35 :フォレストン:2016/08/15(月) 20:53:12
アメリカの終焉とブリティッシュコロンビアの誕生

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱英国植民地事情-ブリティッシュコロンビア編-

ブリティッシュコロンビア。(英領米南)
英国が旧北米地区に獲得した海外領土であり、既に手放すことが決定しているインドに代わる新たな心臓部とでもいうべき最重要区域である。そのため、住民への慰撫工作は可能な限り行われ、統治にも細心の注意が払われていた。この点、ドイツの衛星国であるテキサス共和国とは対照的であった。テキサス共和国では、テキサス労働者党が支配を確立するまでに、少なくない血が流されたからである。

ブリティッシュコロンビアは旧アメリカ南部諸州で構成されているのであるが、南部は歴史的に発展が遅れた地域であった。南北戦争以前は大量に連れてきた黒人奴隷による大規模プランテーションにより経済的に発展したのであるが、南北戦争により大きな被害を受けた。その後の復興も遅々として進まず、南部は経済発展から取り残されてしまったのである。

20世紀に入ってからテキサスやメキシコ湾岸で油田が発見されたために、オイルブームが沸き起こり、本格的な経済成長を招いたのであるが、1929年の世界恐慌や1930年代に断続的に発生したダストボウル(砂嵐)によって、人的にも経済的にも甚大な被害を受けた。その後の南部の経済的成長は、限定された工業開発、低いレベルの起業精神、そして資本投下の欠乏により遅々としたものであった。

転機が訪れたのは、1942年8月の巨大津波による東部沿岸部の被災であった。巨大津波の被害は甚大であり、ニューヨーク州をはじめとした東海岸諸州は文字通り壊滅した。その後、発足した臨時政府はシカゴに臨時首都を置き、臨時大統領にジョン・N・ガーナーを指名した。ガーナーは、国内の復興と対日戦の継続のためには工業力の再建は急務であると考えており、そのためにはあらゆる手を打つつもりであった。

当初は西海岸の工場群の再稼働が最優先であった。財界の意思もあり、甚大な被害を受けた東部沿岸の復興を後回しにしてまでもカリフォルニア州とその周辺地域へのテコ入れが行われた。しかし、アジア艦隊が日本海軍に殲滅されて日本軍の西海岸上陸が現実味を帯びてくると、後方支援地域として南部がクローズアップされたのである。

36 :フォレストン:2016/08/15(月) 20:54:21
南部諸州は津波による被害が比較的軽微であった。アラバマ州ではアパラチア山系の豊富な石炭や鉄鉱石を利用した鉄鋼業が無傷で残存しており、テキサス州やルイジアナ州には油田があるために、石炭・石油による火力発電や鉄道輸送による物流など各種インフラも維持されていた。

アメリカ東部に比べて南部の工業力は低水準であったが、一つだけ例外があった。それは鉄道インフラ関連である。当時のアメリカ国内の輸送の主力は鉄道であった。そのため、国内には鉄道が張巡らされており、南部はサザン・パシフィック鉄道(Southern Pacific Railroad)が営業していたのである。

サザン・パシフィック鉄道は、南部を経由してアメリカの東西を結ぶ戦略的に重要な路線であった。総延長は13848マイル(22286km)という膨大なものであり、運行される機関車の数もまた膨大であった。そのため、沿線には大規模な機関車整備工場が多数存在していたのである。

これらの機関車整備工場は、アメリカン・ロコモティブ社(アルコ:American Locomotive Company)の所有であった。しかし、ニューヨーク州のスケネクタディの本社は巨大津波により消滅してしまい、事実上の倒産状態となっていた。臨時政府は、この機関車整備工場を暫定的に国有化して軍用目的に転用した。この措置は、巨大津波で本社が消滅した南部の工場施設の全てに適用された。

発足間もない臨時政府が、非常時とはいえこのような強権を発動出来たのは、アメリカ財界の強力な後ろ盾あってこそであった。アメリカの真のオーナーは彼ら財界の一握りであり、大統領を含めたホワイトハウスの住民は間借り人に過ぎなかったのである。

37 :フォレストン:2016/08/15(月) 20:55:36
国有化された工場で優先的に生産されたのは、戦車と航空機(戦闘機、爆撃機など)の生産であった。これらの工場には、西海岸防衛のために優先的に資材が配給された。

戦車の生産であるが、M2中戦車ではタイプ97(九七式中戦車)に対抗できないことが判明したために、新型戦車(M4中戦車)の開発が急がれた。大特急で開発が急がれた結果、新型戦車の設計と試験は年内に完了。1943年初頭から生産が開始された。

ミシガン州にあるGMのフィッシャー部門傘下のグランドブランク戦車工廠と、クライスラー傘下のデトロイト戦車工廠でM4の生産が開始された。しかし、予定の供給量を満たせなかったので旧アルコ社でも生産された。

大部分のM4は南部、中西部、西海岸の沿線上の旧アルコ社の機関車整備工場を転用して生産された。極度の混乱の中、人的・物的、そして採算をも度外視して工場を稼働させた結果、最終的にかなりの数のM4が生産された。

沿線の工場で生産されたM4は、当然ながら鉄道で西海岸まで輸送する予定であった。しかし、財界が逃げ支度のために私的に鉄道を利用したため、南部で生産されたM4の大半は工場の片隅で放置された。そのため、南部で生産されたM4は、その生産工場ごとドイツ軍と英軍に接収された。大西洋を越えてはるばるやってきた彼らが発見したものは、大隊規模のM4と、未だ稼働状態であった製造施設であった。英独軍の関係者は、これを『ガーナー給与』と呼んで大いに喜んだという。

