428. 名無し三流 2011/08/22(月) 21:13:03
  ロシア革命によってロシア帝国が崩壊した時、多くのロシア人が亡命先として選んだのは日本だった。


  ロマノフ朝の皇女アナスタシアが日本の諜報機関の手によって日本へ脱出していた事、
また政府を始め日本人の多くが日露戦争という過去の出来事にも関わらず亡命ロシア人を快く受け入れた事
(おそらく日本人の熱し易く冷め易い気質が良い方向に働いたのであろう)などから、
日本にはアナスタシアのツテを頼る貴族、一度自分達を打ち負かした国の強さを知ろうとする元軍人、
共産党の主張とは反りの合わない知識人など、実に多様なロシア人たちが亡命してきたのである。


  これが後々の日本とソ連の確執の1つの原因ともなるのだが、
少なくとも日本人と亡命ロシア人にとっては両者の出会いはあまり不幸なものとはならなかった。

  ロシア人も日本の文化にはかなりの関心を示し、日本人はそれ以上にロシア人の文化に興味を持っていた。
そのため二者の融和は早い段階から進み、昭和に入る頃には日本全体に「ロシア系日本人も日本人の仲間」
という感覚が根付いていった。ウォッカやピロシキなどロシア特有の食文化も市民権を得て、
東京には日本料理、中華料理のほかにロシア料理の店も数多く進出してきていた。


  また、料理の他にもう1つ、日本へ進出してきているものがあった………




                  提督たちの憂鬱  支援SS  〜正教会にまつわるエトセトラ〜




  それはロシア正教会である。正教会は明治の頃から日本への布教を始めていたが、
当時は三国干渉や日露戦争などにより日本の対露感情が悪化していたこともあって容易ではなかった。
それでも彼らは努力を続け、外来宗派の中ではカトリック教会に次ぐ勢力を獲得することになる。

  彼らのその努力が報われたのがロシア革命だ。
ロシア革命によって国を追われた亡命ロシア人達の中には元から正教徒だった者や、
ロシア正教会の聖職者も多くおり、彼らは日本における正教会の布教に大きく貢献した。

  また、日本のメディアがしきりに「昨日の敵は今日の友」「ロシア正教会は共産主義の被害者である」
と書きたてた事(ロマノフ朝の皇女アナスタシアという大物の亡命はセンセーショナルなニュースとなり、
その"ブーム"に乗っかる形で日本メディアは亡命ロシア人の擁護を事あるごとに叫んでいた)も追い風となって、
日本人の対ロシア感情は上向きに変化、先述したような日ロ(日ソ、ではない)の融和に繋がっていった。


  だが彼らの本家であるロシア正教会がソ連の監視下に置かれ徹底的な弾圧を受けている事で、
日本の正教徒たちは長らく独自に布教活動をしなければならなくなった。さらには財政支援が消滅し、
ソ連の影響下にあるロシア正教会の意志の正当性や真贋を疑う声が強まったために、
あくまでロシア正教会との関わりを保つべきだとする一派と、
ロシア正教会とは独立してモスクワとの対決をしようとする一派の対立が激化。
日本正教会は昭和に入って以来、最大の危機に瀕したのである。
429. 名無し三流 2011/08/22(月) 21:13:39
  そこに助け舟を出したのは、なんと日本の諜報機関であった。


  当時ソ連のスパイ摘発という水面下の戦いで苦労していた日本の諜報機関は、
防諜や二重スパイなどに日本の正教徒達が持つコミュニティを利用できると考えて彼らと協力を試みた。
具体的に言えば、正教会と機関が情報を共有し、機関が正教会へ資金援助をする極秘協定の締結である。

  日本の公的機関から(秘密裏にとはいえ)援助を受けられる事、
そして同胞を弾圧しているソ連に対する復讐ができる事から喜んで賛同する者が多数出て、
その勢いは宗派が事実上政府の監視下に置かれる事を危惧する者達のそれを上回った。

  そして、ソ連当局の検閲を経て届くロシア正教会の手紙を鵜呑みにするなど、
状況認識の甘さが指摘されるようになっていた当時の日本正教会のリーダー、
セルギイ・チホミーロフ府主教は辞任を余儀なくされ、ニコライ小野帰一がその後を引き継いだ。
こうして日本正教会は事実上ロシア正教会から独立し、独自の道を歩んでいく。


  以後日本正教会はソ連スパイの存在を報告したり、彼らに偽情報を掴ませるなどして暗躍し、
正式な防諜組織と共にKGBを苦しめた。分裂の危機を乗り越えて旗色を鮮明にした日本正教会の結束は固く、
易々と切り崩したり、侵入できるものではなくなっていたのだ。

  そして日ソが秘密貿易協定を結ぶに当たり、
日本側が条件として相手国における諜報活動の弱化をソ連側に飲ませると、
KGBはますます日本に対してアグレッシブな行動ができなくなったのである。





  日本の防諜員と正教徒の油断のならなさを伝えるエピソードの1つに、このようなものがあるので紹介しよう。


  1943年、俗に『倉崎・アレクサンドル事件』として知られる事件があった。

  "アレクサンドル"というコードネームを持つソ連スパイのグループが、
倉崎重工の金庫に保管されていた開発中の新型液冷エンジン他多数の設計図を盗み出した事件で、
重工が発覚直後の緊急株主総会で具体性あふれる防諜対策案を発表したこと、
犯人グループ"アレクサンドル"が事件発覚から2週間以内に全員摘発された事で混乱は速やかに沈静化した。

