504. ひゅうが 2011/10/30(日) 11:02:48
※きれいな英国面も書いた方がいいかな〜と思って。
憂鬱世界のモスキート誕生物語です。


――英国面より愛をこめて


西暦1940年10月。デ・ハヴィランド社は控えめに言えば修羅場状態にあった。
激化する「英国の戦い(バトルオブブリテン)」の中で、英国の航空機工場の稼働率は実に60パーセント程度にまで落ち込んでおり、そのほぼ全ては英国の守護神たるスピットファイア戦闘機、そして、勇敢にも空母を降りて英国南部に展開した日本海軍航空隊の補充部品の生産に費やされていた。

幸いというべきか、ナチスドイツのUボート攻撃はこの期間中は強力な対潜哨戒網を有する日本海軍の護衛艦隊を警戒して出撃を見合わせており、ゴムをはじめとする希少資源はこの頃はまだ一定の関係を維持していた米国を経由しパナマ運河や北大西洋航路を経て、北アイルランド経由で英国に送り込まれていた。

同時に、設計陣もまた修羅場状態だった。
先の「冬戦争」において、日本帝国の義勇軍が保有する航空機たちが見せた欧州レベルとは隔絶された高性能――高速・遠距離飛行能力に加えて強力な武装による、衝撃、いわゆる「96ショック」が当時の欧州諸国をおそっており、彼らはそれらへの対処に追われていたのだ。
とりあえずは航続距離を延伸することができ、日本海軍から落下増槽(ドロップ式燃料タンク)の技術を入手できた英国はまだよかったが、ドイツやソ連はどうしてもこれらを並立することができず、極端なものでは空挺部隊や潜水艦を使って特殊工作員を送り込み、日本機の残骸を持ち帰ることすら真剣に計画されていたといわれる。

英国は、日本の航空機企業(倉崎、三菱など)と既に大型爆撃機の分野で共同開発の経験を持っており、その結果も「マンチェスター」爆撃機や「ランカスター」爆撃機などに結実しており次は戦闘機という機運は高まっていたものの、やはり自国で手がつけられる部分は自分たちで作る方がいい。
こうして、英国はおもに日本機が搭載しているような1500馬力以上の高出力発動機の開発に着手する。
その代償となったのは、新型機開発部門だった。
彼らは、既存機の航続距離延伸に時間をとられ、その後はバトルオブブリテンの中での生産ライン上での突貫作業での「機体の改良」にかかりきりになっていたのである。
そんな中で設計作業が遅れた一例として、あの「スピットファイア」戦闘機の改良型として構想されていた翼や機体の再設計バージョンがあるが、その中には「合成木材を用いた高速爆撃機」というデ・ハビランド社の提出した試案があった。
海上輸送路はまずもって維持されておりジュラルミンなどは米国の供給がある。そんな中でわざわざ技術的に困難と思われた「樹脂を浸透させた合成木材」で機体のほとんどを作る代用機に労力を割くべきだと思われなかったのである。


・・・バトルオブブリテンは日英の勝利に終わりつつあった。
しかし、その直後から中国大陸における奉天政府軍の動向を巡り日米対立は激化。
外交戦略の一環としてアメリカは英国に圧力をかけ、ジュラルミンや石油製品の取引停止すらちらつかせ彼らを「脅迫」しはじめる。
そんな矢先に宰相チャーチルが被爆し死亡。これにより、英国は米国側にたって日本と距離をとり、ドイツとの休戦条約に調印するに至る。
こうして生まれた「ドーヴァーの休戦期間」に入り、英国はまずは本土南部の防衛網の再構築を進めつつ、空軍の再建に着手した。