M4は戦闘力はともかくとして、量産性、メンテナンス性、そして信頼性の高さは非の打ちどころがなく、改造のベース車両としてはうってつけであった。そのため、多連装ロケット砲を搭載したり、17ポンド砲塔を搭載したり、車体前面に火炎放射器を積んだり、砲塔を撤去して兵員輸送車にしたりと、ありとあらゆる魔改造が施され、カリフォルニア、テキサス、ブリティッシュコロンビアの3つの陣営で運用されることになるのである。

日本軍がタイプ97を上回る重戦車を戦場に投入してくる可能性を考慮して、対戦車車両であるM12ジャクソン駆逐戦車の生産も進められた。西海岸と南部全域で生産されたM4とは違い、こちらは西海岸の工場のみで生産された。M12は、155mmM1918M1加農砲の製造に手間取ったことが生産の足を引っ張ったものの、それなりの数が西海岸に配備された。同じく西海岸で生産されたM4共々、戦後はカリフォルニア共和国陸軍の所属となっている。

38 :フォレストン:2016/08/15(月) 20:56:46
航空機の生産は、老舗かつ有力な航空機メーカーであるグラマン、ヴォード、リパブリック、ブリュースター社が、巨大津波による被災で本社が消滅して倒産していたため、それ以外のメーカーに生産を委ねることになった。なお、ベル・エアクラフトも津波により本社が消滅していたのであるが、同社のヘリコプター製造部門(ベル・ヘリコプター)は、テキサス州に本拠を置いていたので、国有化されて引き続きヘリコプターの開発に従事していた。

生き残っていた航空機メーカーのうち、ボーイングはワシントン州シアトルに、ノースアメリカン、ロッキード、マーチンはカリフォルニア州に本社があるので巨大津波の被害を受けなかった。カリフォルニア州には油田があり、航空用ガソリンが確保出来るのも生産に都合が良かった。そのため、政府から資材が配給されて直ちに生産が再開されたのである。ただし、生産されたのは従来の機体であった。既にF4FやP40、最新鋭機であるはずのP38でさえ日本海軍のタイプ96(九六式艦上戦闘機)に勝てないことが判明していたのであるが、新型機の生産をするだけの余裕が無かったのである。ただし、新型機の開発そのものは行われており、ミズーリ州に本社を置いていたマクドネル・エアクラフトで設計と試作が行われていた。

カリフォルニア州に本社のあったコンベア社は例外であり、こちらはテキサス州へ移転している。これは西海岸に上陸してくるであろう日本軍に備えるためであった。当時、コンベア社が構想中であった機体は、それだけ画期的なものであり、マクドネル・エアクラフトで開発していた新型機共々、日本軍に対する切り札になると期待がかけられていたためである。

コンベア社は政府からの特命により、テキサス州に新工場を建設した。工場の建設に並行して機体の設計製作も大急ぎで進められたのであるが、実機が完成する前にアメリカが崩壊してしまった。機体の開発は中断され、進駐してきたドイツ軍により工場ごと接収されている。

39 :フォレストン:2016/08/15(月) 20:57:27
臨時政府の必死の努力にもかかわらず、巨大津波による被災から遅々として進まない救助活動と復興、それに加えて疫病(アメリカ風邪)により、東部諸州の住民の不安と怒りは限界まで高まっていた。各地で反政府集会が開かれるようになり、政府打倒が叫ばれた。津波による直接被害を受けなかった内陸部でも、金融と物流の麻痺による経済破綻が始まっており、それに加えて飢えと疫病から逃れるために流入する東部住民への対処も限界を迎えつつあった。内陸部でも臨時政府への不満が高まっていたのである。

利害が異なる者達が、一致団結する簡単かつ有力な方法が、共通の敵を作り出すことである。その『共通の敵』である日本にアメリカは連戦連敗であった。このような状況では、各地の州の有力者達が本気で連邦からの離脱を考えたのも無理もないことであった。1943年に入ると、臨時政府と軍、連邦政府と州政府、白人と有色人種の対立により、アメリカは崩壊の危機を迎えていたのである。

この危機的状態をいち早く察知したのは、他ならぬアメリカ財界であった。アメリカの崩壊は避けられないと判断した彼らは、西海岸に新国家を樹立することを画策し、南部に集中させていた物資や人材を、密かに西海岸へ移動させた。驚くべきことに、臨時政府には何も言わずにである。当時の末期的状況がよく分かる逸話である。

40 :フォレストン:2016/08/15(月) 20:58:43
以下、時系列ごとに簡潔に記す。

1943年2月8日。
歴史的大寒波に見舞われた東部では市民による武装蜂起が発生、臨時政府は直ちに軍に鎮圧を命じたものの、軍がサボタージュしたため効果は無かった。そのために反乱は拡大の一途をたどり、事実上の無政府状態となった。身の安全の確保すら難しい状況となり、臨時政府の閣僚たちはバラバラにシカゴを脱出。アメリカ合衆国は無政府状態となった。

1943年3月21日。
英独仏伊を主力とした7個師団からなる第一次北米侵攻部隊を載せた欧州連合艦隊が出撃。災害救援を名目に掲げているものの、実際は崩壊した旧アメリカの分割支配が目的であった。艦隊出撃に先んじて、英国の
エージェントが、旧アメリカ財界をはじめとする国内の有力者と接触。欧州連合軍の進駐を認めさせるとともに、住民への慰撫工作を開始する。北米分割が本格化したことを理解した財界は、持てるだけの財産を持ってカリフォルニアへ逃亡した。

1943年4月5日。
欧州連合艦隊がフロリダ州のマイアミ港から上陸。北米大陸への侵攻を開始。以後、欧州版『銀輪部隊』は北上しつつ近隣地域を占領。英軍はルイジアナ州で停止。枢軸軍はテキサス州とその周辺地域を制圧。

