314. 名無し三流 2011/05/30(月) 21:57:15
「かのジョルジュ・ビゴーが萌え絵に開眼したらしい」

  この噂話は、多くの転生者に少なからぬ衝撃と、何らかの感情を与えた。
ある者には「この世界でも仲間を作る事ができる」と喜び、ある者は、
(゚Д゚)(´∀`;)(´・ω・`)などなど・・・そしてまたある者は、

「このまま"萌染"が続けば、手塚治虫や水木しげる、松本零士、やなせたかしといった、
  史実の大物達の画風が破壊されてしまう恐れがある!何としても彼らを守らねば!!」

  とぶち上げたのだが、それが誰だったのかは、今となっては知る由も無い。



                    提督たちの憂鬱  支援SS  〜少年科学読本〜



  1930年代〜50年代にかけて、男子達の間で大流行した雑誌がある。
『少年科学読本』。子供達の科学に対する興味関心を育むために創刊された、とされているが、
実際のところ転生者達のSF分不足がこれを生み出したという事実を知る者は少ない。
また、この雑誌があの国防科学雑誌『機械化』の代替として作られた、という事も。

  また、この雑誌は転生者達の様々な経験による創意工夫が盛り込まれていた。
学術的な論文を分かり易い言葉で解説するコーナーや身の回りの機械の構造を解説するコーナーなど、
雑誌の内容は毎度盛りだくさんであったが、そのどれもにきちんとした検証や校正が行われているのだ。
当時編集に当たっていた転生者の1人は、度々「朝○を見ろ、毎○を思い出せ」と自分に言い聞かせたという。

  さらに、この雑誌は季刊(3ヶ月に1度発行=1年4回)となっていた。
少ないのではないかと思われるかもしれないが、これは原稿の担当者などに負担をかけすぎない為の配慮だった。
週間にすべきではないかとの意見が、「俺達はデスマーチ指揮者にはならない」という一喝で抑えられたらしい。

  さらに、寡占化を避けるために発行部数は現代の有名雑誌等に比べるといささか少なめだった。
「すぐに売り切れてしまう。もっとたくさん作って」という子供達のお願いに対しては、
「まだ買ってない子は、みんなで少しずつお金を出し合って、一緒に買って一緒に読みましょう。
  もう買った子は、独り占めしたりせずに、まだ買ってない子と一緒に読んだりしましょう。
  2人で読めば2倍楽しいし、3人で読めば4倍楽しいですよ」というような主旨のやんわりとした返答で返した。
この返答が掲載された号から、子供達の間で"本の回し読み"や"読書会"がちょっとしたブームになった。
また、この「2人で読めば2倍楽しい、3人で読めば4倍楽しい」という言葉は、以後の表紙には必ず掲載されるようになった。


  そして、この雑誌一番の目玉が"挿絵画家・小松崎茂"であった。
315. 名無し三流 2011/05/30(月) 21:58:35
  1939年にこの雑誌の挿絵画家として招かれた彼とその絵は、たちまちのうちに大評判となった。
「さすが小松崎!そこに(ry」など夢幻会内部からも絶賛の嵐を浴び、また彼自身も、
資料集めへ積極的に協力してくれる同誌編集部や陸海軍には感謝を惜しまなかったという
(流石に「読者や友達と、開発中の次期主力戦闘機を見学したい」という希望には、
「いや流石に軍機だから…」と断らざるおえなかったらしいが)。

  冬戦争、第二次大戦、日米戦争などで次々と日本軍の驚異的な強さが明らかになると、
自然と彼には戦車や軍用機、いわゆる『戦争もの』の絵の仕事が沢山回ってくるようになった。
その内容は日本軍の戦闘機が米軍や中国軍の戦闘機を滅多打ちにしするものだったり、
奉天の野で米軍野砲からの砲弾を易々と弾き返しながら突進する日本戦車だったり、
真珠湾へは逃すまいとする日本雷撃機と、友軍の地へ辿り着こうと奮闘する米アジア艦隊の激闘だったり、
前世でその手のマニアだった転生者達から垂涎の的となるような渾身の名画ばかりであった。


  そんな中、少年科学読本の中で新しいコーナーが始まる。
『未来空想画報』というこのコーナーでは、『未来の農業のすがた』『未来の工業のすがた』
など、『未来世界の想像図』とでも言うべき絵が、小松崎と編集者らの逞しい想像力で次々と載せられ、
一躍人気コーナーとなった。

  しかし、そんな人気コーナーも、世に出るに当たってはかなりの難産だった。この企画を立ち上げた時の編集部内では、

「想像図は史実準拠風にすべきか、空想科学風にすべきか。それが問題だ」
「今まで日本は世界恐慌やら何やらで暴れすぎ、
  未来予知能力さえ疑われている。多少空想科学風になるのはやむを得ない」
「しかしそれでは細かい検証と科学的根拠が売りだった我が誌の方針が!」
「アメリカはあの大災害で死に体になり、欧州は軒並み枢軸圏で独裁が横行している。
  そんな中で、子供達に未来への夢を与えるのも我々大人の責務だろう!」
「合衆国があれではF−15もF−22もなくなる!エスコンの機体数が大幅に減るという事だ!
  せめてこのコーナーの中だけでもモビウスワンとか黄色中隊とかガルム隊とかを……」
「いいや、ここはガンダムをだなぁ」
「マクロス!マクロス!」
「おめーらボトムズさんディスってんじゃねーぞ」

  などなど、夜を徹して激しい議論が交わされていた。

  一方で、同コーナーの挿絵を依頼された小松崎も随分苦労したらしい。
曰く、編集側からの指定があまりに多すぎる、というのだ。ひっきりなしに尋ねてきては、
この飛行隊はこれこれこういうマークと塗装に統一してくれとか、隕石迎撃装置は大砲型で、とか……
時にはある編集が「2足歩行ロボはこんな感じでどうでしょう」と言ってラフを渡してきた翌日に、
別な編集が「2足歩行ロボは…(略」と、前日のそれと全く方向性の異なるラフを渡してきた事さえあったという。

  最終的には各派が適当な所で妥協する事になったのだが、
完成した『未来空想画報』の第1回『未来の機械のすがた』は会心の出来栄えで子供達の注目を集め、
これまで『戦争もの』の仕事に嵌りかけていた小松崎にも、新しい絵の方向性―――
子供達に夢と希望を与えるという方向性への関心を高めさせる事になったのであった。


  なお、それまでの憂鬱世界における小松崎画伯の経歴や彼の画調であるが、
それらはほとんど史実と合致したものとなっていたらしい。また、彼が関わってきた人物のそれらもである。


  これに、夢幻会の転生者達の血のにじむような努力がある程度関係していた事は、言うまでも無いだろう……


                                      〜  f  i  n  〜

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最終更新:2011年12月30日 20:10