76: フォレストン :2017/01/04(水) 10:48:11
火薬庫?魔女の巨釜?そんな表現では生温い…!

提督たちの憂鬱 支援SS 憂鬱英国植民地事情-インド帝国編-

インド帝国-シパーヒーの反乱に代表される、いわゆるインド大反乱の終結後に建国された国家であり、かつて世界帝国であった英国の心臓部とも言える地域である。

インド帝国は、かつての東インド会社の間接統治の時代から英国産業の原料供給地兼製品市場であり、そこから生み出される利益は莫大なものであった。具体的には、インド人から税金をとり、その税金で原綿を買い付けて、それを加工した製品をインド人に売るのである。原材料費はインド人の税金で賄うのでロハ同然であった。それ故に、英国がぼろ儲けしていく一方でインドの人民は貧困と飢餓に苦しんだのである。

英国のインド支配は巧妙であり、インドが団結して抵抗しないように分割統治を行った。インド帝国は、英国の直轄領と550以上の藩王国から構成されており、藩王国は外交権は無く、英国本国の監視付きで藩王(マハラジャ)の自治が認められていた。旧勢力を温存し、旧支配者層の抵抗を薄めることで英国はインドを統治したのである。まさに分割して統治せよを是とする英国紳士の面目躍如であった。

産業革命とインド帝国を筆頭にした世界中の植民地からの搾取により、世界帝国の座に就いた英国であったが、20世紀に入ると第1次大戦の戦費負担や、世界恐慌(+どさまぎの極東の島国のえげつない買い漁り)で英国の国力は衰退していった。

77: フォレストン :2017/01/04(水) 10:49:40
英国が世界帝国の座から滑り落ちる致命的な一撃は、1942年の巨大津波による被災である。津波による人的・物的被害は天文学的なものであった。港の多くが周囲の都市ごと破壊されて大西洋航路は一時的に途絶し、経済の混乱が長期にわたって続いたのである。頼みの綱であった米国は、巨大津波によって経済の中心地である東海岸が壊滅したことにより、国家の屋台骨をへし折られて半身不随であり、逆に支援を求められる有様であった。米国の支援が期待出来ないのであれば、自力でなんとかするしかなかった。それは植民地から更に搾り取るということに他ならなかった。

1943年以降、英国はバトル・オブ・ブリテンで消耗した軍の再建や、巨大津波による被災からの復興のために、世界中の植民地から容赦無く搾り取ったのであるが、特に悲惨なのはインドであった。1943年、44年と続いた天候不順と津波被害による世界的経済の混乱、これに加えて復興を急ぐ宗主国の搾取もあり、これらはインド帝国に経済の混乱と食糧価格の高騰をもたらした。

経済の混乱と食糧価格の高騰は、カースト制度でスードラ、ダリットと呼ばれる人々に大きな影響を与えた。カースト制度によって押さえ込まれていた彼ら、特にダリットの反乱や犯罪が多発し、それに反発するように強化される押さえつけが事態を悪化させていったのである。それでも英国はインドを統治していた。インドからの搾取あってこその大英帝国なのである。手放すなど論外であり、民族分断、密約、暗殺など、行使出来る手段の全てを使って沈静化しようと試みた。しかし、英国紳士のお得意の策謀を以てしても、インドの統治は限界を迎えつつあったのである。

78: フォレストン :2017/01/04(水) 10:50:29
1944年1月下旬。
円卓の間と呼ばれている英国国会議事堂の一室では、有識者による会合が行われていた。参加している顔ぶれは、与野党の有力議員や官僚、公務に関わる大貴族、各界の著名で実績ある学者などである。彼らは英国最上位の利害調整組織『円卓』の一員であった。

円卓は英国王直属の特務機関である。有識者が政府に適切な助言を与えるという意味では、史実日本の諮問機関に近いものがあるが、政府組織に属さないという点で自治法上の附属機関である諮問機関とは異なっている。意見が行政に強く反映されることを考慮すると、参与機関に近いものといえる。

円卓の組織は、いかなる外部からの横やりを受けないように完全に独立した存在となっている。これは、過去に政治に振り回されて失敗した愚を繰り返さないために、政治の影響を受けずに国益を追求するために配慮された結果であった。前首相のハリファックスが残された政治生命を注ぎこんで起ち上げたものであるが、その功績が評価されるのは、彼の死後長く経ってからのこととなる。

79: フォレストン :2017/01/04(水) 10:51:59
ラウンドテーブルに座した彼らの目下の議題はインド情勢であった。

「インド全土で暴動が頻発しています。一部の地域では治安の悪化が深刻なものとなっています」
「ヒンドゥーとイスラムの対立も深刻です。今は小競り合い程度ですが、このままでは全面衝突は必至でしょう」

挙がってくる情報は悲観的なものばかりであった。衰退した英国の国力では、もはやインドを強引に押さえつけ続けるのは困難であった。

サンタモニカ会談前に密かに行われた某大蔵の魔王経由の交渉ルートで、英国は帝国の心臓であったインドを紐付きであるが段階的に独立させ、東南アジアから手を引くことことで合意していた。しかし、今すぐインドを手放すつもりはなかった。逃げ支度をするために時間を稼ぐ必要があったのである。英国にとって稼げる時間は宝石にも等しい貴重なものであり、撤退までの時間稼ぎのためならば、あらゆる手段を英国は講じるつもりであった。

「日本をインド問題に巻き込めないか?日本国内ではそのような声も聞かれているらしいが…?」
「そのような意見が日本の政財界で挙がっているのは事実ですが難しいでしょう。夢幻会はインド進出に消極的です」

事実、当時の日本国内では大英帝国の心臓部と言われたインドにも干渉すべきだという声が挙がっていた。インドを独立させて日本側陣営に組み込むことで、一大経済圏を構築しようというのである。しかし、夢幻会はインドにまで手を伸ばすことを良しとしていなかった。現状維持でもやっとなのに、これ以上厄介な問題に自分から首を突っ込む余裕は無かったのである。そんなことは、つゆ知らずな一部の政治家とマスコミは威勢よく世論を煽ったのであるが…

『インド独立については、イギリスとインド人の当事者たちが決めることだ。帝国が果たすべきは東南アジア、そして北米の安定化だ』

日本が公式の席でインドは英国に任せることを言明したことにより沈静化したのである。しかし、日本側も何もしないわけでは無かった。英国にある提案をしていたのである。

80: フォレストン :2017/01/04(水) 10:53:20
「…日本よりインド洋合同観艦式の申し出がありました」
「我が国と日本の二大海軍がインド洋に展開すれば、クラウツどもやカエル喰いには強烈な牽制となるでしょう」

日本からの提案は英日合同観艦式であった。両国の艦隊をインド洋に展開させることによりインド国内の沈静化と枢軸側への牽制を狙ったのである。

「しかし、インド洋で見世物をするとなると派手なものになるでしょう。日本側も相応のモノを出してくるのでは?」
「となると海軍に頑張ってもらう必要があるが、現状は?」
「東洋艦隊はセイロンで活動していますが…」

英国海軍は、地中海に展開していた戦力を湾岸諸国、特に要衝として整備していたアデンへ集めていた。これにより英国は枢軸の中東、インド洋進出を牽制していた。ドイツとの停戦後に血を吐く思いで再建を進めた水上艦隊をインド洋に出張らせたことも一定のプレゼンスとなっていた。しかし、昔日ほどの威光は発揮出来ていなかった。

実際問題として、英国海軍の凋落ぶりは目を覆うばかりの状況であった。老朽化した戦艦は次々に退役し、英国の誇りと言われたフッドも退役寸前で、最後の奉公としてセイロンに派遣されていた。そのような窮状であっても、枢軸側の海軍と互角にやりあう力はまだ残っていたが、その優位も今後いつまで続くか分からなかった。

