が終わるころには瓦礫だらけになってしまった。


(あの人たちは生きているだろうか?)破壊された町を見た彼の脳裏には、救えなかったユダヤ人の姿が浮かんだ。国外退去の日にも 汽車に乗っても走り出すまではビザを書いていたがそれでも全ての人のビザは書けなかったのだ。
(…いや、私がやらなければならないのは彼らに謝ることではなく、日本の外交官として 国益を守ることだ。そしてそれが多くの人々を救うことに繋がるなら…)

日本が杉原を派遣したのは 彼のリトアニア国内の伝手を活かして『優秀』な人物を脱出させるためであった。三国側も、ドイツも怖いが日本との関係もある程度築いておきたかったために ユダヤ人・ポーランド人の脱出に密かに協力するようになった。


      • だが、バルト三国は結局ドイツの属国でしかなかった。


ある年、ドイツは、デンマーク・バルト三国と共に『バルト海諸国理事会』を設立した。[ソ連のバルト海での活動の阻止]が結成の目的であったが[経済力・軍事力共に成長を続ける日本側北欧に対する牽制]と[コソコソやり続ける属国の統制]も兼ねていることは明らかだった。
それに対しスウェーデン・ノルウェー・フィンランドが『北欧条約機構』を設立すると北欧の分裂は決定化、表向きは平和でも,裏では日本の某将校が【バルト海に北欧を遮断する鉄のカーテンが降ろされた】と言ったほどの争いが起きてしまう。
この状態はやがて、国際的には『ノルディックバランス』、そして 北欧においては『冷戦』と呼ばれることになる。


───終───

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最終更新:2016年03月29日 20:25