  これがきっかけとなって日本企業の間で「倉崎のように強大な会社でも油断してると機密を盗まれる」
という恐怖感が強く刻まれ、現在でも世界一流と言われる「企業による情報防衛戦略」が産声を上げた………

  と、ここまでが世間一般でよく知られている話である。
430. 名無し三流 2011/08/22(月) 21:14:12

  賢明な読者諸氏ならもうお分かりかと思うが、この事件の正体は実は「自作自演」だった。

  事の発端は件の"アレクサンドル"の一員が日本正教会への侵入を試みた事による。
すぐに侵入を察知した正教徒達は集団で"アレクサンドル"を謀り、向こうには上手く侵入できたと思わせておいて、
酒の席に誘ったり、ハニートラップを仕掛けたりとあらゆる手を使い逆に情報を引き出してしまったのだ。
全ては信仰を同じくする仲間を弾圧された恨みの成せる技と言えよう。

  こうして"アレクサンドル"の全容は直ちに防諜機関の知る所となったが、
ここでその報告を受けた夢幻会の変人達は一計を案じた。それは日本企業には情報管理の教訓を与え、
そしてソ連本国の技術者には無駄骨を折らせるという恐るべき鬼謀であった。


  作戦の概要はこうである。倉崎の人間が"餌"となる設計図を作り、金庫にしまう。
それを日本の諜報員が侵入して奪う。そして二重スパイを通じて"アレクサンドル"に渡す。
彼らがそれを本国に送り届けた所で事件を公表し"アレクサンドル"を一斉摘発する。


  これが実に上手く行ったのである。とある大蔵の辻政信曰く「予算をかけてるんだからこのくらい当然」
という事だが、日本の諜報員はその予算に応えて上手くやった。一見まともな設計図に思わせておいて、
よく見てみると間違いと出鱈目しかない設計図の分析を任されたソ連の設計局は倉崎をひどく恨んだという。

  例えば流出した(させた)設計図の中には"新型戦闘機案"と題され、
ご丁寧に"最上級極秘"と判まで捺されたものがあったが、ミコヤン・グレビッチ設計局がこれを分析すると、
新型っぽいのはそのフォルムだけで実際は史実ホーカー・タイフーン(初期)も顔負けの欠陥だらけ、
わざわざ整備性が悪くなるように配管が組まれていたり、発展性も皆無なようにされていたり、
挙句の果てには製造にまで余計な手間と資源の浪費が成されるようにされていたのである。

  最終的にこれらの設計図はペテンに合った事に気付き怒り狂ったソ連技師によって焼却されてしまうが、
それまでの無駄な分析に費やした時間は他の新兵器開発スケジュールを確実に圧迫していた。



  さらにその後始末も完璧という他無かった。

  日本正教会はこの事件で他のソ連スパイが地下に潜ってしまう事を恐れ
(日本正教会が諜報機関から支援を受けられるのは彼らが機関の情報源となっているからであり、
情報源としての成果が乏しくなれば支援を切られてもおかしくはない)、独自に一計を案じた。
431. 名無し三流 2011/08/22(月) 21:15:03
  事件が公表されて"アレクサンドル"が壊滅した後、ロシア系日本人の正教徒達が"にせアレクサンドル"になり、
あちこちのソ連スパイに「"アレクサンドル"は壊滅したと言うがあれは嘘だ。俺達は今もコッソリ活動してる」
などと触れて回ったために、他のスパイも混乱。

  その報告を受けたKGB本部も日本の新聞と部下の報告のどちらを信用するか迫られ、
結局事件公表から一ヶ月の間、もう存在しない筈の"アレクサンドル"から報告を受け取ったり命令をしていた。
それだけ正教徒の演技は真に迫ったものがあり、見事だったといえよう。KGBのある職員は、
"にせアレクサンドル"の存在が伝えられると「もうやだこの仕事」と嘆いたという。



  だが、この日本の正教徒達の暗躍は皮肉な事に、故郷ロシアの正教徒の弾圧激化を招く事になったのだ。

  ソ連は日本の正教徒の恐ろしさを知ると、自国内にいる正教徒の取り締まりも強化した。
正教徒のコミュニティを利用した諜報網が自国内に張り巡らされるのを恐れたのである。
スターリンは興奮して「外国のスパイである事を自白するのは正教徒だ、
外国のスパイである事を自白しないのはよく訓練された正教徒だ」とまで発言し、
史実以上に宗教弾圧への気勢を上げた。その勢いはかの鎖国中の江戸幕府並みであったとされる。

(プラウダ(ソ連政府の御用新聞)に「宗教家は鎌を取ってコルホーズに出る事も、
  ハンマーを取って工場に行く事もなく無為に髭を伸ばしている」と聖職者を叩く記事が出ている所を見ると、
  行き詰まりを見せ始めていたソ連国内の不満をそらすためでもあったとする見方がある)

  そしてこの激しい弾圧が日本だけでなく世界の正教徒の怒りをさらに激しいものとし、
「憎しみが憎しみを呼ぶ時代」と揶揄された1940年代の象徴の1つとなったのであった………



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最終更新:2012年01月01日 04:42