118. 名無し三流 2011/04/24(日) 12:21:34
  どうもです。前々回に予告していたSSが完成しましたので投下します。
コンパクトにまとめようとしたらあっさり気味になってしまいました。


***


  福建共和国。中国大陸沿岸部にあり、日本の強い影響力を受けている国である。
そこのとある新聞社が1943年に行った世論調査の中に、次のような設問があった。
『福建の友好国として一番相応しい国は?』
『上の設問で答えた国の有名人と言われてすぐに思い浮かぶのは?』

  前者の設問では『日本』が7割強もの得票を得てダントツで1位。
2位は『華南』で約1割。その他の国々は『その他』でまとめられてしまった。
だが、後者の設問において1位だったのは以外な人物であった。



                提督たちの憂鬱  支援SS  〜徳田球一と福建共和国〜



  『徳田球一』。史実においては日本における共産党の運動家、政治家だったのだが、
この世界では幼い頃に転生者となり『日本労働問題協議会』を作って憂鬱日本の労働問題の解決に尽力。
労働者へ対話による問題解決の仕方を指導し、芽生えつつあった労働運動を先鋭化させないために奔走した。
その働きぶりはあのKGBに「日本の労働者に革命を起こさせるには、徳田球一の洗脳若しくは暗殺が必須」
とスターリンに報告させる程で、事実彼のテコ入れで平和的解決を見たストライキなどは数え切れない。
憂鬱日本において企業家と労働者が比較的平和な関係を維持できているのも、彼の活躍あればこそなのである。


  そんな彼は1930年代には夢幻会から『会合入り』を(主に嶋田ら"普通の人"達によって)薦められていたが、
本人はそれを受け入れず夢幻会とは緩やかな繋がり(情報、知識の共有など)を持つに留めて、
独自に行動する事を望むと、定期的に他の夢幻会主要メンバーと顔合わせをする事を条件にそれを認めてもらった。
ちなみにこの時、嶋田は「会合に一般人は来てくれないのか……」と涙目であったという。
119. 名無し三流 2011/04/24(日) 12:23:11
  そしてそれまで株や為替で少しずつ溜めていた資金を元手に、徳田は日本を離れ福建へ飛んだ。
そこで『徳田総合商社』を設立すると、日本−福建間の貿易を中心にして活発に活動。
現地のニーズを上手く掴む技術や、海援隊との提携によって利益を上げ、たちまちの内に富豪の仲間入りを果たした。
(史実における)共産党の運動家が、共産党の敵である資本家、金持ちになったというのは皮肉な話だが、
彼の福建共和国における活動は当時根強く残っていた『資本家=強欲・傲慢』という先入観を払拭するものだった。


  彼は会社で築いた利潤の多くを事業の拡大と共に、社会への貢献にも費やした。
『私立徳田美術館』は中国大陸で栄えてきた王朝が生んだ秀逸な陶磁器を始めとする芸術品を蒐集し、
美術品だけでなく貴重な古書等も収蔵、後に「文化遺産の国外流出を防いだ」と評価を受ける事になる。
また、福建共和国における当時の政府が行った事業の中でも特に評判の良かった沿岸の道路整備計画、
通称『太平路計画』も徳田が総工費の多くを自ら負担し、お陰でその道路(計画名から太平路と呼ばれている)
はかなり利便性の高いものになった。日が暮れると福建共和国の沿岸は『太平路』沿いの街灯で明るくなり、
その風景は多いに評判を呼んだ。船上にキャンバスを置いて、海から見た太平路を描く画家もいたという。


  徳田球一主導で行われた社会貢献の中でも、最大級のものが私立大学の設立である。
徳田総合商社の全面的バックアップの元で設立された『私立拓智総合大学』からは優秀な人材が多数輩出され、
また同大学内から、日本の『南方熊楠賞』(南方熊楠の死後、彼の業績を記念して作られたノーベル賞的なもの。
主に生物学、博物学、民俗学において大きな功績を残した者に贈られる)受賞者が出た事で大学の名は一気に広まった。
拓智大の急速な成長に日本の大学は大きな衝撃を受け、以後日本と福建の大学は"ライバル"と書いて"友"と読み、
"友"と書いて"ライバル"と読む関係が築かれて行く事になる。

  さらに、同大学では『狭国論(無拡論、とも)』『富徳論』という新しい理論が生まれた。
『狭国論』は、「広大な領土を抱える国は、必ずと言っていい程行政機構の肥大化という問題に直面する。
それから来る政治腐敗を防ぐには、国自体がその規模を抑制するのが一番良いのである」という論理で、
内部に様々な問題点(国の規模と政治腐敗は別問題ではないのか)等を孕みつつも成長を続け、
一定の支持者を得て行った。ちなみに、夢幻会は中国大陸でこの論理が生まれた事を歓迎したという。
一方の『富徳論』は、「"富"を得た者は得られなかった者の分まで働いて"徳"を積むべきだ」という理屈で、
大学の父とも言える徳田球一の様々な事業を参考にした所が大きい。
後に福建でひと財産を築いた者の多くは、この富徳論に従って社会福祉への投資を惜しまなかった。


  これらの献身によって徳田は福建共和国で活動する日本人の中でも特に著名な者の1人となった。
同国において「成功したかったら徳田を見習え、成功してからも徳田を見習え」という言葉まで出来た程である。
そして彼は、自らの成功の地で大きな賞賛を浴びながら、夢幻会や世界の激動にさしたる興味を示す事も無く、
福建共和国で自らの事業に精を出していたのであった……





「あの子はきっと大物になってくれると信じていました。
  余り実家に戻ってきてくれないのが寂しい時もありますが、
  そんな時も、"あの子は外国で活躍しているのだ"と思うと、
  とても誇らしく思えてきます。あの子は、本当に私達の自慢の息子です」

―――――――1943年に沖縄の地方紙に掲載された、徳田球一の両親へのインタビューより抜粋





                                        〜fin〜
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最終更新:2012年01月01日 10:04