1943年6月6日。
日米講和条約『サンフランシスコ条約』締結。
カリフォルニア共和国成立。

1943年7月。
ソ連による大反攻作戦『バクラチオン』発動。
二大陸軍国独ソがその総力を結集して南方戦線で全面衝突。

1943年7月31日。
カナダ国内で共産シンパによるテロが発生。
共産ゲリラ、それも旧アメリカ人による恐るべき計画が明らかになる。

1943年8月。
英日連合軍による滅菌作戦開始。五大湖周辺の工業地帯が灰燼に帰す。グランドブランク戦車工廠とデトロイト戦車工廠を含むデトロイトの工業地帯は空襲による火災で消失。

1943年8月15日。
クレムリンで反スターリン派によるクーデターが勃発。スターリンは失脚し即日処刑される。

1943年10月。
帝国海軍大将・嶋田繁太郎、対米戦争における功績から海軍元帥に任じられる。

1944年1月10日。
カリフォルニア共和国サンフランシスコにて大日本帝国、大英帝国、ドイツ第三帝国によるサンタモニカ会談が開かれる。英国は、旧フロリダ州、旧アラバマ州、旧ミシシッピ州、旧ルイジアナ州をブリティッシュコロンビアとして英領に編入。

1944年2月。
旧フロリダ州ジャクソンビルにブリティッシュコロンビア総督府が設置される。

41 :フォレストン:2016/08/15(月) 20:59:38
ブリティッシュコロンビア総督府は、ジョージア共和国に近いジャクソンビルの旧市庁舎に置かれていた。第一次北米侵攻部隊が上陸したマイアミに総督府が置かれなかったのは、港湾都市としての機能がマイアミよりも充実していたからである。これに加えて、放棄された海軍基地(旧メイポート海軍補給基地)が存在していたため、英国海軍を駐留させるのに都合が良かった。

1945年におけるブリティッシュコロンビア総督府の陣容は以下のとおりである。

ブリティッシュコロンビア総督
ウィリアム・エドムンド・アイアンサイド陸軍元帥男爵(Sir William Edmund Ironside, 1st Baron Ironside:初代アイアンサイド男爵)

駐留陸軍総指揮官
クルード・オーキンレック陸軍大将(Claude John Eyre Auchinleck)

駐留海軍総指揮官
ジョン・クローニン・トーヴィー海軍元帥(John Cronyn Tovey)

駐留空軍総指揮官
アーサー・トラヴァース・ハリス空軍大将(Arthur Travers Harris)

駐留情報担当部長
キム・フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby)

42 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:00:53
ブリティッシュコロンビア総督であるが、当初はウィンザー公が就任する予定であった。インドに代わる重要な地域であり、王族が総督に就任するのは妥当であった。もっとも、英国本国からしてみれば、厄介払い以外の何物でもなかった。現国王であるジョージ6世が、国内の引き締めを行っているときに、まかり間違って戻って来られても混乱するだけである。適当な役職に縛りつけてしまえ-これが王室関係者の本音であった。

史実ではバハマ総督としてバハマ諸島へ赴任しているウィンザー公であるが、この世界では夫妻共々、豪州の地で生活していた。ウィンザー公は親独派であり、ドイツ側からしてみれば、利用価値が非常に高い人物であった。実際、ドイツは英国を降伏させたあとの傀儡政権のトップとしてウィンザー公を利用するため、親衛隊に命じてウィンザー公を誘拐する作戦を計画していたのである。この計画は実行直前で英国情報部に察知され、警備上の問題でバハマ総督就任はお流れとなった。より安全な場所ということで、ウィンザー公夫妻の新たな滞在先には豪州が選ばれたのである。

豪州の地で暮らすことになったウィンザー公夫妻は、豪州政府からシドニー近郊に邸宅を提供され、さらに所得税を免除されて悠々自適な生活を過ごしていた。しかし、平穏な生活は長くは続かなかった。1942年の巨大津波によるアメリカ東部沿岸の被災、その後のアメリカ風邪による滅菌作戦で、故郷ボルチモアが消滅したことを知ったウォリスは精神を病んでしまったのである。

精神を患ったウォリスであるが、夫であるウィンザー公の献身的な介護により少しずつ立ち直っていった。ウォリスの回復を切に願い、共にあろうとするウィンザー公は、ブリティッシュコロンビア総督就任を固辞し、その後も一切の公務に就くことはなく、あくまでも市井の人として回復したウォリスと仲睦まじく暮らしていくことになる。

ウィンザー公がブリティッシュコロンビア総督就任を固辞したことで、当然ながら後任人事が問題となった。重要な地域故に、王族か大貴族に任せたいところであったが、そのような人材は既に重要な公務に就いていた。そのため、人選は難航したのであるが、紆余曲折の末にウィリアム・エドムンド・アイアンサイド陸軍元帥男爵に決定した。

エドムンド卿は、ジブラルタル総督や帝国参謀本部総長などの要職を歴任しており、陸軍元帥の地位にあった。さらに数々の功績から男爵に叙されており、初代アイアンサイド男爵で貴族院議員でもあった。地位と実績という意味では申し分ない人選だったのである。史実と同じく、ドイツのフランス侵攻時に惨敗して激怒したチャーチルに解任されるなど、お世辞にも前線向きの人物では無いのであるが、総督職は実質的にお飾りなので問題は無かったのである。

43 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:01:40
駐留陸軍総指揮官には、北米方面軍の指揮官だったクルード・オーキンレック陸軍大将が、そのまま横滑りしていた。彼とそのスタッフ達は、滞りがちな補給に四苦八苦しながら陸軍を維持していた。

駐留陸軍司令部は、総督府と同じくジャクソンビルに置かれているが、大半の戦力は各地に存在している旧州軍基地に駐屯していた。基地自体はほぼ無傷で残されていたため、英軍が再利用することに問題は無かった。

ブリティッシュコロンビアに駐留する陸軍に足りてないものを挙げろと言われれば、全て足りないという答えが返ってくることであろう。それくらい何もかも足りていなかった。本国の窮状を鑑みれば当然ではある。遠く離れた本国からの補給があてにできない以上、現地調達するしかなかった。上述のM4戦車はもちろんのこと、それ以外のあらゆる物が現地調達の対象となったのである。

