765 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:35:19

【ネタ】瑞州大陸転移世界徒然点描6 蝦夷の様相、文化の様相



蝦夷とは日本においては本州東部と北部に居住し朝廷への帰属や同化を拒否していた集団を指している。言い方を変えれば、
大和朝廷に属する日本人とは別の、末路わぬ民ということだろう。彼らのアイデンティティーや集団としての在り方が
どのようなものだったのかは学者の議論に任せる。

日本神話から鑑みるに、今の九州地方から中国地方を経由して今の近畿地方にたどり着いたのが日本人なのだろう。
そこから来た人々から見て東の方というのは見たこともない人々が暮らす土地であり、恐怖の対象にもなったのだろう。
そして、東に暮らす人々には朝廷との付き合いを持つグループもいれば、敵対関係になったグループもいた。
朝廷の支配が関東にまで届くようになった13世紀ごろには蝦夷の定義も変わり、概ね東北地方に暮らすアイヌの人々を
さすように意味が変化したようである。そもそも征夷大将軍とはアテルイとの戦いに赴いた坂上田村麻呂が就任した役職である。
武士を束ねる役職という意味合いが派生して、鎌倉幕府に代表されるような支配階級としての地位に落ち着いたと言えるだろう。

そういう意味では、徳川家康は征夷大将軍としての本来の役割、即ち東北地方への征服活動を進めたといえる。
大名たちは東北地方にも伊達政宗や最上義光を筆頭に南部氏などがひしめいており、そこから北に進むことはなかった。
だが、徳川はさらに北を目指した。ここには大名たちの移封が完了して生まれていた浪人や土地を失った農民などを
放出する先を求めていた事情もある。瑞州へと放出できたのは良いが、瑞州を制圧されて独立を宣言されても困る。
旧豊臣の家臣たちを分断するためにも、派遣先が多いに越したことはない。管理しにくくなるとはいえ、距離による分断
というのはやはり大きい。この時代の郵便・旅・通信の事情は、夢幻会の後押しもあって史実より改善傾向にあった。
が、根本的にはまだ解決していない。郵便制度の構築に向けて動いてはいるが、まだ主体となるのは飛脚だった。
電気・電波の使用はやはり19世紀以降になると夢幻会は予測していた。なによりインフラの整備が優先であるし、
研究自体にもリソースを割かなければならない。無限に資金があるわけではないのだ。
閑話休題。とにかく、まだ移動にも時間がかかることから、距離の防御や距離による隔離もまだ成立していた。

蝦夷州・瑞州・新金州・比州・布哇州・新須賀といった開拓地で誕生した身分が、屯田兵である。
苗字帯刀が許可されたほか、髷を結い、土地と屋敷、役職に応じた俸禄があり、彼ら自身も畑を耕し、商売ができる。
所謂士農工商の4つの区分には収まらない、新しい階級。どちらかといえば士農工商のうち、士と農の間に該当する
階級だろうか。これは史実明治に誕生した屯田兵と概ね同じ役割である。どちらかといえば治安維持要員としての
兵役が課せられているが、これは将来のロシアの南下に備えた物でもある。いずれにせよ、農民の真似事をすることを嫌がる
武士たちを働かせる一つの方便のようなものだ。
まあ、屯田兵も一応は武士であるためにそれらは少なめに課された。しかし、自らの食い扶持を稼ぐには結局のところ
田畑を耕す必要があり、あまり身分的な差は存在していなかった。だが、屯田兵の一部はもともと大名に仕官していた
者もいたため、読み書きなどは一通りできる。彼らは空いた時間を寺子屋や学問所の講師として費やすことで日銭を
稼いでいた。江戸中期以降になると、この屯田兵は資産・土地・社会に通じるステータスを備えた階級となりつつあった。
重商政策の推進もあってのことだが、経済とかかわりを絶って武士として生きていくのはかなり厳しくなっていたようだ(※1)。