「おそらく日本は、ご自慢の空母機動艦隊を持ってくるだろう。あのスーパーキャリア…確かタイホウと言う名前だったか」
「あの威容を見せつけられたら、戦艦など霞んでしまうだろう。下手なモノは出せないぞ」

英国本国の造船所群はフル稼働していたのであるが、津波で被災した艦船の修理が優先されていたため、新型艦の建造は後回しにされていた。合同観艦式までに1年近くの猶予があるとはいえ、さすがに今から建造していては間に合わなかった。

「日本が空母を主役にするというのであれば、我々もそれに倣いましょう。幸い、空母の修理を優先させたので、アークロイヤル、イラストリアス、フォーミダブル、ヴィクトリアスは投入可能です」
「空母は艦だけあっても役には立たぬだろう。艦載機部隊の編制はどうなっている?」
「日本から輸出されるレップウの第一便が2月末には到着予定です。そこから機体の改造と乗員の訓練と並行してやれば、なんとかなるでしょう。かなりの強行軍となりますが…」

81: フォレストン :2017/01/04(水) 10:54:21
前述の某大蔵の魔王経由の交渉ルートで、インドの(紐付き)独立を認めた見返りとして、本土の防空網再建のために電探や高射砲などが日本から安値で供給されることになっていた。

艦船についても戦時量産型の駆逐艦や軽巡、さらに海防艦や輸送船舶などを輸入することが密かに決定していた。これらの艦は武装などを外され、表向きは『鉄屑』として輸出された後に、華南連邦やタイ王国などの中立国経由で英国の手に渡されることになっていた。英国側は仲介料を払うことになるが、津波によって多大な被害を受けた海軍の再建にはちょうどよかったのである。

英国海軍としては空母も欲しかったのであるが、日本の世論の問題があって困難であった。最終的に時期を見てカナダへ売却するという結論に至ったのであるが、空母を諦めた代わりに日本機(艦攻、艦爆など)のライセンス生産と旧米海軍の空母の有償での貸与、さらに烈風、飛燕の英国への輸出が認められた。特に海軍では、烈風の搭載量の大きさに惚れ込んでおり、重防御であるがために搭載機数の少ない英空母特有の問題を解決するために艦戦、艦攻、艦爆の3機種を統合する野心的な計画をスタートさせていたのである。

中立国経由で輸入された旧阿賀野型をはじめとする日本から艦艇は、北アイルランドのポーツマスまで曳航され、現地のハーランド・アンド・ウルフ社所有のドッグで解析と装備の組み付けが行われた。輸入された日本の艦は、戦時量産型とは思えないくらいしっかりとした造りであり、解析と改装に関わった英国人技師技術者達は羨望のため息をついたという。日本艦の解析で得られた知見により、シフト配置をはじめとするダメージコントロールの概念が重要視され、以後に建造される英国海軍の艦艇に取り入れられていくことになる。

ちなみに、この造船所が指定されたのは、豪華客船が建造可能な世界屈指の巨大ドッグであることと、場所的に枢軸側からの目に触れにくく機密上有利であることが表向きの理由である。しかし本当の狙いは、アイルランドという地理的歴史的な経緯から、地元住民が枢軸側へリークすることを期待してのことであった。事実、英国が手に入れた日本の艦艇の陣容を知った枢軸側では、一時的とはいえ英国に対する強硬論が抑えられ、この時期の北海周辺におけるUボートの活動は低調なものとなるのである。

82: フォレストン :2017/01/04(水) 10:54:57
1944年3月。
新たにインド総督に着任したルイス・マウントバッテン伯爵(Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma)により、首都コルカタでインド人による暫定政府を作るための話し合いがもたれた。後に言うコルカタ会談である。

英国にとって最も望ましいのは、インドの統一を保ちつつ(紐付きで)独立させることである。円卓の意向を受けたマウントバッテン卿は、インド帝国のまま段階的に独立させるつもりであった。今回の会談は、インド独立のための暫定政府(国民議会)の構成について合意を形成することが目的であった。

会談に先立ち、ガンジー、ジンナーと非公式に話し合いがもたれたのであるが、統一インドに拘るガンジーとイスラム教徒で東西のムスリム多数州の分離を唱えるジンナーで意見が折り合わず決裂していた。しかし、英国本国と円卓の関係者はこの事実を重要視していなかった。インド人に実質的な権限を先に与え,インドが抱える共通の問題に対して彼らを一緒に働かせることで,逆にその合意を得やすくしようと考えていたからである。英国側としては、インド撤収の件でこれ以上の負担はしたくなかった。インド人に面倒ごとを押し付けられるならそれに越したことは無いのである。

83: フォレストン :2017/01/04(水) 10:55:57
なお、コルカタ会談には、下記の人物が参加していた。いずれも当時のインドの有力指導者達ばかりである。

  • ヒダーヤトゥッラー(The Honourable Sir Ghulam HussainHidayatullah:スインド州首相,ムスリム連盟)
  • カーン・サーヒブ(TheHonourable Dr Khan Sahib,北西辺境州首相:国民会議派)
  • ケール(MrBal Gangadhar Kher:前ボンベイ州首相,国民会議派)
  • キズル・ハヤート・カーン(TheHonourable N awab Malik KhizarHyat Khan:パンジャブ州首相,非ムスリム連盟派,連合党)
  • ナジムッディン(SirKhwaja Nazimuddin:前ベンガル州首相,ムスリム連盟)
  • パント(PanditGovind Ballabh Pant:前連合州首相,国民会議派)
  • パルラキメディ(Maharajaof Parlakimedi:前オリッサ州首相)
  • ラージャーゴーパーラーチャーリ(MrC. Rajagopalachari:前マドラス州首相,国民会議派)
  • サアドゥッラー(TheHonourable Sir Saiyid Muhammad Saadulla:アッサム州首相,ムスリム連盟)
  • シュクラ(PanditRavishankar Shukla:前中央州首相,国民会議派)
  • クリシュナ・シンハ(MrSri Krishna Sinha:前ビハール州首相,国民会議派)
  • デサーイー(MrBhulabhai ].Desai:中央立法会議の国民会議派代表)
  • リヤーカト・アリー・カーン(Nawabzada Liaquat Ali Khan:中央立法会議の連盟副代表)
  • モーテイラール(TheHonourable Mr Govindlal Shivlal Motilal:中央立法参事院の国民会議派代表)
  • フセイン・イマーム(TheHonourable Mr Hossain Imam:中央立法参事院の連盟代表)
  • パナジー(DrP. N. Banerjea:中央立法会議の「民族主義者党」代表)
  • リチャードソン(SirHenry Richardson,中央立法会議のヨーロッパ人グループ代表)
  • ガンジー(MrM. K. Gandhi)
  • ジンナー(MrM. A. Jinnah)
  • シヴァ・ラージ(RaoBahadur N. Shiva Raj)
  • タラ・シング(Master Tara Singh)

国民会議派は、インド国内の最大勢力であり、言うなればヒンドゥー教徒の利益を代弁する組織である。それに対して、ムスリム連盟はインド国内のムスリム(イスラム教徒)の利益を代弁していた。なお、ジンナーはムスリム連盟の実質的代表として、タラ・シングはシーク教徒を代表して出席していた。ガンジーは国民会議派の重鎮であるが、どちらかというとオブザーバー的な立場での参加であった。

84: フォレストン :2017/01/04(水) 10:57:03
結論から言うと、コルカタ会談は失敗に終わった。国民会議派とムスリム連盟との妥協点が見いだせなかったのが最大の原因である。統一インドを支持する国民会議派と東西のムスリム多数州の分離を支持しているムスリム連盟では、水と油と言っても過言ではないので、これはある意味やむを得ないことではあった。むしろ、ムスリム連盟側は、会談が決裂することを望んでいた。しかし、宗主国である英国と最大勢力である国民会議派が、統一インドによる独立に向けて動き出したことは、ムスリム連盟側に大きな衝撃を与えていた。このままでは、国内のイスラム教徒を無視した国造りが行われてしまうのではないか危惧する声が急速に高まっていったのである。