現地調達しているのは兵器ばかりではなかった。人材の現地調達も積極的に行われていた。陸軍が駐屯する旧州軍基地には、匪賊化した旧連邦軍将兵が立て籠もっているケースが多々あった。陸軍は、彼らを得意の口八丁で説得したのである。基本的に言語が同じなので、意思疎通はスムーズであり、理詰めの説得を受けると、先行きに不安を感じていた旧連邦兵は続々と投降した。武装解除された彼らは、後方で訓練を受けた後に再配置されたのである。

現地調達が進むに従って、駐留英軍は本国とは異なる軍備を整えていった。そのため、駐留英軍というよりも、ブリティッシュコロンビア軍といった様相を呈していくことになる。

44 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:02:36
英国も日本やドイツと同じく、来るべき次の戦争の舞台は旧北米を想定していた。旧北米を舞台とする以上、当然のことながら陸軍が主役となる。しかし、英国は海軍国であった。世界有数の陸軍大国であるドイツとまともにぶつかっては勝ち目が無いのは明白であった。

駐留陸軍の基本戦術は空軍との連携による守勢メインの漸減作戦であった。要はまともに主力同士がぶつかったら負けるので、別の手段でドイツ軍の戦力を削り、さらに持久出血戦法取ることで引き分けを狙うものであった。最悪、負けさえしなければ、英国紳士お得意の外交で取り戻せるのである。そのことは先年のバトル・オブ・ブリテンの戦後経過でも実証済みであった。

陸軍の漸減作戦の主力は以下の通りである。

  • コマンド部隊
  • 対戦車ヘリコプター部隊
  • インディアン部隊

コマンド部隊は、バトル・オブ・ブリテン時に編成されて戦後に解散したコマンド部隊を基幹にして再編成されている。彼らは、ウィリアム・E・フェアバーン陸軍大尉(William E Fairbairn)から、サイレントキリング(無音殺傷法)を叩きこまれており、指揮官暗殺や破壊工作などの後方かく乱に投入されることになる。

対戦車ヘリコプター部隊は、バトル・オブ・ブリテン時に研究・試作されていたジャイロダインの発展強化型で編成されていた。戦車の天板をぶち抜ける大口径機関砲を機首に装備し、主翼には対地攻撃に極めて効果の高いロケット弾を装備可能であった。

インディアン部隊は、その名の如く現地のインディアン部族で編成された民兵部隊である。ジョン・マルコム・ソープ・フレミング・チャーチル陸軍中佐(John Malcolm Thorpe Fleming Churchill)によって徹底的に鍛えあげられた。その結果、史実のグルカ兵並みの練度を持つに至ったインディアン部隊は、たかが民兵と侮ったドイツ軍を恐怖のどん底に叩き落すことになる。

45 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:03:32
陸軍の主力である機甲部隊は、パーシー・クレッグホーン・スタンレー・ホバート陸軍少将(Sir Percy Cleghorn Stanley Hobart)率いる第79機甲師団であった。

指揮官であるパーシー・ホバート少将は、先進的な機甲戦術思想の持主であった。型破りな戦術であったが故に、主流派からは疎まれていたのであるが、第2次大戦緒戦のドイツ機甲師団の快進撃により再評価されて虎の子の精鋭師団の指揮官に抜擢されたのである。

第79機甲師団は、持久出血戦法を基本戦術とするその性格上、一般的な機甲師団に比べてブルドーザやショベルカーなどの建機が非常に充実しており、塹壕やトーチカ作りに活用された。戦力差を埋めるために、有事の際には大量の地雷の埋設も考慮されており、チャーチル戦車を改造した専用の地雷敷設車両(対人/対戦車)も多数配備されていた。史実ではホバーツ・ファニーズ(Hobart's Funnies,『ホバートのゆかいな仲間たち』)と通称された特殊車両を多数運用する軍団であったが、この世界では比較的真っ当な機甲師団として編成されていたのである。最初だけであるが。

ホバートは、電撃戦の生みの親であるハインツ・グデーリアンが非常に高く評価している指揮官であった。それだけに守勢よりも攻勢を好んでいたのであるが、かといって本国の意向を無視して暴走するような猪武者でもなかった。彼は自陣でドイツ軍と相対しているときに、後方をかく乱することで戦局を有利に運ぶことを思いつき、それが可能な戦力を本国に求めたのである。

彼の着想を実現させるためにDMWD(多角的兵器開発部 : Department of Miscellaneous Weapon Development)により数々の特殊車両が開発された。具体的には空を飛ぶレンジローバーや、現地生産されたM4の水陸両用仕様などである。この他にも多数の特殊車両が生産されて、第79機甲師団に配備されることになる。

46 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:04:45
駐留英国海軍総指揮官には、欧州連合艦隊の指揮を執ったジョン・クローニン・トーヴィー海軍元帥(John Cronyn Tovey)が就任していた。

駐留海軍司令部は、ジャクソンビルのメイポート海軍補給基地に置かれていた。旧連邦時代から存在するこの基地は、軍港と飛行場が組み合わされており、その長大な滑走路は重爆の離着陸も余裕で可能であった。そのため、飛行場側には駐留空軍司令部が置かれていた。なお、カリブ海での限定運用という条件で日本側から貸与されている16インチ砲搭載艦もこの基地を母港としていた。

平時のブリティッシュコロンビアにおける海軍の役割は海上護衛であり、本国からは製品を、ブリティッシュコロンビア側からは資源を無事に送り届けることが至上命題であった。この点、海軍国である英国は手慣れおり、第1次大戦以来の護送船団方式で対応していた。戦争は終結しているのであるから、普通に独航したほうが効率が良いのであるが、わざわざこんなことをするからには、もちろん理由があった。