766 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:36:34

さて、その蝦夷だが開拓が進み始めて100年で、船舶が大々的に使われたことと夢幻会による技術・知識によるブーストもあり、
北海道の沿岸部をほぼ全てを踏破していた。内陸部への開拓はまだまだだがおおむね順調であった。特にアイヌの人々を
日本人の一員として緩やかに吸収して、彼らの知恵や知識を利用しているためにスピーディーに進んでいた。
北海道は瑞州や布哇などと異なり、特に気候の変動などが起こることはなかった。むしろ、東北地方では夏の気温が
暖流の影響もあって若干高くなったほどだ。当時夢幻会が調査した記録によれば、度々凶作の原因となっていた冷夏の
発生は史実よりもある程度減っていたようである。
夢幻会の指示もあり、また瑞州という大陸を開拓してきた経験を持っていたために、麦・豆・じゃがいも・稗・粟といった
雑穀を中心に栽培をはじめ、土地の改良を推し進めた。開拓初期には牛や馬の放牧がおこなわれて貴重な労働力となり、
また輸入された羊は羊毛を提供して冬を越す手助けができた。特に寒い地方においては羊毛の存在は大きい。

日本列島の一部でありながら日本本土とはやや異なる気候を持つ北海道だが、将来的には優秀な穀物供給地となることが予測され、
幕府も力を入れていた。瑞州も近くだが、有力な麦の生産地は瑞州の中部から東部がメインだ。どうしても輸送コストがかさむので、
北海道は供給地として十分成り立ち得る。大量生産は瑞州で行えるが、より質の高い麦などを得たければ北海道が一番だ。
当時幕府が蝦夷州開拓に参加した屯田兵や農民に課した奨励した農作物や畜産物の品目を見てみよう。

  • 豆類(大豆・小豆など)
  • ジャガイモ
  • テンサイ
  • 麦(小麦・大麦・燕麦・黒麦)
  • トウモロコシ
  • 干し肉(牛・羊・豚・山羊・鶏のいずれか)
  • 羊毛か羽毛
  • 水産物(海・川問わず)

開拓初期には、蝦夷州でも生育できるコメの品種は開発できていなかったために米はあればよいという認識の農作物だった。
むしろ幕府が推奨したのは麦・豆・トウモロコシなどだった。穀物は主食となるし、嗜好品となって収入を得るには
丁度いい。穀物としての価値が下がっていた米の生産を無理にしたところで、赤字にしかならないのだ。
加えて米の生産は手間がかかる。広い土地を使ってやるならば麦などの方がまだ楽であるし、フォーク農法が行えれば
土地を極めて集約的に活用できるというメリットもある。
そして一定程度の免除されて手元に余った米や農産物は販売されるか、現地で消費されていく。

当時の税の納入方法を調べると、個人が別々に納めるというよりは開拓村を丸ごと一つの集団として税を徴収していた。
開拓集団というのは家族・親族の集まりもあれば、まったくの赤の他人と共同で開拓しているところもあった。
そうなると、個人ごとに集めるのはトラブルになりかねないし、一々計算するのも面倒になってくる。戸籍の管理や
収穫高の把握という点においても利点があったために、そちらの方式が導入されていく。ここには犯罪者が潜り込んだり、
田畑を捨てて逃げ出すような事態が起こるのを阻止しやすくなるという統治上のメリットもあった。

768 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:37:53

また、生産物に関しても北海道内で生産物の平均化を生み出して、一定ラインを超えた余剰分を本土へと放出するという
方式をとった。つまり、一定値を超えれば自由に販売可能、一定値以下でノルマ以上ならば販売不可とわけたのだ。
とは言うが、ノルマに関してもそこまで過剰というわけではない。前にも述べたことだが、1700年代に入ったころは
諸藩の税もどちらかといえば流通させて収入となりうる特産物や工芸品に重点が置かれるようになっていた。
主食となる穀物に関しても一定程度農業協同組合を介してか、農民と直接取引することで価格が落ちすぎないように
注意を払う必要はあった。これは全国一律の農業体制ではないことの弊害なのか、藩によっては米の価格が著しく違う
という事態が度々発生していた。需要と供給のバランスというのは、相応に取るのが難しいものであった。
これに夢幻会も介入を考えたのだが、一度介入すれば日本全国で介入を続けなければならないために、幕府が一定の価格で
買い取る制度を導入して、価格の下落を抑止できるようにした(※2)。