何しろ大戦初期の戦いで空軍戦力は決定的に消耗しつくしており、大型戦略爆撃機など、実質的な稼働機が100機を割り込むほどになっていたのだから。
また、不満を表明する日本をなだめるために行われたカナリア諸島割譲により英国は新たに潜在的な敵をこの場に抱えるという戦略状況に至った。
また、もしもドイツと想定以上に早く干戈を交えることになった場合(英国人はドイツ人と必ず戦うつもりだったが)に英本土が陥落する可能性もなくはない。
そうなった場合に行われるだろうアイスランド経由でのカナダ方面への脱出と、対独戦の継続をも想定し、英国空軍は「爆撃王」と呼ばれるハリス将軍のもとで戦略爆撃隊の編成に着手していた。
505. ひゅうが 2011/10/30(日) 11:03:51
その際に問題になったのは、護衛戦闘機であった。
何しろバトルオブブリテンでドイツ空軍の消耗を誘ったのは、長距離航続能力を持たないドイツ側の戦闘機を迎撃戦闘機でさんざんにたたきのめし、丸裸の爆撃隊を食らっていったからなのだ。
逆の立場になるとは考えるだに恐ろしい。
英空軍はアメリカ陸軍航空隊の「コンバットボックス」戦術を導入して密集編隊の防空火器を有効活用する方法を考えつつあったが、それでも護衛戦闘機がいるかいないかでは雲泥の差だった。

が、救国の戦闘機たるスピットファイアは、瞬発力こそあるものの長距離護衛戦闘機としては失格といえる航続距離しか持っていない。
かといっても単発機にもかかわらず長距離を飛行できる戦闘機は今だ開発途上であり、大量のジュラルミンを要する爆撃機の量産により長距離戦闘機の生産ラインも、資源もまた不足をきたしつつあった。
ゆえに、表題に「戦闘機としてもある程度は使用できる」という宣伝文句のついたデ・ハビランド社のデスクの上に放置されていた木製の長距離爆撃機案に再び光があたった。1941年10月のことだった。
エンジンがスピットファイアのそれと同じマーリンエンジンなのも高評価だった。
こうして開発が開始されたこの設計案は、まずは爆撃機としての完成をみる。
が、1942年6月に行われた飛行試験は、まずもって空軍の失望を買っただけだった。
爆撃機として装備されていた防御火器と人員は、この爆撃機をドイツの「駆逐戦闘機」以下の代物へおとしめてしまっていたのであった。
しかし、デ・ハビランド社はあきらめなかった。なぜなら、すでにスーパーマリン社が長距離護衛戦闘機として主翼を再設計し、空気抵抗を我慢して2つの超大型増槽を積んだスピットファイアの改良型を提案しており、空軍はそちらへ傾きかけていたためだった。

ここで再びの転機が訪れる。1942年8月16日。大西洋大津波である。
この大津波により英国南部は米国東岸ほどではないものの甚大な被害を被り、中でもスーパーマリン社のロンドン近郊の組み立て工場群と試作機が一気に失われてしまったのだ。
幸いにもエンジン供給元のロールスロイス社は健在であったが、米国東岸工業力の実質的な消滅と対日戦へのシフトにより英国へのジュラルミンなどの供給は落ち込みつつあり、英国はバトルオブブリテン以上の苦境に立たされていた。
(本土決戦の危機がこれ以上高まったことはない、と当時のハリファックス首相はのちにじめとした新兵器が配備されたのもこの状況に由来する)

英国は、限られた資源を有効活用すべく戦時統制委員会による軍需計画への大ナタ(クロムウェルと仮称されていた戦車の配備中止やマチルダ戦車の榴弾砲併用可能化など)の一環として、新型航空機開発計画も大幅な整理縮小を行っていた。
具体的には、アルバコア攻撃機の配備中止やブラックバーン・ロックなどの性能に疑問符がついた機体の速やかな解役と多用途への資材の転用である。
しかし、アジア大陸や太平洋で圧倒的な成果を上げつつある日本陸海軍にならい、遠距離攻撃能力は最優先で整備が継続されていた。
このあたりが英国の底力だといえよう。
506. ひゅうが 2011/10/30(日) 11:04:32
そして、新たに設計主任に抜擢されたロナルド・ビショップ技師と、現在では文学者として有名な特殊兵器開発局長ネビル・シュート技師の手により画期的な決断が下された。

「軍が欲しているのは、中途半端な爆撃機ではない。高速かつ長距離を飛行できる戦闘機である。したがって、2トン近い爆弾の搭載や防御火器、装甲などの無茶な仕様はこれを撤廃する。」