閉塞した状況を打開するために、ジンナーはイスラム教徒の存在意義を示すための直接行動の日を定めた。『どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない』とジンナーは考えていたが、実際に生み出されたのは、コルカタ市内では4千人を超える市民の殺害、ビハール州では約7千人のイスラム教徒が殺害、ベンガルのノアカリ地方では数千人のヒンドゥー教徒が殺害される惨劇であった。この日を境にして、インド国内ではヒンドゥー教徒とイスラム教徒の衝突が加速度的に激化していき、事件の責任を取る形でジンナーは政治の表舞台から退場した。元から一枚岩ではなかったムスリム連盟は、まとめ役がいなくなったことで内部分裂が加速して弱体化していったのである。ムスリム連盟が弱体化したことで、国民議会は国民会議派が主導していくことになる。

国民議会の首班には当時、国民会議派で議長を務めていたジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)が指名された。ネルーは、ガンジーと並んでインド独立運動の最も著名な指導者であったが、コミンテルン系である帝国主義反対連盟のメンバーでもあり、社会主義者であった。

インド人民にとって不幸だったのは、インド独立後の国家のグランドデザインを描ける人材が、社会主義者のネルーしかいなかったことであろう。ネルーを諫めることが出来る唯一の人物であるガンジーは、思想家ではあるが、政治家としての資質を欠いており、ネルーの政策を追認するだけであった。他の独立運動家たちも、インド独立のことばかり考えており、そこから先のことは考えていなかったのである。

85: フォレストン :2017/01/04(水) 10:58:01
1944年6月。
円卓の間では、英国紳士たちがため息をついていた。紆余曲折の末、国民議会を立ち上げて、インド撤退の目途がつきそうなときに更なる厄介ごとである。ため息の一つもつきたくなるというものである。

「国内のヒンドゥーとイスラムの衝突は予想以上に酷いようです。北部では軍による鎮圧が日常的に行われています」
「北部に比べれば南部は比較的落ち着いていますが、予断を許さない状況です」
「やっとのことで国民議会を立ち上げたというのに…」
「我々はヒンドゥーとイスラムの確執を甘くみていたのかもしれないな…」
「いやまぁ、ここまで酷くなったのは、確実に我らの前任者のおかげだと思いますが…」
「過ぎたことを言ってもしかたあるまい。何か有効な手段は無いのかね?」
「イスラム教徒の多いインドの東西州を分離しましょう。ある程度、時間が稼げるはずです」
「日本も巻き込みましょう。彼らにとっても他人事ではありません。きっと乗ってくるはずです」

後日、日本側からイスラム教徒のインド西部州(現パキスタン)への移送が追加提案された。表向きはインド国内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の希望を叶えた形であるが、真の狙いは西部州にイスラム教徒を移動させることによる現地の貧困層の増大と、それに伴う社会的な混乱であった。英国も日本も火種を枢軸側に押し付ける気満々であった。

英国と日本がインドの分離独立を画策し始めたことなど、つゆ知らずな国民議会の動きも活発化していた。閣僚の編制、省庁の再編、その他やることはいくらでもあったのである。

86: フォレストン :2017/01/04(水) 10:58:44
この時期、インドの地方では共産党への支持が密かに高まっていた。元々、インド共産党は都市部の繊維、港湾、工業労働者を支持基盤としており、最盛期には国民会議派に次いで大きい政党であった。しかし、日本と英国の手により共産主義が悪魔の思想として世界中に周知された後は、党員の脱退が続出して弱小政党に転落していた。

都市部での支持を失った共産党は、地方で生き残りを図った。共産主義が悪魔の思想であることは、既に世界中に喧伝されていたのであるが、インドの片田舎ではイマイチ理解されていないのが現状であった。否、理解する余裕が無かったと言うべきであろう。

インドの地方は、昔から連綿と続くカーストに苦しみ、宗主国である英国からの搾取に苦しみ、さらに巨大津波後の異常気象による凶作にも苦しめられていた。共産主義が、その果てしない苦行から解放してくれる福音に思えたのも無理の無いことであろう。そして、若い人間が綺麗ごとを並べたアカの思想に嵌るのも、時代と洋の東西を問わず共通であり、藩王国の王子、地元商人の跡継ぎなど、裕福で教育を受けた若者が共産主義へ傾倒していったのである。

87: フォレストン :2017/01/04(水) 10:59:45
1944年11月。
セイロン島と南インド、ベンガル地方を襲った巨大サイクロンによる被害は甚大であった。特にベンガル地方では高潮と暴風が重なり、米の産地であったベンガル・デルタ地帯には高潮が襲い掛かった。これに加えて大雨による河川の氾濫も多発し、周辺の島々も合わせて現地の稲作地帯は根こそぎ破壊された。

被災した地域はあまりに広く、州政府も被害を受けていたこともあって総督府の対応は後手後手であった。豪州やニュージーランドに支援要請を出してはいるものの、こちらも内情はかなり苦しく、本格的な支援は期待できそうもなかった。さらに、サイクロンの直撃を受けなかったとはいえ、コルカタやムンバイ、チュンナイなどの港湾都市も少なからず被害を受けており、被災復旧の足かせとなっていた。

「被害状況は!?」
「停泊していた船舶のほぼ全てに何らかの損傷が認められました」
「かなりの範囲で岸壁が損傷しています。無事な岸壁はごく少数です」
「クレーンが海水に浸かったために、分解整備しないと稼働出来ません」

英軍にとって頭の痛いことに、被災地支援の要となるチッタゴン周辺の港湾施設にも多大な被害が出ていた。チッタゴンはカルナップスズリ川下流の内陸側に港が存在するのであるが、サイクロンがもたらした高潮が河川遡上してきたことによって岸壁と船舶に被害が続出したのである。致命的な被害こそ受けなかったものの、被害範囲は想像以上に広範に及び、その復旧にはかなりの労力が必要と見込まれていた。

東洋艦隊の本拠地であるコロンボも大きな被害を受け、その機能を低下させていた。東洋艦隊はサイクロンが上陸する前に港から退避していたため直接の被害こそなかった。しかし、かつての母港の無残な姿は艦隊の将兵の士気を低下させるのに十分であり、その後の復旧作業に悪影響を及ぼすことになる。

88: フォレストン :2017/01/04(水) 11:01:02
1945年1月。
ゴロンボでは、港湾施設の復旧作業が急ピッチで行われていた。東洋艦隊の根拠地故に復旧が急がれたのであるが、港湾施設だけでなくホテルをはじめとする周辺の飲食店の復旧も急がれていた。5月に開催される英日合同演習終了後に、日本艦隊の将兵を盛大にもてなすためでもあった。

港のすぐ近くにあるグランドオリエンタルホテルでも、サイクロンによって被害を受けた外観の補修が行われていた。1875年創業の由緒あるこのホテルは、歓迎レセプションの会場に指定されていたのである。特にパーティ会場となる大ホールでは、大規模な改装工事が施されることになっていた。もちろん、工事中に盗聴用のマイクが壁に埋め込まれたのは言うまでもない。その他にも一見して分からない場所に隠しカメラや集音マイクが設置されており、今回の一件における英国情報部の本気度が伺えるというものであった。バレたら国際問題に発展しかねないので周到な偽装を施したうえで、工事に関わった者は軒並み不幸な事故に遭ってもらったのであるが。

「えーと…オカエリナサイマセ、ゴシュジンサマ?」
「ゴチュウモンハゴザイマスデショウカ?…だっけ?」
「手を胸元にあてる?萌えポーズ?」
「こんな格好…破廉恥な…!」