生産階級の側も、生産物が余って腐らせるくらいならば何らかの方法で保存食として保管して飢饉に備えるようと
動き始めた。例えば、塩漬け・砂糖漬け・醤油漬け。特に醤油に関しては秋に遡上してくる鮭を利用した鮭醤油も流通し始めた。
低温殺菌法の登場が、醤油と同じく発酵食品の酒、そして牛からとれる牛乳に使用されて食中毒の拡大を防いでいたし、
質の向上にもかなり貢献していた。

とは言え、以前述べたようにそうした酒造り道具の発達は必然的にアルコールの濃度を高めることにつながった。
清酒というのはアルコール度数が15%前後の高い指数を持つ。酒米の中でもより削っていればより高くなる傾向にあった。
この清酒の生産というのは戦国時代の後期になってからようやく普及しており、それまではどちらかといえば濁酒に
近かったと推測される。そうなると混ざり物が多いためにアルコール度数は低い。
だが、度数の高い酒が流通すれば人々はそれを買い求め、それまでと同じ感覚で飲んでしまう。なまじうまいのだから、
それを求めてしまうし、杜氏も売れるのならばと生産を増やす。これには幕府もかなり手を焼いた。
代替品の度数の低い酒も売られてはいたが、どうやら舌が慣れてしまった人間には不人気だった。
何時の時代も、酒飲みというのは中々大変な存在なようだった。なまじ、酒の肴となる品々が充実
してしまったこともあり、酒の問題に付き合うのはかなり長いことになりそうだった。

769 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:38:52

そしてこのころ、蝦夷州開拓の中で麦を使った麺類が大いに発達した。
ラーメンを愛するメンバーが主体となり、北海道での食事状況を改善する手段として導入されたのだ。
思い出してほしいのは、すでに日本にはラーメンの素材が量産できる体制にあったことだ。
麦は瑞州・北海道そして裏作の一環で増えていたし、チャーシューなどの肉も事実上解禁されている。おまけに基本的な
味をつけるための醤油・味噌・豚骨・塩・昆布はそろっていたし、ラーメンを作る過程で必要な鉄製の鍋も瑞州の
鉱山から得た鉄を使って増産されていた。

また、ラーメンというのは体を温めるのにも向いている。タンパク質・脂質・炭水化物が盛沢山で、ダイエットをする人間には
敵ともいえるのだが、逆に言えばそれだけのカロリーをとることが可能ということなのだ。材料にも困らないならば、
それを作らない理由はない。特に冬場ともなれば、栄養とカロリーをたくさん取って植えたり冷えたりすることから逃れる
必要がある。その対策にはかなり適しているのだ。
一部ではジロリアンが本家を思わせるそれを過酷な労働者向けのスタミナ食として販売・布教を開始し(※3)、現在でも
大食い大会のようなものが開かれるほどに定着させてしまった。なお、初期の後援者は水戸徳川家の水戸中納言。
分かりやすく言えば、水戸光圀公だった。史実以上にラーメン好きになってしまったようである。

他にもパスタの普及も始まった。
欧州においてフォークが開発されるまで、庶民はともかく王族・貴族が食べるものとしては普及するまで時間がかかっていた。
イタリアにおいては14世紀ごろから普及したとされる。またイタリアと縁のあったフランスにもこれはもたらされたようであるが、
そこまで普及はしなかったようだ。それまで手づかみで食べるのが一般的であり、その食べる際の見苦しさもあって
貴族はパスタを食べることが少なかった。