仮に大西洋を独航したとして、その途中で何らかの原因で船が沈むことになったらどうなるか。単なる事故よるものと即座に判明するならば問題ない。では、そうでなかった場合はどうなるか。当然、どちらかの陣営による撃沈ということになるであろう。そうなれば、最悪戦争になりかねないのである。Uボート対策であることはもちろんなのであるが、身の証を建てる意味でも船団護衛は必須だったのである。ちなみに、枢軸側も同様の理由で船団護衛を行っているのであるが、不慣れな任務で神経をすり減らしていくことになる。

護送船団方式は運航効率と荷役効率の低下や、衝突事故の危険もあるため、可能な限り船団規模は小さいほうが望ましかった。加えて、比較的軽微とはいえジャクソンビルやマイアミの港湾施設も津波の被害を受けていたために、一度に受け入れられる船舶数に限界があった。

船団の規模を小さくすると柔軟な運用が行える反面、船団数そのものが増えるために対潜護衛部隊に負担がかかる。この問題には、リバー型フリゲートを大量建造して対応することになった。リバー型は航洋能力と生産性の確保のために商船構造となっていたが、対潜兵装は護衛駆逐艦並みに充実していたためにUボート対策にはうってつけであった。

英国本国の造船所は、未だ損傷艦の修理や代替船の建造で余裕が無かったため、リバー型は主にカナダの造船所で建造された。このリバー型数隻に旗艦であるMAC船を加えて最小単位の護衛艦隊としていた。MAC船は史実のラパナ型やエンパイア・マッケイ型のように、タンカーや貨物船を兼任していた。これは少しでも無駄を省き、輸送量を増大させるための苦肉の策であった。当然、格納庫などは存在せず、MAC船の搭載機であるソードフィッシュは露天係止されていた。このソードフィッシュも、高性能化するUボートに対応するために強化改造され、異形の姿に変わり果てていくことになる。

47 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:06:20
有事の際、つまりは北米における枢軸側との戦争に突入したときに海軍に求められているのは、シーレーン防衛と陸軍の支援であった。ブリティッシュコロンビアから輸出される資源は、英国本国にとって生命線になりつつあった。逆もまた然りであり、英国から機械を輸入しないとブリティッシュコロンビアは立ち行かなかったのである。

戦時の英国の船舶は、CMMC(Civil Merchant Marine Committee:民間商船委員会)の統制化に置かれることになっていた。船舶や船員の一元的に管理することで効率的な運用を狙ったものであるが、予想されるUボート襲撃による損害を極力減らすために取られた措置でもあった。

海軍としては、護衛対象がまとまっていたほうが守りやすいのである。そのため、平時とは異なり前述したデメリットを甘受して、大規模な護衛船団を編成することになっていた。これを護衛するのは、フレデリック・ジョン・ウォーカー海軍准将を司令官とする新設の対潜部隊であった。対潜作戦の第一人者であるウォーカー准将は、部隊に厳しい訓練を課して有事に備えることになる。

陸軍への支援であるが、空母機動部隊によるドイツ軍への空爆が考えられていた。しかし、効果範囲は沿岸部に限定されており、海軍が陸軍へ行える直接支援の選択肢は少ないのが現状であった。少しでも戦場が内陸部に移ってしまうと海軍の出番は無かったのである。ならば、シーレーン防衛に徹すればよいものなのであるが、出番が少ない…もとい、貢献する気満々な海軍は、新兵器を開発することでこの局面をなんとかしようとしたのである。

一例を挙げると戦艦用のロケットアシスト砲弾や艦載型のヒドラジンロケットの開発などである。果ては、KGV型戦艦の予備砲身を2門結合して、内部のライフルを削って16インチ滑腔砲としたものを搭載したスーパーモニター艦まで計画した。

1950年代に実際に試作されたこの砲の初速は、当時としては驚異的な2100m/sを達成しており、適切な角度で発射すれば成層圏を余裕で突き抜けて最大射程は400kmに迫る画期的なものであった。もっとも、初速と射程を稼ぐために砲弾は小型軽量化されてしまったので、射程はともかく威力には疑問符が付いてはいたが。

48 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:08:18
駐留空軍総指揮官にはアーサー・トラヴァース・ハリス空軍大将(Arthur Travers Harris)が就任していた。

史実と同じく、バトル・オブ・ブリテン時には英国本土でボマーコマンド(爆撃機軍団)の司令を務めていたハリスであるが、早期にドイツ側との停戦が実現してしまったために、彼の率いる爆撃隊の出番は無かった。徹底的な戦略爆撃でドイツを叩き潰そうと考えていたハリスは、自らの爆撃理論の正しさを立証するべくブリティッシュコロンビア行きを志願したのである。

アーサー・ハリス大将は狂的な戦略爆撃論者であった。日本を爆撃した、あのカーチス・ルメイが裸足で逃げだすほどの筋金入りである。職場へ向かう途中でスピード違反で警官に止められた際のやり取りが、彼の性格を端的に表している。

『閣下、あの速度では人を殺しかねませんよ』
『私は殺すために急いでいたんだ』

これをブリティッシュジョークととるのか、不謹慎とみるかは、個人差があるであろうが、彼がいかにヤバい人物であるかは分かってもらえたであろう。こんな性格であるので上層部からも煙たがられており、彼のブリティッシュコロンビア行きはあっさりと認められたのである。

49 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:09:13
駐留空軍司令部は、海軍と同じくメイポート海軍補給基地に置かれていた。正確には基地に隣接した飛行場に置かれていた。この基地の滑走路は8000フィート(2440m)にも及ぶ長大なものであり、英空軍所属の全ての機体が離着陸可能であった。もちろん、あのランカストリアンも離着陸可能であった。

