282. 名無し三流 2011/05/23(月) 21:53:52
憂鬱世界におけるあの半島が、限りなく影が薄いので。
あと、某偉大なる首領様(予定)はどうしているのか興味があったので作ったSSです。



***



  東アジアには大韓帝国という国がある。通称韓国と呼ばれているが、
その国際的な地位と存在感は極めて低いものであった。1940年代のジョークには、

『世界の指導者となるのに最もふさわしいのは、中国人のように信頼でき、
  アメリカ人のようにつつましく、イギリス人のように表裏が無くて、
  またドイツ人のようにあらゆる人種に寛大で、ソ連人のように気配りができ、
  イタリア人のように浮気せず、韓国人のように存在感がある人物である』

  というものがあるくらいだ。

  東アジアの中では著しく近代化が遅れており、教育やインフラの整備もまだまだ途上、
重工業などは「何それおいしいの?」な状態。内政がこれでは軍隊も推して知るべしな状況で、
このような扱いを受けない方が不思議というものだった。

  だが、朝鮮人はこの状況に甘んじ続けるほど向上心に欠けた民族ではなかった。




                提督たちの憂鬱  支援SS  〜太陽になりたい〜




  朝鮮半島はソウルの一軒屋。その一室に、何人かの男たちが集まっていた。
中には木製の粗末な本棚と机がある。その机を囲んで男たちは話していた。


「日本と中華民国が講和会議を始めたようだな」

「ああ。だがこの会議でも我が国は蚊帳の外だ。」

「日本にべったりの福建共和国は何かしらのおこぼれを貰えるだろうが、
  韓国には一円たりとも降ってはこないだろうな。政府が勃発前から日本支持を明言していればあるいは」

「悔やんでも仕方があるまい。第一、今の政府の間抜けさは『李舜臣事件』の時から分かりきっていた事だ。」

「改革は進みつつある。だがその改革も元を辿れば日本人に指導されたものだし、
  最近は例の戦争のせいか停滞してさえいる。この資料を見ろ。
  工業生産はあって無きが如し。農業生産とて昨年とほぼ同じだ」

「日本が穀物の輸入を増やした為に、国に入る資本自体は増えた。
  だがその資本は穀物の生産者である農民には行き渡っていない!」

「同志日成、もう我慢できません。今こそ現政府の無能と腐敗を糾弾し、
  新しい朝鮮、強い朝鮮の礎を作る時ではありませんか!」


  激する男達を、同志日成と呼ばれた男は両手を挙げて制した。


「まあ落ち着いて欲しい。君達が祖国の現状に憤っているのは私も良く承知している所だ。
  だが、もし仮に、今我々が起ったとして、一体どれだけの人間が我々についてきてくれるだろうか?
  農村には未だに政治の"せ"の字さえ、いや経済の"け"の字さえ知らない者達が多くいる。
  そして知識階級の中には、権力者に阿り己の利得にしか目の無い人間が沢山いる。
  私は今は雌伏の時だと思う。まずは政府にばかり頼らない民間への教育や政治・経済への啓蒙活動、
  そして祖国の近代化の重要性を多くの人々に、草の根的に地道に説く事こそ最も重要ではないか?
  血気に逸り100年先の大計を見誤るような事があれば、
  その代償は子孫百代に渡って支払わねばならぬ程甚大なものとなるだろう。」


  淡々とした、しかし強い信念に基づいた日成の言葉に、男たちも冷静さを取り戻す。


「確かにそうだな……」

「ここでゴタゴタが起きれば、屋台骨のしっかりしていない韓国はさらにガタガタになる。」

「同志の言うとおり、確かに今は雌伏の時かもしれませんな」

「くそ、民衆の声が大きくなったその暁には、必ず我等の理想の朝鮮を作ってやる」
283. 名無し三流 2011/05/23(月) 21:55:15
  金日成。本名金成柱(キムソンジュ)。平壌西方の生まれである。
彼の生家がある町には偶然日本の新聞社の支局があり、
そこで彼は幼い頃から日本人の作った新聞のハングル版を手当たり次第に読み漁っていた。
支局にいた日本人社員も、「小さいのに勉強熱心な子供だ」と感心して、
個人的に日本語の読み書きを教えたりしていたと言われる。

  そのため、彼は十代前半の頃には韓国語と日本語の両方に通じたバイリンガルとなっており、
生家の町でも類希な利発な子として注目を集めていた。だが、多感な年頃であるの彼の心中は穏やかなものではなかった。