だが、日本においては事情が違った。
穀物の栽培が、特に麦が多かった瑞州などではパンよりも食べなれた麺に加工することが多かったのだ。
この時代の瑞州における家屋では、小麦粉などから麺やパンを作る部屋や窯が儲けられる傾向にあった。
幸い雨も降れば川もあり、場所によっては湖や湧水が使えたことも後押しした。
トマトが輸入されていたこともあってトマトソースはもちろんの事、オイル・クリーム・野菜を使った味付けが日本各地で生まれ、
よくある長いパスタだけでなく、マカロニなどの形が様々なパスタが目で見て楽しむものとして普及していった。
他にもミネストローネやパスタを入れたグラタンなども誕生した。というか自重を忘れた夢幻会メンバーのせいなのだが、
結局のところ追及の手は止めざるを得なかったようである(※4)。

こうした動きの中で、フォークとスプーンが誕生した。フォークは又匙と名付けられて17世紀初頭には既に広まっていた。
箸を使いなれない、あるいは使えない年寄りや子供には食事において使いやすい道具だったのだ。
これが欧州に輸入された際は、パスタを食べやすいだけでなく手を汚さずに肉や野菜を食べることが出来るということで
一気に普及した。日本由来だからと珍重されたほかにも、日本において日本風洋食に舌が肥えた商人がこぞって
持ち帰ったことで、その便利さが一般化したためとも言われる。初期には日本にならって加工された木が材料だったが
後に金属を使ったものが一般化した。また王族などでは暗殺などを避けるために銀を使ったフォークとスプーンが
重宝されるようになった。さてこのフォークはピッチフォークに似ていることからフォークと呼ばれることになった
所まではほぼ史実通りだった。しかし、日本の『又匙(またさじ)』という名称がそのまま伝わって残ったためか、
マタザーあるいはマタサー、マージー、マタージと名付けられて洋食文化の一端を担うようになっていった。

770 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:39:52

そして、『炒める』という調理方法の登場は米の限界も超えた。
味が少々悪い米でも、味付け次第で何とかする方法が確立したためだ。
洋風の味付けが可能となっていたのでスペイン風のピラフ、なじみが深い炒飯、さらに野菜炒め。一気にバリエーションが増え、
人々の楽しみが増えていった。何しろ炒めるのに適した鍋が一つあれば作れるという手軽さは何物にも勝る影響力だ。
それまで日本にあった食材も新たな分野が生まれ、新しい形に進化していく。ここぞとばかりに焼きそばが生まれたり、
中華料理(アレンジ済み)の普及を目論む夢幻会メンバーの暗躍もあって、それらは市井に染み込んでいく。

気になるところだろうが、そういったメニューを作るための素材はどうしたのか。それは、簡単に言えば輸入である。
史実において明治に入ってから輸入された多くの野菜が、すでに入ってきていた。例えばキャベツは、江戸初期に
は日本へと輸入されて、一般的な野菜として広まっていた。ハボタンの元となったケールも輸入されたし、スペイン
経由でアメリカから輸入されたピーマンも一般化した。ピーマンは要するに辛さのない唐辛子だ。日本において普及する
際には唐辛子の品種改良の中で独自に品種が生まれた。その辛さの元となるカプサイシンによる発汗・発熱作用から
最初は薬用だったのだが、子供も食べられるようにさらに甘い品種の改良も進んで、海外へと逆輸入されている。

実際の所、史実における交配のパターンを知る日本の方が、欧州よりも多くの品種の開発に成功していた。
欧州がそれらを求めたのも、独自での品種改良に限界を感じていたためなのだろう。よくある話だが、欧州は
飢饉と疫病に苦しめられてきた歴史がある。おそらく、それへの敏感さは日本以上だろう。食べ物1つで革命が起きるのも、
飢饉1つで大戦争となるのもそういった歴史の積み重ねがある。

例えばだが、イギリスはジャガイモ飢饉の発生時、日本において品種改良されたジャガイモを急遽輸入して飢えをしのいだ。
元々日本からそれとなく警告を受けていて半信半疑だったが、当時イギリスに存在したジャガイモは無性生殖によって増えた
収穫量重視の品種ばかりで、病原菌の感染に耐え得るジャガイモがなかったことが拡大を招いたことが後の分析で
明らかになった。日本においては、収穫量を抑えて味を重視する品種、収穫量重視の品種、両者の中間を目的とする
品種、栄養の少ない土地でも収穫できる品種の主に4グループがあり、一部ではでんぷんを得るために改良を重ねた
品種も存在した。それ以降輸出されたそれらとの交配を重ねることで遺伝多様性を得たイギリスは、史実以上に食糧事情を
改善させることに成功していた(※5)。