空軍は同基地に主力部隊が常駐していた。この他にも旧連邦時代から存在するマクディール空軍基地、マクスウェル空軍基地、キースラー空軍基地、バークスデール空軍基地があり、ローテーションを組んで部隊配置された。無論、テキサス共和国に近いほうが前線扱いされているのは言うまでもないことである。

ブリティッシュコロンビアにおける空軍の役割は陸軍の支援であり、具体的にはドイツ機甲師団を空爆して痛打することである。機甲師団は空からの攻撃に弱いので、制空権さえ確保してしまえば、戦闘を有利に進めることが出来る。そのためには、まず戦闘機が必要となるのであるが、当時の空軍の戦闘機不足は深刻なものであった。最新のグリフォン・スピットは、本国へ優先配備されていたために、ハリケーンが主力となった。海軍が日本から烈風を輸入したことにより、余ったシーファイアを空軍仕様に改修して使用することまでしていた。しかし、1944年末になると、英国初のジェット戦闘機であるグロスター ミーティアが少しずつであるが配備され始め、以後は最新の戦闘機が配備されていくことになる。

爆撃機は比較的スムーズに調達された。爆撃隊はドイツへの爆撃に投入されなかったために、ほぼ無傷で残されていたのである。戦後の英国では、高性能爆撃機で敵の防空網を突破し、敵空軍基地を叩くことで彼我の戦力差を縮める戦略が検討されていたのであるが、この戦略には従来の爆撃機では性能不足であった。そのため、ブリティッシュコロンビアへの配置は特に反対されることもなかったのである。

配備された爆撃機であるが、当時最新であったアブロ ランカスターが主に配備された。これは空軍上層部にハリス大将が強く働きかけたためである。ランカスターは搭載量が大きく、特殊爆弾の運用が可能であった。この特殊爆弾でドイツ機甲部隊を殲滅するつもりであった。

50 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:10:19
特殊爆弾であるトールボーイとグランドスラム、燃料気化爆弾は、ヴィッカースの技術者にして、現在はDMWDに出向しているバーンズ・ネヴィル・ウォリス卿(Barnes Neville Wallis)が開発した大型爆弾である。

トールボーイは装甲目標や地下の構築物を破壊する徹甲爆弾の一種であり、それをさらに大型化したのがグランドスラムである。空力に優れた極めて強固な構造をしており、高高度から投下すると音速近くまで加速してから装甲目標を撃ち抜いて地中深くで炸裂した。その際に地表では建造物が倒壊するほどの揺れと巨大なクレーターが育成されるのである。

一例を挙げると、トールボーイの場合、高度5500m、270km/hで飛行するランカスターから投下すると最終落下速度は1210km/hに達し、4.9mのコンクリートを貫通して炸裂、直径30m、深さ24mのクレーターを作ることが出来た。この破壊力は、核を除けば最強クラスであった。グランドスラムに至っては、トールボーイの倍の重さであり、炸裂したときの破壊力は想像を絶するものであった。

この爆弾を、進撃中のドイツ機甲師団の鼻先で炸裂させて足止めをすることが、作戦の第一段階である。巨大なクレーターの前には、いかに精強なドイツ軍といえど足を止めざるを得ない。後方でも炸裂させて進退窮まる状況にするのがベストである。

作戦の第二段階は、燃料気化爆弾による無差別爆撃である。この爆弾の特徴は、広範囲かつ比較的長く爆風が残留して人間や非装甲目標に多大な被害を与えることである。高熱と爆風・衝撃波にのよる爆散・炭化を免れても高温高圧のガスが周囲に浸透し、内臓や精密機械を焼灼・圧壊させる効果もあった。装甲目標に対しては、直接の被害を免れても大気中の酸素濃度が急激に低下すると共に一酸化炭素が充満し、生存者を窒息死させることが出来た。

足止めされた状況で、この爆弾を大量投下されたドイツ機甲師団は鉄くずの群れと成り果てるであろう。あとは現地の鉄くず業者に解体を請け負わせれば地元経済も潤って一石二鳥である。駐留空軍は本気でこの作戦を実行するべく、機材の調達や訓練に勤しむことになる。

51 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:11:57
駐留情報担当部長にはキム・フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby)が就任しており、彼の下には4人の情報担当官が配属されていた。この5人は、いわゆるケンブリッジ・ファイヴと呼ばれた人間達である。

史実ではソ連のスパイとして英国で暗躍した彼らが、何故このような場所にいるかというと、端的に言うとソ連に売られたのである。当時の英国は、密かにソ連への支援をしていたのであるが、当然無償というわけではない、見返りを求めた。その見返りの一つが彼らの情報だったのである。この情報がもたらされたことによる英国情報部の混乱は凄まじいものであり、英国内で徹底的な赤狩りが行われたことは言うまでも無い。特にキム・フィルビーは、当時の情報部長官のスチュワート・メンジーズ(Sir Stewart Graham Menzies ([ˈmɪŋɪz]))が次期長官候補として高く評価しており、この件で彼の失職は決定的となった。

幸か不幸か、史実ほど暗躍出来なかったケンブリッジ・ファイブは極刑に処されることなく、ブリティッシュコロンビアへ島流しとなった。彼らがスパイとして有能なのは間違いなく、そのような人材を遊ばせておく余裕は英国には無かったのである。もちろん、厳重な監視を付けられたことは言うまでも無い。

新設された部署である駐留情報担当部の業務は、ブリティッシュコロンビア内の様々な情報を管理することであった。英国も戦前のデータは持っていたのであるが、巨大津波による被災で役に立たないことが多く、領内各地に調査隊を派遣していた。調査項目は多岐にわたり、津波から3年近く経った現在でも新たなデータが届くほどであった。その膨大なデータを整理し、使えるものを本国に送るのが彼らの仕事であった。ただし、これは表向きであり、本来の業務は別に存在していた。