日本艦隊の将兵を受け入れるために、ホテル従業員はもちろんのこと、周辺施設の店員にも日本語教育が行われていた。日本人の心をガッチリ掴むために、英国で日本人を最も知悉していると思われる駐日英国大使館に協力を要請したところ、大使館側はこれを快諾。早速、日本語教材を含む膨大な資料と(洗脳済みな)スタッフを派遣してくれたのである。日本語教育用の教材に萌え絵が描いてあったり、猫耳カチューシャやメイド服を大量に送りつけたりと、初っ端からいろいろやらかしてくれたりするのであるが、そんなことは知らない東洋艦隊スタッフと現地住民は、日本艦隊受け入れのために準備を急ぐのであった。

89: フォレストン :2017/01/04(水) 11:02:35
1945年3月。
中国大陸が、三国志もかくやといわんばかりのカオス状態となっているころ、英国では紳士たちが円卓を囲んでいた。

「インド西部州へのイスラム教徒の移送は、年内には移送が完了するものと思われます」
「国民議会は何か言ってきているかね?」
「相変わらず統一インドに拘っているようです」
「そろそろ、国民議会に分離独立について話すべきだと思いますが…」
「いや、5月に予定されている合同観艦式で我が国の武威を示してからのほうがよいだろう」
「衰えたりとはいえ、世界に冠たるロイヤルネイビーだ。日本海軍相手に引けを取ることはあるまい」

彼らは、インドを分離独立させるために日本と手を組んで暗躍していた。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の衝突を軽減させるという名目でイスラム教徒を移送していたのである。ついでに、厄介の種を枢軸側に押し付けるつもりであった。

肝心のイスラム教徒のインド西部州(現パキスタン)への移送は、日本側の支援もあり順調に進んでいた。特に日本側から提供された車両(史実九四式六輪自動貨車相当)は、堅牢な構造と優れた走破性で重宝されていた。陸軍では、既に旧式化しており、半ば予備兵器扱いだったのであるが、今回のために急きょ海路にて輸送されたのである。

このトラックは、当時の夢幻会が主導して行っていた日本の工業力を底上げするための産物でもあった。そのため、開発には倉崎も三菱もほとんど関与しておらず、豊田や日産、いすゞなどの国内の自動車メーカーが開発を担当していた。信頼性確保のために技術的な冒険は行わずに手堅く纏められており、荒っぽい運用にも耐えれる造りになっていた。特に心臓部である統制型ディーゼルエンジンは、性能低下を甘受して燃焼室構造に予燃焼室式を採用したおかげで、燃料に融通が利くようになっており、石油系の低質燃料はもちろんのこと、原料が石油以外の魚油・獣油・植物油などの有機系代替燃料でも問題無く使用可能であった。これに加えて、予燃焼室式は、ピストンやリングの焼結を起こしにくく、極寒時の始動がしやすい、煙が出ない、エンジン音が低いという利点もあり、前線での無茶な運用でもトラブルフリーであった。その反面、エンジンの重量出力比は悪化しており、車体サイズの割りに積載量が低かったことから、現在はキャブオーバータイプの新型トラックに置き換わり中であった。しかし、人間を載せて走ることには問題は無く、ムスリムを荷台に満載した日の丸トラックはインドの地を激走した。その後、紆余曲折を経て現地に払い下げられ、実に半世紀に渡って地元民やゲリラの貴重な足として重宝されることになるのである。

90: フォレストン :2017/01/04(水) 11:03:56
イスラム教徒の移送は、主に宗教的理由によりインド人民から大きな支持を得た。大半のヒンドゥー教徒からすれば、目障りなイスラム教徒がいなくなるわけであるし、イスラム教徒が大半である地域への移送をイスラム教徒が拒むわけがなかった。一見すれば、理想的な施策に思えるが、じつは問題山積みであり、それこそが英国と日本の狙いであった。

移送されるイスラム教徒は、持ち運び出来る財産を自身で運ぶことが認められていた。持ち運び出来ない不動産については、売却して金に換える必要があったのであるが、大半のイスラム教徒は財産など所有していないので、これは問題にならなかった。問題は移送後である。生活の基盤を持たない人民が、現地でそう都合よく職にありつけるわけがなかった。国家的な社会保障制度など当時のインドには存在しておらず、イスラム教徒が、同胞に施し(サダカ)をするのにも限界があり、彼らの大半は難民と化すしかなかったのである。

移送されたイスラム教徒で、生活基盤を確保出来なかった者は、容赦なく難民キャンプへ入れられた。先年のサイクロン被害の復旧も満足に行えていない状況で、難民キャンプに回せる物資は少なく、それは当然のごとく飢餓と公衆衛生の悪化を招いた。当然ながら、そのことに不満を抱く難民たちは、現地のイスラム教徒と衝突し、社会不安が増大していったのである。やがてパキスタン全土が不穏な状況となり、その影響は枢軸側であるイランへも波及していくことになる。

91: フォレストン :2017/01/04(水) 11:05:05
1945年5月5日。
インド洋で開催された英日合同観艦式は、英国側のSAN値を大幅に削る結果となった。最低限のメンツは保てたものの、このままで済ますわけにはいかなかった。今こそ英国情報部の真価が問われる時であり、夜のゴロンボは、情報部の草刈り場と化したのである。

歓迎レセプションの会場となったグランドオリエンタルホテルの大ホールは、まさに酒池肉林と言っても過言ではない様相を呈しており、可能な限り上質の料理、酒、煙草、そして…、要するにあらん限りの贅が尽くされていた。艦隊首脳部は、マウントバッテン総督により迎賓館に招待されていたために、残された佐官や尉官クラスは、海兵同期でテーブル毎に集まって臨時の同窓会を開いていた。上層部から厳重に注意されてはいたものの、同期が集まり、美味い料理に酒があれば話は弾んでしまうものである。最初のうちは用心していても、酔いが回ってくると口が軽くなってしまうのはどうしようもなかった。そういった会話内容を情報部は根こそぎ傍受していたのである。

「あら、御一人ですか?」
「君は…?」

酔い覚ましにホールの片隅に退避していた一人の海軍士官は、イブニングドレスに身を包んだ妙齢の女性に声を掛けられていた。当然ながら、この女性は情報部所属である。この後、初心な少尉殿は女性に部屋に連れ込まれて…あとは言うまでもない。当然ながら、連れ込まれた部屋にはマイクとカメラが仕込まれていた。女性の手練手管で、夢見心地であれこれ吐かされたり、撮られたりしたのは言うまでもないことである。

情報部が傍受した膨大な会話内容は、録音された後に翻訳されて分析にかけられた。難解な日本語で、しかも地方出身者の強い訛りを翻訳するのには相当の苦労があったのであるが、それでも情報部は根気強く翻訳して、些細なことでもファイリングした。情報というものは、ただ秘匿すれば良いものではない。下手に隠すと、かえって不自然になることもある。一見、何の関係も無い情報であっても、繋ぎ合わせれば浮き上がってくるものもある。そのことを世界で一番理解しているのは、間違いなく英国情報部であった。

92: フォレストン :2017/01/04(水) 11:06:42
ホールが士官たちの同窓会場と化したため、居づらくなった下士官や兵たちは街に繰り出していた。ホテル周辺の飲食店も開放されており、そちらでも飲み食いすることが出来たからである。そのため、ホテル周辺のも日本艦隊の将兵で溢れていたのであるが、その中でひと際繁盛していたのが、とあるカフェであった。

「お帰りなさいませ、ご主人様」
「ご注文はございますでしょうか」

従業員が全員女性でメイドさん-いわゆるメイドカフェであった。当時の日本の秋葉では、既にメイドカフェがオープンしていた。たまたま派遣されて来た大使館スタッフに、メイドカフェに入り浸っている紳士がいたために実現したものであった。