当時の英国機は、ほぼ例外なく戦闘機に爆弾を搭載しており、この「戦闘機的な爆撃機」においては1.76トンの爆弾搭載が要求されていた。
これを思い切って無視することになったのである。

ここで、連日の徹夜に加え空軍当局からの嫌味や無茶な配備スケジュールにストレスをためつづけていた技術者陣(彼らは各地の工場で陣頭指揮をとりながら設計を行うという過労死寸前の状況にあった)は吹っ切れた。
防御火器はすべて撤去。
爆撃機のような対空弾幕を張ることを考えずに、戦闘機のように機首や翼に機関砲を搭載することにした。

また、木製機であるために無理やり追加されていた「ランカスター」なみの装甲についてはコクピットまわりをのぞきすべて撤去された。
機体も徹底してスリム化され、木製機はその軽量を最大限に生かす美しく空気抵抗の少ない曲面に仕上げられていった。
武装については、思い切って強化がはかられていた。
従来の12.7ミリと7.7ミリの大量搭載ではなく、日本製の20ミリ機関砲4門が装備されたのだ。マウザー・ジャパン社と日本製鋼のタッグが作り出した「第2次大戦最高の航空機関銃」は優れた弾道特性で敵の戦闘機はもちろん当時のドイツの中型爆撃機ならすぐに撃墜できた。
また、もとが爆撃機である本機は搭載量も大きく、通常の戦闘機のように20ミリ機関砲の弾切れを気にすることもないほど大量の機銃弾を搭載できた。

これらの改正に加え、日本製の強化された紙を利用した大型増加燃料タンクを併用したこの新型機は、突貫作業の末に1942年12月に再び初飛行。
クリスマス休暇を潰した不眠不休の努力の末に毎時660キロあまりの高速を実現し、増加燃料タンクつきでは3800キロにまで達する長大な航続距離を持ち、さらには軽量かつ高い運動性能のこの機体は、英国空軍当局を驚喜させた。
デ・ハヴィラント社は、皮肉をこめてこう命名した。「モスキート」。これは、爆撃機時代に空軍の将官が「こんな木の爆撃機を撃ち落とすなど蚊を叩くよりも簡単だ」といったことに由来しているという。

こうして実用化にこぎつけた本機は、皮肉なことに爆弾搭載量を制限したがために爆撃機としての能力も高く、「戦闘爆撃機」としての運用も可能だった。
とくに、ハワイ沖海戦以後は日本海軍のそれを導入したロケット弾も搭載され、対地攻撃機としても非常に重宝されることとなる。
まさに万能機といった発達を「モスキート」は遂げていくことになる。

ことに北米大陸では、カリブ海や米本土沿岸ではしばしば武装した各地の州軍や合衆国海軍の残存艦隊相手に対艦攻撃を行うかたわらで、派遣された戦略爆撃隊に随伴しデトロイトやニューヨークの「焼却空襲」を行い、また機甲部隊への対地攻撃や電子偵察を行うなど、その様子を見た日本のハインケル技師が「これぞ軍馬である」と感嘆し、英国の珍兵器に辛辣な批評を惜しまない当の英国人自身も「英国面が生み出した奇跡」として「ドレッドノート」などと並んで紹介しという逸話が残っている。

本機をもとに、英国空軍は北米などの陸上で用いることを想定した対地戦闘攻撃機と呼べる機体群を開発し、北米総軍などで使用することになる。




――なお、本機は戦後の航空ショーでも本機はその姿を見せ、英国初のアクロバットチーム「ブルーエンジェルズ」の所属機としても「スピットファイア」と並んで有名である。
現在はカナダやオーストラリアなどの英連邦諸国の博物館で保存され、そのうちいくつかは動態で往年の飛行機ファンたちを楽しませている。
507. ひゅうが 2011/10/30(日) 11:06:06
あとがき

モスキート好きなんで、出してみました。作中で見えないのが悲しいためあれこれ理由付けをしてみました。

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最終更新:2011年12月30日 21:51