駐留情報担当部の本来の業務は、英国情報部と連携して旧北米地域に諜報網を作り上げることであった。特にキム・フィルビーは、戦前にアメリカの情報機関であるOSS(Office of Strategic Services:戦略諜報局)設立時に彼らの教官として英国情報部の組織構造、任務、暗号解読作業などを教えていたために、その手腕を期待されていた。調査隊が送ってくるデータには人材に関するものもあり、旧OSSや元ソ連のスパイなどをスカウトして取り込み、組織化していったのである。

ケンブリッジ・ファイヴによって築き上げられた情報組織が、旧北米地域全域まで活動範囲を広げるに至ると総督府から分離されて正式な情報機関となった。名称はCIA(Central Intelligence Agency:中央情報局)であり、後にこのことを知った逆行者達は何とも言えない表情をしたという。

CIAは英国情報部の下部機関とされた。それに伴い新たな上層部が英国本国から派遣され、ケンブリッジ・ファイブは解任された。ケンブリッジ・ファイブのその後であるが、英国本国に戻ったとも、ソ連へ渡ったとも、はたまた新たな宗教に目覚めたとも言われているが、彼らのその後は不明である。

52 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:18:26
CIAが発足した後も総督府には情報担当部が残されており、表向きの業務を継続していた。調査隊が得た情報はこの部署に集約されたのである。ブリティッシュコロンビア総督府では、領域内を南東部(旧フロリダ)、中央部(旧アラバマ)、中西部(旧ミシシッピ)、西部(旧ルイジアナ)に分けており、情報も各地域毎に整理された。以下は、各地域のおおまかな情報である。

南東部(旧フロリダ州)
公式には設定されてないものの、総督府が所在するジャクソンビルが事実上の首都となっており、大西洋に面しているため、英国本国との行き来が盛んである。域内のジャクソンビルとマイアミがブリティッシュコロンビアの玄関口である。

ジャクソンビルは巨大な港湾都市である。軍港としての機能も有しており、駐留英海軍の大半がここを母港としている。日本から貸与されたカリブ海限定運用の16インチ砲搭載艦もここを母港としている。駐留英軍の司令部も全てここに所在している。

ジャクソンビルほどではないが、マイアミも巨大な港湾都市である。こちらも軍港としての機能があるが、規模はジャクソンビルよりも小さく、民間船の運航がメインである。

巨大津波後の異常気象にも関わらず、温暖な気候を維持しており農業、漁業共に盛んである。保養地としても有名であり、英国の上流階級が所有する別荘も多い。

ちなみに、同域内のマイアミ・デイド郡で1950年代に生まれたハンバーガーチェーンは、ブリティッシュコロンビア領内だけにとどまらずカリフォルニア共和国に進出、余勢をかって日本にまで進出している。そのアメリカンテイストとサイズは、当時の日本人には奇異に思われたが、逆行者達には大人気であり、人気を根付かせるべく、草の根運動が繰り広げられた。彼らの努力が報われたかどうかは、また別の話である

53 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:19:29
中央部(旧アラバマ州)
農業と漁業が盛んな地域であり、農漁業生産物として、鶏肉と鶏卵、牛、魚類、苗、ラッカセイ、木綿、 トウモロコシやモロコシ等の穀物、野菜、牛乳、ダイズ、並びに桃がある。

中央部は、アパラチア山系の豊富な石炭や鉄鉱石を利用した鉄鋼業も盛んである。産出された鉄鉱石は、現地の製鉄所で加工されてから本国へ輸出されている。当初は粗鋼が占める比重が大きかったのであるが、現在では圧延版や鋼管などの加工品の占める割合が大きくなっている。これらの産物は鉄道と海運によって南東部に運ばれたのちに英国本国へ輸出されている。

同域内に旧連邦時代から存在するレッドストーン兵器廠では、弾薬の製造と備蓄が行われている。周辺施設では、戦車を含む陸上兵器が現地生産されており、兵站上の優位さから英陸軍の主力が駐屯している。

レッドストーン兵器廠は、日本の弾道弾に対抗するためのロケット開発の拠点でもある。この場所が選ばれた理由は、固体燃料ロケット用の装薬が調達しやすかったからである。英国では、コンクリーヴ・ロケット(初代)からRP-3ロケット弾に至るまでの技術蓄積が豊富であるために、固体ロケットを開発することになるのは必然であった。この計画には陸軍と空軍が全面的に協力していた。海軍は独自路線を突っ走り、ヒドラジンロケットを艦載するという無茶をやって事故を多発させたあげく、最終的に協力することになる。

この地域における独特の問題として、水路を下ってくる隔離地域からの難民問題がある。同域内の港湾都市モービルから、旧北米北西部へ通じる内陸水路(テネシー・トンビグビー水路など)があり、この水路を隔離地域の住民がボートで遡行してくるのである。アメリカ風邪のキャリアである彼らへの対処は列強内で一致しており、見つけ次第処分された。英軍では、シング対空火炎放射器を対人用に転用してパトロール船に搭載しており、難民は発見次第焼却処分されている。

54 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:20:16
中西部(旧ミシシッピ州)
中西部には過去の強制移住後も多数のインディアンが残留している。しかし、南部の人種差別州として悪名高かった旧ミシシッピ州におけるインディアンに対する扱いはひどいものであり、彼らの家や農場は放火、破壊され、拷問を受ける者も多かった。

インディアンに対する虐待行為は、ブリティッシュコロンビア成立後は禁止された。無論、人道上の配慮などというものではなく、日本と連携していく以上、過度な差別や酷使をすることが出来なくなったためである。事実、日本の目が届きにくいアフリカの鉱山などでは、英国資本は現地住民を徹底的に酷使しており、国家再建のためなら、ある程度磨り潰しても問題ないというのが、彼ら白人の主観であった。