どちらかというとイロモノ系な日本のメイドカフェと違って、こちらは正真正銘のメイドが給仕する真のメイドカフェである。その所作は非常に洗練されており、それでいて萌えポーズも忘れていない。ここらへんは、大使館スタッフの指導の賜物であろう。

料理は日本語メニューが用意されており、出される料理の質は高く、さらにアルコール類(特にウィスキー類)も充実していた。もちろん無料である。これで繁盛しないほうがおかしいであろう。この店だけでなく、他の飲食店も日本人の心をくすぐる趣向が凝らしてあり、そちらも大人気であった。

なお、余談であるが、歓迎レセプションでスコッチの味を覚えた将兵たちが、帰国後にウィスキーを欲したために、本格的なウィスキーブームが到来することになる。1950年になると国内の酒造メーカーである壽屋(現サントリー)や大日本果汁(現ニッカ)が、ウィスキーの販売を始めている。

始めは試行錯誤の繰り返しで、品質的にも英国産スコッチに対抗出来なかったが、水と材料を吟味し、英国へ技術者を直接派遣するなどの努力の甲斐もあって、英国に引けをとらない高品質なウィスキーを生産することが可能になっていった。 年を追うごとに英日間の技術交流も活発になっていき、英国人と最初に仲直りしたのは酒造メーカーの人間だと後に言われることになる。

93: フォレストン :2017/01/04(水) 11:07:56
1945年5月下旬。
インド国民議会はインド、パキスタン、バングラディシュに分離独立するべく動いていた。英日合同観艦式は、英国紳士たちには多少面白くない結果であったが、インド周辺における英国のプレゼンスをある程度示せたこと、そして英国が文章でインド独立を確約したことからインド国内は多少落ち着きつつあった。この情勢を利用して英国は国民議会に分離独立を認めさせたのである。

既に英国は、日本と同様にインド内戦は不可避と判断していた。さらに最近のインド国内の状況を分析した円卓は、内戦でインドが未曽有の大混乱になる前に、外的要因で暴発する可能性があるのではないかと考えるようになっていた。

「イランにおける演習で、クラウツどもが醜態をさらしたために、パキスタンでは動揺が広がっています」
「反英感情が強いために、ドイツに接近していましたが、演習後は日本に接触しようとしています」

先日のイラン演習で、ドイツの誇る最新鋭戦闘機Me262が、日本海軍の疾風に歯が立たなかったことは世界中に喧伝されていた。そのため、ドイツの手引きで枢軸側につこうとしていたパキスタンの指導者たちの間では、ドイツにつくか日本につくかで意見が真っ二つに割れていた。

「国民議会は、日本が主催する環太平洋諸国会議にオブザーバーとして自国外交官を出席させようとしているようです」
「環太平洋諸国会議で自国の窮乏ぶりを明らかにし、各国に支援を訴えるつもりか…」
「パキスタンがこのことを知ったら同じことをやりそうですな」

ドイツが頼りないことを悟ったパキスタンは、以後日本にすり寄っていくことになる。しかし、ライバルであるインド(国民議会)も日本に支援を求めようとしていた。それは単純に考えれば、日本からの支援が半分になることを意味していた。両国にとって到底認められるものでなく、さらに対立が激化していくことになる。

94: フォレストン :2017/01/04(水) 11:08:55
内戦が秒読み段階となったインドに対して、英国は内戦の勃発を可能な限り遅らせるつつ、その影響が周辺地域に及ばないように工作を続けていた。その一環として地元の有力者と接触し、彼らがどの勢力に帰属するか詳細な調査を行っていたのである。その結果、とんでもないことが判明していた。

「地方で共産党勢力が急速に拡大しているだと!?」
「現地の駐在官からの報告ですが、地元の有力者の子弟が共産主義を唆しているようです」
「共産主義の危険性とその悲惨な末路について我々は散々に喧伝したではないか。それが分からぬほど愚かではないはずだ!」
「『スターリンとロシア人は失敗した。自分たちはうまくやる』というのが、彼らの言い分です」
「日本人が成功した以上、同じ有色人種である我々が成功させられない理由が無いとも言っています」
「土人どもが増長しおって!」

総督府によるサイクロン災害の復興支援が滞るなか、事実上見捨てられた形となったインドの地方では、共産主義に被れた若者達が、私財を投じて被災した地元民の支援にあたっていた。藩王国の王子や地元商人の嫡男が、カーストを無視して災害復旧の陣頭指揮を執っていたのである。

彼らはカーストの廃止を訴え、身分の分け隔てなく炊き出しや、臨時に病院を開設して無料で治療を受けさせた。当然のことながら地元民の支持はうなぎ登りであった。都市部で廃れたはずの共産主義は地方で爆発的に広まっていったのである。

95: フォレストン :2017/01/04(水) 11:09:40
インド共産党は宗教の否定、そしてカースト制度の破壊を図っていたために、ヒンドゥー、イスラムの両勢力から警戒され、一部では激しい衝突も起こっていた。しかし、カーストの分け隔てなく受け入れてくれる共産党の支持は増していく一方であった。

このようなことになったのは、インドで搾取や異常気象が続いたことにより、旧来のカースト制度や宗教に疑問を持つ人民が増えていたためであった。旧来からの社会システムが機能不全に陥るほどインド国内は疲弊していたのである。

この動きを敏感に察知したのが、国民議会首班のネルーであった。自身が社会主義者であることから、共産主義には共感するところが多かった。そんな彼であるから、インド共産党と連携することにためらいなどあるはずもなく、英国と日本がそのことに気付いたころには既に手遅れであった。

ネルーにも誤算があった。都市部では自らが率いる国民議会が、地方では共産党と連携することでインドを統治するつもりであった。しかし、インド共産党は、国民議会を支持せず、分離独立を望んでいた。その結果、インド国内はヒンドゥー、イスラム、共産党、国民議会、藩王国による勢力争いが深刻なものとなり、インド国内は次第に魔女の巨釜の形容が生温いほど混沌とした状況に陥っていくのである。

96: フォレストン :2017/01/04(水) 11:10:49
インド帝国の内情のヤバさを再認識した英国は撤収を急いでいた。しかし、英国がインドから手を引くには、曲がりなりにもインド帝国に独立国の体裁を整える必要があった。国民議会に武器を譲渡するのも、インドに国軍を創設するためであった。

「それで、引き渡す兵器に関してなのだが…」
「今後、陸軍でリストラして余剰兵器が出るとはいえ、大半は予備に回すので、保管していた旧式兵器がメインになってしまいます」
「幸いと言うべきか、ドイツの本土進攻に備えて、根こそぎ引っ張り出してメンテしていますので、状態は悪くありません。そのまま引き渡しても問題は無いでしょう」

ロンドンのホワイトホールに所在する陸軍省ビルの一室では、インド国民議会に引き渡す兵器についての話し合いがもたれていた。

国民議会に引き渡す兵器は、やはりというべきか旧式兵器がメインとなった。これらの兵器は、ダンケルク撤退で大量の兵器を遺棄したために、やむを得ず現役復帰させたものであった。状態は悪くないので、まだ使えるのであるが、異次元の進化を遂げているドイツの重戦車相手には無力なので、くれてやっても惜しくないシロモノであった。

「列車砲なんかも良いかもしれません。使い道がありませんし」
「あの『ドイツ人殺し』か。まぁ、デカくて見栄えがするからハッタリは利くやもしれんな」
「インド国内には鉄道が張り巡らされているので、本国よりは活用出来るでしょう」

ボッシュバスター(ドイツ人殺し)こと、18インチ列車榴弾砲は、第1次大戦中に開発された列車砲である。しかし、実戦で使用されることなく予備兵器となっていた。本砲は、インドの鉄道ゲージ(軌間)に対応するように改修された後に国民議会に譲渡され、インド内戦で意外な活躍をみせることになる。