  新聞を読めば、世界は常に激動している事が分かる。
新聞を読めば、海を隔てた外国である日本がいかに発展しているが分かる。
そんなたくさんの情報が網羅された新聞から少し目を離すと、彼の目の中には、
いつも変わらない故郷の町の風景や、飼っている牛と農作業に励む農民の姿が映っていた。

  これはそれで、かけがえのない価値を持つ光景だったかもしれない。
しかし彼には、それは最早時代遅れ、アナクロな物に映るようになっていた。
田植え機を使ってハイスピードで稲が植えられる日本の田、
労働者と機械が鳴動して自動車を作る日本の工場、白熱した議論が交わされる日本の議会。
そのどれもが自分の国には無かった。それが少年金成柱には、たまらなく悔しかった。

「いつか、僕が韓国を日本よりも素晴らしい国にして見せる!」

  父の死を契機に、金成柱はこう言って以後、自ら『金日成』と名乗るようになった。
「文明の暗黒に包まれている韓国の太陽となりたい」というのが改名の理由だ、と本人は後に述べている。

  一時は共産党への入党も考えたが、韓国では共産党の厳しい取り締まりが早くから行われており、
また共産党の活動そのものも下火であった為に独自の道を模索する事を選んだ。日雇いの仕事で食いつなぎながら、
彼が模索の道案内としたのは、当時知識階級の間で流行っていた啓蒙書、そして幼い頃からの友である新聞だった。

  そして金成柱、改め金日成はたゆまぬ努力でソウルにいた改革派の注目を集める事になる。
「平壌から来たなかなかな人物がいるらしい」という噂を聞いて彼の元に集まってきた人々は、
日夜祖国の針路について激論を繰り広げた。

「彼は芯のある人間でした。土木工事の現場で日に焼けながら働いていたあの姿は、
  一切嫌味さを感じさせませんでしたね。時々、自分の努力が他者に認められているか気にする所もありましたが」

  と、当時彼の泊まっていた宿で夜明けまで話し込んだという男は語っている。


  後に彼は日雇い労働でコツコツと貯めた金で一軒屋を買い、そこで彼を慕う者達と共に『改革同志会』を立ち上げる。
彼らの活動は、列強の動向や内政、外交を研究して、祖国の政治にフィードバックさせようという物であった。

「当時の同志はあの家をよく『進歩者の宿』と呼んでました。結構、何かを美化するのが好きな人でしたね。
  それでも、一番人民の艱難を理解していたのは多分リーダーの同志日成だったと思います」

  とは、改革同志会初期メンバーの1人の証言である。

  金の家に訪れた著名人の中には、かの近衛公の腹心の部下である尾崎も挙げられる。
彼は中国大陸へ向かう途中に彼の家へ訪れた際、そこにいた沢山の人に質問責めにされたという。
曰く「日本の野党政治家はどのような感じか」「日本では国は重工業の発展をどのように支援しているか」等等。
日成自身も、共産主義やファシズムなど、日本以外の国で採られていた政体についての意見を彼に求めたらしい。
本人によれば「尾崎氏との会話は、私の政治への見解に新鮮な一滴の水をもたらした」とのことだ。


  そして日米戦争が勃発、中華民国(奉天派)が電撃的に日本と講和を求めるに至り、
彼ら改革同志会の活動もより活発さを増していくのだが、それはまた別の話である……


                                    〜  f  i  n  〜
284. 名無し三流 2011/05/23(月) 21:55:45
★『李舜臣事件』って何?

日米戦争が勃発する少し前、韓国が新型の巡洋艦を建造する事を発表した。
『忠武公李舜臣級(仮名)』なるその巡洋艦は、夜間戦と水雷戦を重視した仕様であった。
かつて関白秀吉に差し向けられた日本の武士達を破った英雄の名を冠する艦として、
韓国人の期待には並々ならぬ物があったが、韓国政府がこの艦を建造するに当たって、
日本人の造船技師を招こうとしていた事が何者かによってスッパ抜かれると、
「忠武公の名を冠する艦を作るのに倭人を招くとは何事か」と国粋系団体が騒ぎ出し、
そのゴタゴタで建艦スケジュールが遅れに遅れ、最終的に計画の無期延期が決まったという事件である。
この事件は韓国人の多くに自国の政府のバランス感覚を疑問視させる結果となった。

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最終更新:2012年01月14日 18:46