734 :ひゅうが:2012/01/08(日) 03:52:50

提督たちの憂鬱支援SS――「桜雪」


――西暦1943年4月 日本帝国 帝都東京


一人の男が床に伏していた。
その傍らには、いい老い方をした老人が膝を立てて座している。
場所は和室である。
外で季節外れの雪が降っているらしく、「桜雪」という言葉を男は聞いていた。

「ああ、のぼさん。無理して来(こ)んでもよかったけん・・・」

「なにいっとるがな淳サン。あしらはたいがいいっしょぞな。そういうものぞな。」

「ふしぎなもんじゃな。のぼさん。んしが大病を患った後で全快するんもそうじゃが、あしが先にいくことになるとおは。」

男、海軍予備役大将 秋山真之は微笑した。
毒のある言葉に棘がない。それを訊いた正岡子規は、労咳からの快復以来している片膝立ての座り方を正座に改めた。
老いた体はそれだけでも悲鳴を上げる。彼も真之と同様にだいぶ「がた」がきているのだ。

「まぁ淳サンは無理のし通しじゃったからな。何ヶ月分か寿命も縮むさぁ。」

「数ヶ月か。そんなもんか。」

「そんなもんさ。」

畳の上にゆったりした空気が流れていた。

ばっさりと頭を悩ませた日々や死線をさまよった日々を切り捨てたあたり、さすがは子規というべきだろうか。
連歌を短歌の世界から切り捨てるという恐るべき所行をやってのけてまでその精神性を世界的なそれにまで高めた男は、やはり傑物だった。

その壮絶さは、真之の戦歴にもひけはとらない。
日本海大海戦の演出家となった元連合艦隊首席参謀、第1次大戦時の遣欧艦隊司令長官、そして最終的に海軍軍令部総長をつとめた上で八八艦隊計画を加藤友三郎提督とともに作り上げ葬った上で潜水艦と空母による立体作戦の原案を作り上げて自ら艦隊決戦型の漸減作戦を葬るというウルトラCを成し遂げた秋山真之の一番の親友というのは、そういう男だった。
盟友の山路一善大将や、秋山の思想的系譜を受け継いだ小沢時三郎、南雲忠一、そして嶋田繁太郎らに比しても、それはやはり巨人というべきだろう。

後世からみれば。


「兄さぁ。」

正岡の妹、律が言った。

「嶋田閣下が来られましたぁ。」

「あなた。」

枕元の妻が短く言うことに、布団の真之はわずかに頷いた。

彼は、軍服を着ていた。
昭和に入ってから相次いで死去した乃木希典大将と東郷平八郎元帥と同様に。
今は廃止されている詰め襟型の第2種軍装である。
胸には、何もつけていなかった。

735 :ひゅうが:2012/01/08(日) 03:53:36
「閣下。」

障子を開けて入ってきた男に、秋山は目を細める。

「おお、来られましたか。総理。」

現職の内閣総理大臣をつとめる男、嶋田繁太郎は、息の乱れたところを見せないいつもの通りの少し緩んだ、ぼう、とした表情で秋山を見ていた。

「お呼びと伺いましたので。」

「おお。すみませんがな。」

真之は、英国式のブレザー型の軍服を来た嶋田にほほえみかけた。

「これでも総理を推戴させていただいた一人です、死に目に遺言を伝えたいと思いまして。」

放たれた爆弾に、嶋田は嘆息する。

「やっぱり、秋山閣下の仕業でしたか。上に立てるなら山本か米内さんあたりがいいでしょうに。」

「はっは。山本はもう少し辛酸を楽しめるようになったらな。米内は・・・あれはいかん。毒の海で溺死せんかったのはいいが、自らも毒になっては世話はないわ・・・。」

秋山は、天井を見ながらこれまでたどってきた道のりを思い出す。

「嶋田。」

真之は目を細めた。

「おまえたちは、ようやったよ。ようやってくれた。」

――日清・日露の両戦争、それをもって皇国は、坂の上に至った。しかし・・・

「ようやってくれた。あしは、あしらは、感謝しとる。」

嶋田の顔がゆがんだ。

「たとえ誰がなんと言おうと、あしらは、おまえたちに感謝する。たとえ何がどうあっても。少なくとも第三の火を先んじて手にし、『地球上のみで戦う最後の戦争』の筆頭に踊り出られたこと、それに皇国を『いつ滅ぼされるか分からん国』でなくしてくれたこと、それはおまえたちの尽力あってのことだということを、「あし」は、「あしら」は知っとる。」

周囲の親族や友人たちが色めき立つ。
その中には、新聞記者であり、小説家でもある男たちもいた。だが、秋山は、最後の力を振り絞り、自らの視線だけでそれを制した。

「じゃから、こんなことを頼むんは酷じゃろう。本来なら、おんし(お主)らの見た悪夢は、悪夢のままにして皆が背負うべきものなんじゃろう。じゃが・・・この国は、まだあんまりにも幼い――」

――崩壊する帝国主義の世界、そして欧州列強に属しながらも、それを否定する新興勢力たちは結局は激突せざるを得なかった。
そして、かのチャーチルが述べたように、「人類」は自らを完全に滅ぼす手段を手にした。

「江戸の世を経て、明治を乗り切ったこの日本は、皇国という豪壮で美しい神輿(みこし)をどこにもっていけばいいか、まだ担ぎ手たち全員が知ってはおらん。それがどれだけ危険なことかはうすうす分かっていても、まだ自分で何をすればいいか分かっておらんのじゃ。」

真之は咳き込んだ。
彼は知っていた。
東郷元帥の片腕としてその生涯の半分を生きてきた男は、武士らしく死んでいった元帥に代わり、明治を生きた男としてその生涯そのものであったあの時代から今に至るまでの「この国」の酸いも甘いも。

「もう、あしら『武士』の生き残りは逝く。じゃから、頼む。あしらを『きちんと語り継いで』、その上で神輿をもう少しだけ支えてくれんか・・・むごいようじゃが、あと半世紀か、1世紀か・・・いずれは皆、自分で立って、考えることの喜びを知るじゃろう。」

「随分な大仕事ですね・・・。」

嶋田は肩をすくめた。
しかし、その体は小刻みに震えている。

「あしらは、ただがむしゃらに走らんにゃならんかったけんの・・・何をしたいかなんて、考えることもせんかった。」

「贅沢な悩みですからね。」

「そうじゃな。贅沢じゃ。」

二人の男は、布団を挟んで笑いあった。

「ああ・・・あしらは海をいき、おんし(お主)らは空をゆき、か。」

「なら、私たちの子らは、「宇宙(そら)」をゆくのでしょうね。」

嶋田が何気なく応じた返しに、秋山はきょとんとした。
数秒おいて、咳き込みながら笑う。

「そう、かぁ。そう。そうじゃな。簡単なことじゃったな。」

ああ・・・安心した。
そう、真之は言った。
そして、目を閉じる。

「のぼさん・・・みな・・・」

「なんじゃな?淳サン?」

子規が口元へ顔を寄せる。

「いく・・・ぞな。宇宙(そら)へ・・・」

それが、秋山真之の最期の言葉だった。

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最終更新:2012年01月11日 21:55