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→749-751 の改稿版

提督たちの憂鬱 支援SS――「流転の故宮」


――西暦1943(昭和18)年1月 日本 帝都東京

男が、空を見上げていた。
彼の周囲では拍手が鳴り響き、ハトが舞っている。しかし、周囲の人々は彼に言葉をかけることができなかった。

男は泣いていたのだ。
上を向いて涙をこぼさぬようにしながら、しかし彼の涙はとめどなく頬を伝い続ける。

「陛下。」

そんな彼に、やさしく大倉喜七郎は声をかけた。
彼の名は、愛新覚羅溥儀。

今はなき清朝最後の皇帝、宣統帝と号する高貴な生まれだった。
仕立てのいいスーツに身を包んだ彼がこの東京にいるのには、歴史のいたずらが影響していた。


――彼が即位した時、清朝は既に末期症状を呈していた。
ほどなく辛亥革命が勃発。成立した中華民国は彼が紫禁城に住むことを許している。
しかしそれも長く続かず、やがて彼は住まいを没収されることになった。
だが、このとき中華民国の北京政権は彼を憤慨させる決定を下す。

「軍資金のために紫禁城の宝物を売却する」というのである。

本来なら彼らは、日本政府から2億円にのぼる借款を得られていたはずだった。
しかしこの世界において日本帝国は欧州へ派兵を行っており、とてもそんな余裕がなかったのである。
何より、かの孫文自身が日本に満州の売却を持ちかけると同時に米国に同様の提案を行おうとしていたことが発覚。
信用はないも同然となっていたのだった。

窮した彼らは、権益回収運動という実質的な暴動を煽りつつ、紫禁城の富に目をつけたのだ。
奉直戦争と呼ばれる軍閥抗争の結果、民国により清朝歴代皇帝の陵墓を略奪されていた溥儀は憤慨し、彼の管理下にある御物を市井に下っていた弟の溥傑に「下賜」することで売却から守ろうとした。
そんな彼の動きを妨害しようと、北京政府は北京駐留の米軍に出動を要請する。
対する溥儀も、たまたま美術品収集にやってきていた当時の大倉財閥総帥、大倉喜八郎の助けを借りて日本大使館にわたりを付けた。
結果、彼は北京政府軍が紫禁城を襲うわずか30分前まで搬出作業を敢行し続けていたのである。

宮殿に乱入した兵士たちは、宝物庫を略奪し放火。
炎上する紫禁城から間一髪で脱出した溥儀は、展開していた海援隊の助けを借りつつ上海租界へと脱出に成功したのだった。
なお、北京政府自身はアテが外れたために残った美術品を列強の参加した競売にかけた挙句、紫禁城を米仏資本に売却したことで急速に支持を失っていき、内戦はますます混迷を極めていくことになるのである。

上海租界に移動した溥儀は、なんとか自身の故地である満州だけでも取り戻したいと念願した。
しかし、彼は君主。満州の共同経営者である米国は「満州合衆国」の建国を主張するだけであり蒋介石率いる国民党は彼を暗殺しようとする。肝心の最も近域の列強である日本帝国は大陸情勢には不干渉を貫いていた。

そして、彼のもとには持ち出された美術品を狙う欲の皮が突っ張った西欧の人々が群がりつづけた。
そして、奉天軍閥の強大化と北京入城を彼はずっと見続けることになった。
転機となったのは、第1次満州事変だった。
米国の支援を受けた奉天軍により蒋介石の国民党軍は敗退を続け、溥儀は日本への「賓客としての渡航」を余儀なくされたのである。

彼を助けたのは、大倉財閥の次代当主となっていた大倉喜七郎だった。
美術品を売らずに保存管理する先代の喜八郎は「美術文化は広く公衆の目に接しなければならない」という信念の持ち主で、贈られた美術品は日本初の私設美術館である大倉集古館へと収蔵し展示していたのだ。
その縁で溥儀とは親しく付き合いをしていたのである。
溥儀は、完成したホテルオークラに滞在するも、期待していた日本政府の助力は限られた。

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やがて、溥儀の心に何かが宿った。

「このままでは、死んでも死にきれない。」

彼に残されたもの、それは、彼が「父祖が収集した宝」として大切に保管していた故宮の宝物たち。
これを死蔵するのはあまりに勿体ない。
それに、先祖の業績の記録も、内戦が続く民国ではできないだろう。
幸い資料はたくさんあった。

溥儀は決意する。
自分は、この異郷の地で「清朝の墓守」となろう、と。


こうして昭和7年、溥儀は弟の溥傑と共に東京帝国大学の文学部博物館学科にきちんと試験を受けて入学。
鬼気迫る勉学の末に、ついに修士号を取得し昭和15年には博士号を取得した。
そして、親交のある大倉財閥と、日本で亡命政権を率いているアナスタシア皇女の助力を得て日本政府にある提案を行った。

「故宮博物院の設立」。

民国時代に一度は設立されたものの、内戦の中で自然消滅し宝物は買いたたかれていた博物院をこんどは東京に設立しようというのだ。
この運動は紀元2600年記念事業として承認を受け、半分は上野の東京国立博物館が、半分は新たに設立される財団法人「清朝記念事業財団」が運営する博物館は虎の門に建設が開始された。

これには、美術品を代償に借款を狙う張学良や米国政府のクレームがついたが、それがかえって事業を後押しし、ついに昭和18年のこの日、中国の春節にあわせ「日本故宮博物院」は完成を見たのだった。



「さて、これからが大仕事だ。」

溥儀は、涙をためたまま微笑した。

「はい。大仕事ですね。」

溥儀は、彼が歴代皇帝の御許に向かうことになる21世紀最初の年まで続く研究発表の日々の最初の仕事として、大きく息を吸い込んだ。




【あとがき】――改稿版です。
        そういえば溥儀氏はどうなったかなと思ったので書いてみました。
        ネタを思いついたのはeasrth閣下のネタ「旅順に咲く花」がもとです。
        目指したのは「現代の司馬遷」のような感じで。

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最終更新:2012年01月27日 19:40