食料とは少しいえないが、オランダもチューリップバブルの赤字補てんのために、日本へと輸出を重ねた経緯がある。
過熱し過ぎないように政府主導での輸出は、日本へとチューリップが入って来るきっかけになった。この事態には夢幻会の
園芸好きのメンバーが主導しており、オランダの経済安定を手伝うことで恩を売り、貿易時に融通を聞かせてもらう
という目的も達成していた。

こうした食文化の隆盛も、開拓を支えた。
食事が豊かになれば生きることに余裕が生まれる。生きるためだけに必死になるよりも、楽ができるのだ。
砂糖の価格下落は嗜好品の普及を後押ししたし、食料全体の生産量はかなり向上し続けていた。
そして税も過剰に取られることがないとなれば自然と争いも減って来る。徳川による支配が安定を生んだとわかれば、
余程のことが無ければ反抗しようとは思わない。
さらに一般市井における行政サービスも、奉行所を通じれば大体受けることが出来た。勿論一定の料金は取られるが、
それでも市井の情報が上へと組み上げられる体制なのは間違いない。
開拓というのはかなりの負荷がかかる。それはストレスであったり、ストレスがもとになる諍いや治安状況の悪化だ。
だが、それを解決できる体制がれば、一定以上のトラブルとはなりにくい。江戸時代の安定は、こうした姿勢に密接に
関わるところから始まっていたのだった。

771 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:41:33

さて、蝦夷に話を戻そう。
蝦夷州(北海道)開拓は、沿岸部の開拓に並行して内陸部への進出が積極的に進められていた。
特に内陸部では特に鉱山の探索と開発が行われた。北海道というのは日本の中でも鉱山が特に豊富な地域の一つだ。
鉄・銅・金・石炭・銀・マンガン・亜鉛・鉛・硫黄といった多種多様な鉱物が取れる山が多くある。
勿論、その量に限りがあるとはいえ、瑞州以外の国内で賄えるというのは大きな利点である。依存のしすぎも問題なのだ。

加えて、蒸気機関の開発後には石炭の需要も増えており、瑞州のみならず本州各所や九州でも採掘が推し進められていた。
その影響もあって、蝦夷州においても石炭の発見は急務になっていた。馬車鉄道が史実同様に重宝され、本州の大都市を
除けばかなり早い段階で蒸気機関車が導入された蝦夷州では、遠くから輸入するだけでなく、自ら手に入れようとしたのだ。
結果としてかなりの炭田に突き当たり、瑞州に負けるとはいえ日本の中では広い部類の北海道内部を結ぶ鉄道が
着々と開発されていった。ここでも夢幻会は炭鉱の労働者達の賃金補償や病気への備え、道具の貸し付けなどを行い、
滞りのない開発が行われるように取り計らっていた。

佐渡金山や石見銀山において培われた鉱山経営の経験とバックアップ体制は、瑞州の開拓の中でさらに磨かれており、
おまけに蒸気機関による排水と爆薬の使用による効率的な採掘によって、それまでとは比較にならないペースで進んでいた。
道具一つにしても木製のヘルメット・防塵マスク・プロテクター・レガースといった道具があれば事故が起きても最悪の事態を
避けることが出来る。さらに水銀を用いた温度計の導入で労働環境が良いか悪いかの判断もしやすくなるために、鉱員が
病気などで倒れる事態もかなり減りつつあった。