97: フォレストン :2017/01/04(水) 11:20:02

「小火器類が不足しますが、如何しましょう?」
「不足分については、セイロン島に工場を作って生産するとのことだ。必要なものはオーストラリアから調達する」

不足する歩兵用の武器については、英国本土で生産するのではなく、セイロン島に武器製造工場を作って賄うことになった。これは、大西洋を船便で輸出するのはロイズの保険料が高過ぎることと、豪州における雇用対策のためであった。

戦後にも関わらず、船舶保険の最大手である英国ロイズは、大西洋を危険海域として海上保険の料率を大幅に引き上げており、本国で武器を生産するとコスト高となった。それくらいなら、セイロン島に製造工場を作ったほうが、最終的に安くつくと見積もられたのである。

豪州とセイロン島は距離的にも比較的近く、インド洋は英国と日本の影響下にあるため、保険料も安く安全であった。豪州は、新たな輸出先を探していたのであるが、英国本土は前述の保険料の関係で貿易しても利益があまり出なかった。カナダは安全な太平洋を通るので、保険料は安いのであるが距離的に遠いし、そもそもカナダは資源国なのであまり需要が無かった。比較的近い場所に売り込みたいのであるが、周辺国は日本の勢力圏なのでそれは叶わなかった。英国からの提案は渡りに船だったのである。

豪州で武器を製造して輸出すれば良さそうなものであるが、豪州は工業インフラに重要な水資源が貧弱であり、採算を度外視出来る戦時ならともかく、現時点では需要に応えられるか微妙であった。そのため、資源と食料輸出に専念せざるを得なかったのである。

98: フォレストン :2017/01/04(水) 11:21:08
1945年7月初旬。
英国はシンガポールの利権を餌にして、日本をインド洋に引き込むべく動いていた。インド撤退が完了していない現状で、インド東部から大量の難民が東南アジアに流れ込めば、どのような事態が起きるか想像もつかなかった。最悪の事態に対処するには、利権を妥協してでも日本の協力を取り付ける必要があったのである。

シンガポールに帝国海軍が駐留するのは、日本側にとっても益のある話であった。日本が中東から石油を輸入するためには、マレー半島とスマトラ島の間にあるマラッカ海峡を通行するのが最短ルートであった。そのために帝国海軍主導によるマラッカ海峡の安全確保は必要不可欠であった。本来であれば、英国海軍が安全を保障したいのであるが、実績が無い状態ではどうしようもなかったのである。しかし、結果論であるが英国がマラッカ海峡の防衛を日本に任せたのは正解であった。

マラッカ海峡の周辺は豪州を除いて親日国家である。しかし、これらの国々は自力で勝ち取った独立ではなく、日本から独立を与えられたに過ぎず、独立準備政府に対して旧来の有力勢力は大いに不満を持っていた。そんな彼らが反政府ゲリラとなるのは必然であった。そしてゲリラ達は、手っ取り早く活動資金を得るために海賊と化したのである。

当時の日本の石油タンカーの主力は、史実リバティ船をベースに開発された戦時標準船であった。参考にしたのは船型のみであり、エンジンは扱いやすい船舶用ディーゼルに換装され、構造材の材質や溶接技術も最新のものが使われていた。そのため、あくまでも日本の基準における戦時標準船であり、他国とは一線を画していた。それでも、コストと建造期間短縮のために速力その他の性能が犠牲になっており、マラッカ海峡を通行する本船を海賊が捕捉するのは容易であった。

いわゆる護送船団方式で、ある程度まとまったタンカーを海軍の駆逐艦が護衛してマラッカ海峡を通過するのであるが、そこに海賊が四方八方から襲撃した。襲撃してくる海賊は、多数のモーターボートに分乗しており、数が多すぎて迎撃が困難であった。もっとも、船内に乗り込んだ海賊達を待っているのは、警告後の無慈悲な弾幕射撃であったが。

万が一のために船内に乗り込ませていた海援隊や海軍陸戦隊のおかげで、海賊による物的・人的被害は皆無であった。しかし、襲撃の頻度に悩まされることになった日本側は、護衛と輸送効率の両立を図るべく石油タンカーの大型化を図ることになる。

99: フォレストン :2017/01/04(水) 11:22:41
1945年7月中旬。
日本政府の手によって行われたY型戦艦、新型噴進機、稲荷計画、トランジスタの発表により、列強上層部のSAN値がゼロに近づいているころ、英国ウスターシャー州のブロードウェイ村に男たちが集結していた。全員が英国情報部所属の精鋭エージェントである。

コッツウォルズの宝石と称えられる風光明媚なこの村には、英国情報部の本部が置かれていた。ブロードウェイ・ビルディングと名付けられたオフィスの一室では、緊迫するインド情勢について分析が行われていたのである。

「詳細に調査しましたが、現時点ではソ連共産党がインド共産党を支援した証拠は見つかっていません」
「直接ではありませんが、傍証と思われるものはいくつか見つかっています」

インドで共産党の勢力が拡大していることで、真っ先に疑われたのがソ連共産党であった。英国情報部では、インド共産党とソ連との接点を探っていた。しかし調査結果はシロであった。少なくとも資金の流れは確認出来なかったのである。

「…君の考えを聞こう。どう思うかね?」
「やはりシロでしょう。ソ連がインド問題に首を突っ込むとは思えません。ただし、ソ連上層部がどう思っているかは、また別です」
「ほぅ?」
「インドが混乱すれば、我が国だけでなく日本にも重い負担となります。そうなると日本がソ連に対して何らかの譲歩をする可能性があります」
「…直接手出しはしなくても、インドが混乱することをソ連上層部は願っているということか」
「はい」

後日の裏付け調査によって、この分析が正しかった事が証明された。既にソ連中枢部まで食い込んでいた英国情報部は、買収したNKVDの幹部から、決定的な証拠となる録音テープを入手することに成功したのである。このテープと傍証があれば、ソ連がインド内乱に手を貸していたことをでっちあげることは容易であった。

「これはソ連との交渉材料に使えるな」
「しかし、脅すにしろ公開するにしろ慎重を期する必要があるでしょう」
「公開するならば、日本とも協議が必要だろうな」

しかし、インドの混乱をソ連が願っているとはいえ、現状でソ連にこれ以上の打撃を与えて倒れられても困るのある。そのため、録音テープの扱いには慎重にならざるを得なかった。この録音テープと傍証が、ソ連糾弾の材料として世界に公開されるかは現時点では不明であった。

100: フォレストン :2017/01/04(水) 11:23:32
1945年8月初旬。
7月の日本政府の発表により、枢軸陣営には動揺が広がっていた。専制国家であるが故に情報統制がうまく出来たために、一般民衆は真相を知らずに済んだものの、情報を知ることの出来る者は軒並み頭を抱えていた。それは英国にも言えることであったが、ある程度事前に情報は得られていたし、英国は裏切りの代償さえ払えばなんとかなるので、まだ救いはあったといえる。情報統制出来ないために一般大衆が真実を知ってしまい、そちらの対応に苦労する必要はあったが。

イラン演習の結果、ドイツご自慢の最新兵器も日本の新兵器には劣るという心象が強まっていたため、被支援国が納得する相応の量を供与する必要があった。同時にドイツから容易に離反しないように、駐留軍のテコ入れも行わなければならなかった。これらの政策はただでさえ苦しいドイツの台所事情を更に悪化させ、軍需省や財務省の官僚たちの胃と毛髪に多大な打撃を与えるものであった。

英日合同観艦式、イラン演習、そして7月の日本の発表は、間接的には日本から英国へのアシストとなった。被支援国が納得するだけの支援をする必要が生じた結果、台所事情が苦しくなったドイツは、インド問題に介入する余裕を無くしたのである。これに加えて前述の日本の発表により、中東諸国では日本に接近しようとする動きが密かに出始めていた。

