91 :ooi:2016/04/13(水) 22:09:43
豪州+新西蘭転移ネタ9
清国及び中華民国について2
蒋介石率いる中華民国陸軍は旧式ではあるが多数の火器を持つ雲南派と戦闘を開始した。
民国陸軍は下手に逃げられて長期戦になるのは厄介と考えて切り札の機甲部隊を前面に出して火力を以って雲南軍を粉砕していく作戦にした。
これは、見事に成功して雲南軍に大打撃を与えるに至った。
しかしながら、雲南軍も地雷を防御線に仕掛けていたので民国陸軍機甲部隊も約1割の被害を出してしまった。
なお、雲南軍は初戦の大打撃が致命傷となり、開戦から凡そ1年で中華民国に併合された。

次に狙ったのは四川派が抑えている四川省周辺地域だった。
雲南派併合から2ヵ月後、兵力の再編成と補充、休養を終えた中華民国は四川派撃破に動き出したが、四川派は西北派と合流して四川共和国の建国を宣言していた。
西北派が四川派と合流した理由は、孫文の北伐とほぼ同時期に行われた奉天派率いる華北共和国による領土拡張戦で大打撃を被って勢力を大きく減じた為であった。
この敗北で生き残りに黄信号が出ていた西北派は西進して四川派に合流して再建を図ったのである。
四川派も中華民国との戦争が近い事も有り、少しでも多くの兵力を欲していた理由から合流を認めて四川共和国の建国を宣言したのである。

中華民国と四川共和国の戦闘は雲南派が機甲部隊の攻撃で大打撃を被った事から、対戦車陣地を建設して持久戦の構えを見せた。
蒋介石は砲兵部隊によって防御陣地の撃破を行った後に機甲部隊突撃を画策してすぐさま実行に移した。
この攻撃は一定の成果は出たが、機甲部隊の被害も高かったので砲兵部隊と陸軍航空隊による遠距離攻撃に変更した。
これは徐々にではあるが戦況を有利に運び防御陣地突破を実現したので、民国陸軍は大攻勢を掛けて勝利を収めたのである。
このまま四川共和国の首都である成都を目指そうとした時、日露の依頼を受けた華北共和国が中華民国のシャンファンに侵攻したと云う一報が入った。
中華民国は陸軍の精鋭部隊の大半を北伐に動員していた事も有って、国境線の民国軍は華北軍に押し崩されかけていた。
その為、蒋介石は四川共和国討伐を断念して華北軍討伐の為に華北へ転戦する事となる。
しかしながら、蒋介石が戻ってきた時には華北軍は撤退していた。
再度、北伐の為に四川出兵をしようにも華北軍だけでなく福建軍に対しても警戒する必要が出た為に国境線に精鋭部隊を展開する必要が発生した。
これによって、中華民国は北伐による中華統一の手段を奪われてしまったのである。

孫文は、日本での癌治療で1943年5月まで生存し、中華民国の足固めを行って中華統一を未来の人材に託して死去した。

孫文の遺言で第二次世界大戦では中立を宣言して、更なる国力強化の資金を得る為に商売を行うに留まった。
しかし、蒋介石は日露が華北共和国と福建共和国を従えている限り中華統一は厳しいと内心悟っていた為、晩年には孫文の墓前で謝罪する様子が数回目撃されている。
だが、第二次世界大戦後に中華民国の軍事力を華北共和国と同等に育てたのは蒋介石の手腕であり、この業績は国民から評価されたので(中華統一の断念を除いて)満足な人生を送れた。

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最終更新:2016年04月17日 18:41