中西部では、本国向けの食糧増産が奨励されたのであるが、そうなると問題になるのがインディアンの扱いであった。白人と同等の扱いにすると、後々の火種になりかねなかった。インディアンのみで農場を運営することも考えられたのであるが、彼らに最低限の教育を施さなければならない手間を考えると、あまり良い策とは言い難かった。そのため、農場以外での活用が求められていた。

最終的にインディアン達の活躍の場は陸軍となった。当時の英陸軍では、不足している正面戦力を補うべく手段を模索していたのであるが、そこで考えられたのがインディアンで編成される民兵部隊である。ジャック・チャーチル陸軍中佐を隊長とするこの部隊は、彼独特の信念の元に徹底的に鍛え上げられた。インディアン達は彼の強さに心酔しており、非常識な訓練にもよくついていった。その結果、史実のグルカ兵に匹敵する戦闘力を持つ精鋭部隊と化した。彼らは旧北米のみならず、数々の紛争地域で活躍してその名を轟かすことになる。

55 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:21:38
西部(旧ルイジアナ)
西部の主要な農業生産品は海産物(ザリガニ)、綿、大豆、牛、サトウキビ、家禽及び鶏卵、乳製品、そして米である。特にザリガニの生産量は世界一であり、その大半が現地で消費されている。ザリガニは非常に繁殖力旺盛であり、しかも美味であるので巨大津波被災後の南部地域の食糧として重宝された。なにせ、雑食で何でも餌になるので…(以下検閲対象により削除

なお、余談であるが、憂鬱世界の日本ではザリガニは導入されなかった。そのため、一般庶民には全く馴染みの無い食材であり、現在でも極まれに高級ホテルのコース料理がで見かける程度である。戦後になってから、外貨獲得のためにザリガニの養殖が奨励された。英国人がザリガニを食すようになったのは、このころからだと言われている。

西部は米所としても有名である。広大な水田で米の生産とザリガニの養殖が同時に行われている。戦前は長粒種(インディカ米)の生産が主であったが、戦後はカリフォルニア共和国に駐在する日本人向けに短粒種(ジャポニカ米)の生産が増えている。

同域内は石油と天然ガスの資源も豊富である。その埋蔵量は陸地および領域に入る海面下で豊富に発見されている。メキシコ湾の大陸棚でも大量の埋蔵量が確認されているが、開発は進まなかった。海底油田の開発権を巡ってテキサス共和国との係争海域になっていたためである。1960年に北海油田が発見されるまでは事実上の棚上げ状態であった。北海油田を発見した英国は、メキシコ湾岸の海底油田開発でテキサス共和国へ譲歩、代わりに北海油田を開発していった。その過程で、ノルウェーをはじめとした北欧諸国を開発に巻き込み、さらに日本側の資本参加を促すことで、対日関係の改善を図っている。

ブリティッシュコロンビアの農業をはじめとする第一次産業全般にいえることであるが、時計の針が巻き戻ったがごとく、労働集約型の大規模プランテーションが主体となった。農場や鉱山では黒人が過酷な労働を課された。しかし、報酬として食料や医薬品を手に入れることが出来るだけ、巨大津波直後の惨状よりも遥かに恵まれているといえた。

黒人の扱いについてであるが、枢軸側で敷かれている奴隷制とどちらがマシなのかは、現在でもよく議論されている。奴隷たちは、財産としてある程度丁重に扱われることと引き換えに自由を失った。ブリティッシュコロンビアの黒人は、酷使されることもあったが、領内の移動と仕事の選択の自由は認められていた。もっとも、扱いだけなら、民兵部隊のインディアン達のほうがマシとの意見も根強いのであるが。

56 :フォレストン:2016/08/15(月) 21:23:17
ブリティッシュコロンビアを含む旧南部地域は、バイブル・ベルトと呼ばれており、歴史的経緯から信仰心の厚い地域であった。しかし、巨大津波による被災後の世界は、まさに黙示録の世界であり、信仰に疑問を感じる人間が増えていた。

欧州では無神論者が増える一方で、過激な原理主義者も増え続けており、日本の事実上の一人勝ち状態が続いているためか、日本人は神に賄賂を渡せるという噂を本気で信じる者も増えていた。彼らが日本の宗教に興味を持ち、入信しようとするのは、ある意味当然のことであった。しかし、戦後の時点で日本の宗教界は欧州に進出してはいなかった。彼らが入信したのは、教祖が怪しげな東洋人であり、見た目だけを真似た仏教とも神道とも全く無縁な怪しげな宗教であった。

彼らの正体は、第二次満州事変の真相を暴露されたことで、欧州内に居場所の無くなった中国人であった。彼らとて、好き好んでこのようなことをやっているわけではない。宗教を隠れ蓑にしないと、欧州内で生きていけないほどに追い詰められていたのである。しかし、中国人は筋金入りの拝金主義者である。宗教がカネになることが分かったら、後はやりたい放題であった。あまりの酷さに、信者からの内部告発が相次ぎ、警察に摘発された後に、日本へ苦情がいくところまでがテンプレであった。

旧南部地域、特にテキサス共和国をはじめとする枢軸側支配地域では、既存の宗教からの離反が相次いだ。しかし、信仰を止めたからといって無神論者になったわけではなかった。旧東部出身が故に、ユダヤ人が故に、肌の色が白くない故に差別を受け、虐げられる。この世界は弱者にどこまでも厳しかった。彼らがどれだけ今の世界に憎しみを抱き、絶望を抱いているか計り知れない。要するにドイツ人はやり過ぎたのである。追い詰められた人間が何に縋るかをドイツ人たちは考えていなかった。そのツケは非常に高くつくことになる。




あとがき
今回はブリティッシュコロンビアについて書いてみました。
書きたいところを全部盛り込んだら、ボリュームがえらいことになりました(;^ω^)
いつもなら、ご指摘される前に解説コーナーを作るところなのですが、今回は全部やってたらキリがないので、遠慮無くご指摘ください(オイ

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最終更新:2016年09月05日 21:57