製錬に関しても、細々とした道具の更新が進んだ。
例えば鋼鉄に必須の反射炉は、煉瓦造りの中で作り上げられた高温の窯がベースとなって開発できたし、夢幻会の有志が
研究を重ねていて、おまけに海外からも技術者を招いて改良することが出来たために1700年代には完成していた。
記録によればその後1750年代にベッセマー転炉の原型のようなものが生まれて、1762年には幕府の公営研究機関で実用化。
全国に普及したようである。ついでに言えば20年のうちにトーマス転炉へと更新がすすめられたことから、その発展も
世界的に見ればかなり異常な速度で進んだ。

鉄というのは、一定以上の文化構築にはある意味必須と言える。
常温で変化しにくく、頑丈で、多様な用途に使えるのが鉄だ。およそ近代の産業というのは鉄が根底を担うところがある。
ドイツの宰相ビスマルクが鉄血政策と呼ばれる政策を打ち出したのも、鉄が重要だったからに他ならない。

772 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:43:49

ともあれ、こうした技術発達は鉄の民間普及にも貢献した。
この頃、包丁などは量産性を意図したものと、切れ味の良い高級な包丁とに棲み分けが生まれ始めていた。
さらに鉄が量産されたことは蒸気機関車の製造量の増加にもつながった。質が良く、蒸気の圧力にも耐えきるそれが増えれば
産業革命のペースも向上する。多くのマザーマシンが耐久性の高い鉄に置き換わり、工場が徐々に鉄に置換される。
また建築にも鉄の利用が増えていく。鉄筋を入れた建造物がこれまで以上に増えたのだ。
これまでは、その絶対量の関係から江戸城や瑞州をはじめとした重要都市を守るための堤防などに優先して振り分けられていた
鉄筋も、量産化によって優先度の低かった建物へも使われるようになっていく。代用としての竹筋コンクリートや
竹筋三和土などもあったが、これらは強度が高く地震をはじめとした災害時に多くの人の命を救っていた。

この転炉誕生と鉄の普及以降は、堤防の決壊というのがある程度減ったのが記録に残されている。やはり堤防の
強度が向上したことが要因なのだろう。また、堤防の補強するべき場所が何度かの災害によって明らかになり、集中的な
堤防の強化や住人の移住・土地の嵩上げなどの対策を打ち出しやすくなっていた。ここには夢幻会の保有する知識も
後押ししている。土地の形状がさほど変わっていなければ、現代でどこで堤防の決壊や浸水が起きたのかが参考になるのだ。

さらに言えば、軍事転用を目的として鉄の利用が始まっていた。
産業革命と転炉の開発後の1770年から、軍艦の装甲化が始まった。これは織田との清州同盟を結んでいたころに、
織田の徹甲船を実用的な物へと改造してのけたころから続けられていた研究の一つだった。
火で燃えないというのは軍艦にとってのアドバンテージだ。また砲弾が当たっても破壊されなければ船として無事なこともある。
将来木造船はその限界故に廃れていくだろうと予測していた夢幻会は、密かにそれを続けていた。

これならば、と車好きの夢幻会メンバーは自動車の実現も近いと喜んだのだが、まだまだ車は遠かった。
まあ、ブーストによって加速していることから1800年を迎える前には実用化できる目途が立っていたので、彼らも
あまり暴走することなく、蒸気機関搭載の自動車の開発に明け暮れていた。
史実において世界最初の交通事故を起こしたのもこの蒸気自動車だったりするのだが、開発史をたどればこちらの方が
先に誕生している。初期のガソリンエンジンというのは騒音などの点で蒸気自動車に劣っており、意外にも乗り物としては
長生きしている。技術的に見ても燃料的に見てもこちらの方が容易で、尚且つこの時代ならばそこまで無理をして開発する必要も
無かったために、こちらは割と普及していた。軍事的な活用を避けるためにもやはり所有には制限が設けられたが、
後に大型化と高出力化が実現した車両を用いて乗合バスのようなものが開発された。舗装されたところしか走れないという
欠点こそあったが、移動の効率化の影響はかなり大きい。ともあれ、産業革命に関しては後々に書いていくこととする。
こうした技術発展が欧州をも凌駕する国力を構築する原動力となったのは間違いない。
グレート・ゲームにおいて日本が常に高い影響力を持てたのも、こうした発展によるものなのだ。