一例を挙げれば、イランの英国資本接収の取り止めであろう。表向きは共産主義(ソ連)に対抗する同盟を築くためであるが、実際は対英関係及び対日関係への配慮であり、日本との関係改善に密かに動き出したという意思表示の一つである。イラン、イラク両国のように日本の脅威を訴えてドイツから更なる支援を引き出しつつ、日本に石油を売りつけて関係を保つという外交もこれに当てはまる。しかし、いずれにしても中東諸国も現状では鞍替えする気はなく、ドイツ側に内心を気取らせるヘマはしなかった。

中東諸国が、密かに日本との関係改善に乗り出したことは、英国にとっても益のあることであった。ただでさえ息切れ気味の英国にとって、中東が不安定化するなど百害あって一利無しなのである。もっとも、中東における日本の影響力が増し過ぎるのは考え物なので、釘を刺すことも忘れなかったが。

101: フォレストン :2017/01/04(水) 11:24:32
1945年8月中旬。
インド西部の港湾都市スーラトでは、成人男性が風邪のような症状で病院に担ぎ込まれていた。診察では風邪と判断され、体力低下が著しいために念のために入院することになった。しかし…。

「患者の症状はどうかね?」
「発熱と嘔吐に食欲不振、さらに頭痛、悪寒、倦怠感の訴えがあります」
「ふむ、現時点では断定は出来ないか。風邪でなければ、肺炎、あるいは何らかの感染症の疑いもあるが…」
「先生大変です!患者の容体が急変しました!」
「!?」

駆け付けた医師が見たものは、急激なショック症状をおこして昏睡する男性であった。この患者は手足の壊死、紫斑などの症状により意識を回復することなく2日後に死亡が確認された。典型的な敗血症型ペストの症状と認めた医師は、インド総督府に緊急通報した。

アメリカ風邪の記憶も未だ生々しい時期のペスト発生であったことから、直ちに病院は隔離されて徹底的な消毒がなされた。しかし、本当の悪夢はこれからであった。死亡した患者から取り出されたサンプルは、当時のインド国内に解析出来る施設が存在しなかったために本国で解析が行われた。その結果、とんでもないことが判明したのである。

「肺ペストだと!?」
「まさかアメリカ風邪なのか!?」
「いえ、違うようです。詳細は専門家を呼びましたので、そちらから説明させます」

緊急招集された円卓の参加者は色めき立っていた。アメリカ風邪といえば、旧アメリカで猛威を振るい、今でも封じ込めに苦慮している極めて危険な伝染病である。それだけではなく、肺ペストがアメリカ風邪と同種であった場合、問題はインドや英国だけでなく、日本にも飛び火する。津波の影響で大きく制約されているが、、日本は英国との交流を再開していた。未知のルートで日本側勢力圏にアメリカ風邪が持ち込まれた可能性は、十分にあり得ることであった。

102: フォレストン :2017/01/04(水) 11:25:29

「アレクサンダー・フレミングです。今回のペストについて説明させていただきます」

ロンドン大学セント・メアリーズ病院医学校のアレクサンダー・フレミング医学博士は、英国の感染症研究の権威であった。そのために今回のペストの解析を依頼されていたのである。解析の結果は、敗血症型ペストが変異した肺ペストであった。

「解析の結果、敗血症型ペストが変異した肺ペストであることが確認されました」
「変異だと?」
「はい、ペストの大半は接触感染で広がる腺ペストです。しかし、極まれですがペスト症状末期の患者の肺にペスト菌が入ることにより肺ペストに変異するのです」
「…そうなるとどうなるのかね?」
「肺ペストは接触感染ではなく、空気感染で広がります。現地の衛生状況にもよりますが、アウトブレイクは免れないでしょう…」
「なんということだ…!」

円卓の面々に絶望が広がっていく。サイクロン災害から立ち直れていないインドでは、衛生状態の悪化と飢餓に苦しむ人民が大量に存在し、現地情勢を不安定なものにしていた。そのような状態で肺ペストが広まったら、どこまで混乱が広がるか想像もつかなかった。最悪、内戦のトリガーになりかねない。

「治療方法は無いのか?日本の…確か抗生物質だったか。あれなら有効なのではないか?」
「アメリカ風邪に効くならば、肺ペストにも当然有効でしょう。しかし、そうなると日本から相当な数量を輸入する必要がありますが…」
「せめて我が国でも抗生物質を作れれば、今回の件には間に合わなくても国民を安心させられるのだが…」

アメリカ風邪には、ワクチンこそ存在しないものの、抗生物質の投与は有効であった。現に日本では、政府が十分な防疫体制を敷いていることと、国民に投与するための十分な量があることを広報しており、国民に冷静な対応を呼びかけていたのである。

103: フォレストン :2017/01/04(水) 11:26:39

「抗生物質ですか。量産ならともかく、少量なら生産可能ですが…」
「「「!?」」」
「ちょ!?苦しい!?首が締まr!?ぐぇっ…」
「博士ぇぇぇぇ!?どういうことだ説明しろぉぉぉぉぉ!?」

現状では日本からの輸入に頼らざるを得ない抗生物質を、自国で生産出来るようになれば絶大な国益となるのである。そのため、博士の呟きに円卓の面々が過剰反応したのも無理の無いことであった。

「…なるほど、現状では実験室レベル止まりで量産は不可能と」
「はい。私が発見した抗生物質『ペニシリン』ですが、量産化にあたっては2つ問題があります」
「…それは何なのかね?」
「数量を確保するための手段の確保と、より効果的にするための精製手段です」

史実同様にアレクサンダー・フレミングは1928年にアオカビからペニシリンを発見していた。しかし、ペニシリンを実用化するためには2つの問題があった。一つは十分な量を確保できるようにすること、もう一つは彼が発見したペニシリンは効き目が現れるのに時間がかかったため、より効果的なものに改良する必要があったのである。

これらの問題を解決するには、アオカビの培養液から活性本体だけを取り出す、すなわちペニシリンを精製する必要があった。しかし、それは細菌学者であった彼よりもむしろ化学者が得意とする分野の仕事であったため、思うようには捗らなかった。そのうえ、彼のペニシリンの最初の報文が当時の医学関係者に受け入れられなかったことも、研究の進展を妨げていたのである。

ちなみに、日本もフレミングの発見と同時期にペニシリンを発見…というより、逆行者達の未来知識によって『碧素』の名称で実用化されていた。1930年には軍向けに生産が始まり、その後民間向けに生産が開始されて相当数が備蓄されていたのである。

「…フレミング博士、貴方にはこれから24時間体制で情報部の監視がつく」
「…必要なものがあったら何でも言ってくれたまえ。その代わり何が何でも実用化してくれ」
「…これは英国を救う切り札になるかもしれないのだ。国王陛下のためにも全力を尽くしてくれ」

ヤバい目をした円卓の面々に抗う力はフレミングには無かった。この場でノーなんて言った日には冗談抜きで首が物理的に飛ばされかねなかった。

「はい、全力でかからせていただきます…」

彼が言えるのは、この一言のみであった。円卓の言うことに嘘は無く、潤沢な資金と開発機材、そしてハワード・フローリーやエルンスト・ボリス・チェーンなどの優秀な人材がかき集められた。彼らの必死の努力により、数年後にペニシリンが実用化されることになる。

104: フォレストン :2017/01/04(水) 11:28:03
1945年9月初旬。
インド総督府の迅速な初動措置により、沈静化したスーラト市内のペスト騒動であったが、それは一時的なものであった。必死の努力を嘲笑うかのように、同時多発的に風邪症状を訴える市民が増加。やがて肺炎のような症状をおこして次々に死亡していった。その数は級数的な勢いで飛躍的に増えていった。