773 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:45:07
※1:
当初は「武士にして武士にあらず、農民にして農民にあらず」と揶揄されたが、やがて抱える資産などで
普通の武士たちが彼らに逆転を許すケースが増えていった。屯田兵から有力な商人や武士として出世を
重ねる人間が増えていき、その出世譚が面白おかしく落語や歌舞伎の題材となったことで社会的な地位は
大きく向上していた。

※2:
買い取られた分は幕府が備蓄して飢饉に備えたほか、売却して幕府の財源の一部となったり、
幕臣に支払う俸禄として活用された。また、幕府は農協の利益の一部を税として徴収していたため、
生産量が維持されれば常に一定の税収が見込めた。

※3:
例によってあの呪文も一般化した。
どれくらい浸透したかといえば、落語になるレベル。
因みに二郎が登場する落語は「マシマシ問答」。江戸から来た町人を、その町人と出会った江戸から来たばかりの
屯田兵がラーメン屋に連れて行き、知ったかぶりをするというもの。


※4:
一度市井に広まったしまったものを止めることは難しく、夢幻会上層部もあきらめざるを得なかった。
また、パンなどよりも日本人受けが良かったため、禁止することも叶わなかったという事情もあった。
あろうことか、ナポリタンが海外において一定の支持層を得てしまった。なんと、イタリア人の間でも。
いくつかの種類のパスタについては、日本がそのオリジナルとなってしまったようだった。

因みに、海外へともたらされたためなのか、イギリス式の洗礼を受けたパスタが誕生した。
例としてウナギパスタがある。ウナギのゼリー寄せと悪魔合体を果たしたようで味はお察し。
だが、一定の支持層がいる。流石に日本人もコメントを控えてしまった。

※5:
特に飢饉対策のために荒れ地でも育ちやすい品種は病気にも強く、多くの人々を飢えから救った。
日本にもイギリスに持ち込んだジャガイモの病気の体制について報告がもたらされ、またイギリスで栽培された品種も
研究のために取り入れられていった。その為なのか、日本において欧州のようなジャガイモ飢饉は発生せず、
育てる地域に適した特有の品種の開発に成功してより生産量の向上が見られた。

774 :弥次郎:2016/04/02(土) 19:47:13
はい、以上となります。wiki転載はご自由に。
今回は蝦夷の開拓と、江戸時代の食事事情と産業について少し書きました。

食事に関しては史実なんて比じゃないレベルで発展してます。
というか、新大陸由来の食材ばっかり食っているんだって思い知らされましたね、調べていて。

史実戦中において木炭を使った自動車が製造されていたことは知っていましたが、まさかアメリカで蒸気自動車というものが
走っていたとは知りませんでした。しかも、誕生からそれなりに長い残っているという。正直驚きましたが、ガソリンエンジンも
初期は欠陥が多かったということを考えれば納得しました。この世界においても、技術的なハードルの低さや静かさなどを
考えてこちらを採用。マジで一部の人にしか使えませんが、それでも世界的に見れば異常な事態の発生ですな…

鉄についてはwiki頼りの知識ですが、概ね反射炉や転炉の開発に成功していると思われます。
戦国時代の頃から鉄を溶かせるくらいの高温の窯の研究は進んでいましたからね。鉄が増えれば鉄筋コンクリートがさらに増えて、
災害対策にも使えるようになります。産業の重工業化もほぼ目の前ですねー。
ま、ここには電気を扱う技術の発達も待たないといけませんけどね。まずは静電気をためる技術から始めて、次にモーターなどを
作っていきましょうか。あ、その前に電線も作らないと…それさえできれば電球もつくれそうです。

ともあれ、これでようやく下準備が整ったので本編の続きが投下できそうです。
しかし、よく考えると東の果てとは言え強大な国力を持つ日本に砲艦外交しかけることできるんですかね(汗
アメリカの命運や如何に。ではでは。

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最終更新:2016年04月03日 10:43