この事態に総督府は緊急事態を宣言した。肺ペストをスーラトで封じ込めるべく、市の外周部に部隊を展開させ、さらに英海軍も周辺海域を封鎖した。しかし、その封じ込めは上手くいってるとは言い難かった。

「こちら側の制止を無視して市民らが封鎖戦を突破しようとしています!」
「止むを得ん、発砲を許可する。あくまでも威嚇だ。市民に当てるな…!」

現地警察による治安維持は既に不可能な状態であった。市街地から外へ向かう幹線道路は、軍によって封鎖されていたのであるが、肺ペストのアウトブレイクによって恐慌状態となった市民達が脱出を図るべく殺到してきたのである。

「もうお終いだ、みんな死んでしまうんだ!」
「このままだとアメリカ風邪のときみたいに無差別爆撃されるぞ!?」
「冗談じゃない、俺は逃げるぞ!」

周りでバタバタと肺炎で倒れていく人間を見せつけられ、さらに列強軍が無差別爆撃に来るという噂を信じて自棄になった市民達には、半端な威嚇射撃など無意味であった。現地に展開した部隊がインド兵を中心としていたため、同胞に銃を向けるのに忌避感があったことも大きい。事ここに至って、封じ込めを優先するべく市民への発砲許可が出されたのであるが、既にタイミングを逸していた。容赦ない銃撃を加えたのにも関わらず、肺ペストのキャリアである市民達は次々と封鎖戦を突破して逃げ延びていったのである。

「停船せよ、さもなくば撃沈する!」
「…艦長、停船しません」
「…撃沈せよ!」

陸路だけでなく海路を使って脱出しようとする市民達もいた。スーラト市内はタビ川が縦断しており、川を下って海に出ようとしたのである。周辺海域は英海軍が封鎖しており、脱出しようとする船舶は容赦なく撃沈された。スーラトから海路を使って脱出に成功したのは、手漕ぎボートと泳ぎであった。彼らの大半は、力尽きて海の藻屑になったのであるが、付近を通る海流で北に押し流されて遠くパキスタンのカラチまで流れ着いた者もいた。

その後、いかなる経緯を辿ったは不明であるが、インド・パキスタン国境付近のイスラム教徒の難民キャンプで肺ペストが発生した。難民キャンプの衛生状態は劣悪であり、アウトブレイクするには時間はかからなかった。難民キャンプの住民が倒れていくのを見て恐慌状態となったパキスタン人は、安全を求めて西部へと移動を開始した。その混乱はイランやアフガニスタンにまで波及しようとしていた。

105: フォレストン :2017/01/04(水) 11:28:54

「なんということだ…」
「このままでは、内戦よりも酷いことになるやもしれません…」
「冗談抜きでインドの滅亡があり得ます」

円卓では紳士たちが打ちひしがれていた。今までの努力が水泡と化したのであるから当然ではある。しかし、彼らは不屈のジョンブルであった。いかなる状況であっても諦めることを知らない男たちは、すぐさま議論を再開する。

「インド風邪(仮称)をアメリカ風邪並みに危険な伝染病であることを喧伝して、各国からの理解と協力を得るべきかと」
「封じ込めのために、インドの主要な港湾都市に軍を進駐させよう。ゆくゆくは都市国家として自立してもらう」
「セイロン島の安全確保のために、インド本土に緩衝地帯を設けるべきでは?」

かくして、まとまった方策は以下の通りとなった。

  • インド風邪の危険性を世界中に喧伝することにより各国の理解と協力を求める。
  • ムンバイやコルカタなど、主要な港湾都市への英軍の進駐。
  • セイロン島の独立。
  • セイロン島の緩衝地帯として、インド南部の独立。

106: フォレストン :2017/01/04(水) 11:30:14
インド風邪は、アメリカ風邪とは同種では無いものの危険な肺ペストには違いなく、その封じ込めには各国の理解と協力が不可欠であった。英国の求めに応じて(不承不承)各国は協力に応じることになる。

インド風邪のキャリアが国外へ出るのは、なんとしても阻止する必要があった。そのため、主要な港湾都市に英軍が進駐してキャリアの封じ込めと市民の安全確保を図ることになった。しかし、日本を巻き込む、もとい、英国側にも余裕が無いため、チッタゴンへの進駐は日本に担当してもらうつもりであった。それだけでは完全な封じ込めには不十分なので、日本海軍と協力して常時海上哨戒を実施する予定であった。その場合、英国がアラビア海側を、日本がベンガル湾側を担当することになる。

当然ながら、国民議会側からは猛抗議が来たのであるが、英国は非常時であることを理由に押し切った。なお、国民議会には黙っていたが、英国は内戦勃発後に時期を見てこれらの都市を都市国家として独立させるつもりであった。負担は少ないに越したことないのである。

英国がインド洋にプレゼンスを確立し続けるには、セイロン島の確保は絶対に譲れない条件であった。英国がインドから撤退した後の拠点はセイロン島以外には考えられなかった。そのため、史実以上に資本が投下されてセイロン島の拠点化は進められていった。

元々は、創設されるインド軍に小火器を供給するために建設された武器工場群は、年を経るごとに拡充されていき、戦車や戦闘機、果ては軍艦の建造まで可能となった。しかしその大半は、目と鼻の先で行われているインド内戦で使用されることになる。ゴロンボの港湾施設も日本海軍が利用することを見越して、さらなる拡充が図られたのである。

その後セイロン島は、スリランカとして独立して英連邦の一員となった。インド内戦による各勢力への武器売り込みや、豪州との貿易、さらにタイ王国やインドネシアなどの日本勢力圏の国家とも貿易することにより、英連邦でも屈指の豊かな地域となる。しかし、その豊かさはインド人民の悲惨な現状の上に成り立つものであった。

セイロン島が拠点として充実化させていくのと並行して、背後の安全確保のために緩衝地帯を作ることが提案されたのは当然の成り行きと言えた。一例を挙げれば、台湾と福建共和国の関係である。インド南部(史実ケーララ州+タミル・ナードゥ州)は、内戦勃発後に南インド連邦として成立することになる。

インド内戦により、イスラム、ヒンドゥー、国民議会、共産党、そしてインド風邪の猛威に晒されたインド帝国はあえなく崩壊した。無政府状態となったインド亜大陸には諸勢力が跋扈し、終わることのないゲリラ戦を繰り広げることになるのである。

107: フォレストン :2017/01/04(水) 11:31:38

「それにしても、どうしてこんなことになったのだろうな…」

円卓の一員である老紳士が自嘲気味に呟く。不屈の英国紳士も、今回のインド情勢の推移の理不尽ぶりには思うところがあったようである。

「アメリカを崩壊させた巨大津波や、巨大サイクロン…具体的に挙げればいくらでもありますが、そのどれも違うと思います」
「「「…」」」
「…あの、皆さん?」
「いや、続けたまえ。君の発言に興味がある」
「…私のような若輩者でよければ…」

そんな中、一人の壮年男性の発言が、いや、囁くような独り言に近いものであったが、円卓参加者の注目を浴びたのである。

「私はインド情勢があそこまで酷くなったのは、インド人が自信をつけたことにあると思っています」
「「「…」」」
「さらに言うならば、自信の拠り所となっているのは日本の大躍進でしょう」
「つまりは、極論するとインド失陥は日本が原因だと」
「そうなります。我らの前任者達は完璧にインドを統治していた。それが崩れる原因になったのは、間違いなく日本のせいでしょう」

全てが日本のせいというのは、些か極論ではあったが、言われてみれば納得のいく理屈ではあった。だからといって、日本に恨み言をいうわけにはいかなかった。英国は日本をパートナーとしていかねば、この荒廃した世界を生きていくことは出来ないのだから。

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最終更新:2017年09月10日 16:49