768 :ヒナヒナ:2012/01/30(月) 01:09:20
○メキシコに陽は落ちて


―195×年 中南米メヒカリ


そこはかつて貧しいながらも賑わった街であった。
しかし、今は吹けば飛ぶようなバラックが広がるばかり。
カリフォルニア側から厳重に管理された国境を南に超えるとそんな景色が広がる。
前大戦後、メキシコ系難民とカリフォルニア国境警備のいさかいが絶えず、
今ではこの地域が緩衝地帯として機能している。
こんなところに留まっていては命がいくつあっても足りない。
それでも、ここに留まるのは難民として行き場のない者や犯罪者などだった。

かつては交通の要所であった国道を車で行くと程なくして、旧市街の中心地にでる。
ここだけはバラックがない。
鳥などの野生動物の鳴き声がやけに大きく聞こえ、何処かに迷い込んだようだ。
簡易増設した建物が広場を囲うように配置されている。
広場の真ん中には大きな墓石の様なモニュメント。
ここはかつて世界で初めて原子爆弾が実践で使われた地、その爆心地だ。
現地の人間も殆どここには近づかない。
「ホウシャノウ」という名の呪いで、おかしくなってしまうと信じているのだ。

車から降りたのは60代の男性と、護衛か何かのような立ち振る舞いをする連れの男一人。
年老いたながらも背筋を立てて歩く男の手には花束。
そして、モニュメントの前に花束を置き一歩下がると、手を合わせて頭を垂れた。


「ここに来るのに10年以上も経ってしまった。許してくれとはとても言えないが……。
この惨事に関わった当事者の一人として、死者のために祈るくらいは許してほしい。」


そう言って原爆投下作戦の指揮を執った大西 瀧治郎は、
暫くその場で黙祷し続けた。


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769 :ヒナヒナ:2012/01/30(月) 01:09:56

このモニュメントを作ったのは日本政府だった。

1943年、メキシコに原爆が落ちた後、混乱が収まって直ぐに、
日本は科学者と医師の混成分析チームをメヒカリの地に送り込んだ。
(防護服は可能な限り厳重にしたし、規定の放射線量を超える被ばくは避ける様にした)
黄色いだぶだぶの前身スーツと頭部全体を覆うガスマスクの様な姿。背中には日の丸が付いている。
銃器を持って周囲を警戒する同様の格好をした陸軍兵士もいる。
彼らはメヒカリの住民(生き残り)に恐怖を持って受け入れられた。

夢幻会が戦後恐れたのは際限のない核拡散競争と、核を万能とする国内世論だった。
そのために、この世界では未だに知られていない放射能の恐怖を調査し、
事実に基づいたレポートを世界各国に発信することにした。

自分たちでその破壊力をプロデュースし、自分たちで蓋を閉めるという、
真実を知る者にとって失笑ものの出来レースだった。

メヒカリで暫く医療行為と研究を続け、各国にデータを配信していく。
もちろん、メインは放射線障害についてだ。
資料撮影用として持ち込まれたカラー写真機で、総天然色の画像を取る。
それは常人ならば目をそむけたくなるような写真だった。
あまりにひどい写真を除いて日本は原爆による放射線障害の例として、発表した。
そして、各国のトップだけでなく民衆が、核兵器がどんなものかを知ることができるようにした。

メヒカリの住民の間では、ホウシャノウに焼かれると呪いを受けて死んでしまう。
メヒカリの中心部(日本の簡易研究所があり、特に重篤な症状の者が収容された)に
行くとホウシャノウに呪われるなどとして、貧民や難民すら近づかなくなった。
研究データも集まり、重篤な患者が居なくなった(死んだか、奇跡的に助かったか)ころ、
日本は彼らの役目は終わったとして、撤退を命じた。
そして、引き払う時に街の中央広場に犠牲者を弔う言葉を記した石碑を建てた。

この様な活動をする一方で、
日本政府はメキシコでの核の使用は人類の生存という面から避けられず、
原爆投下は正しかったという姿勢を崩さなかった。
夢幻会も自国のために最大限考え抜いた結果を、自らを否定する訳にはいかない。
そうして、各国の核兵器開発を牽制し続けた。


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770 :ヒナヒナ:2012/01/30(月) 01:10:59

その中で割を食ってしまう人間というのは、いつの世でも居るものだ。
日本海軍の高級軍人として、軍の作戦を否定できない公の面。
しかし、その指揮を執った者としての自責。
日本調査団が被害の全容を明らかするほどに、
作戦の指揮を執った大西の胸の内に降り積もるものがあった。

大西はその責任感から何度か辞職を申し出たが、作戦指揮官が責任を取ることで、
諸外国に原爆投下が誤りであったという印象が広がることを懸念し、
上層部はその度に彼を説得して思い留めさせた。

鬱屈したものがあったのか、定年になると隠居生活に入ってしまった。
彼は暫く悩んでいた様であったが、やがて家督をすべて長男に譲った後に、
民間人として渡米したのだった。



大西の中ではまだあの作戦は続いていた。
原爆を投下したあの日から、キノコ雲の映像や被害の惨状が忘れられなかった。

これからもこの罪の意識とは付き合っていかなくてはならないが、これで一区切りついた気がする。
メヒカリからカリフォルニアの国境を越えながら、そう大西は思った。

この日、一人の男の戦争が終わった。


(了)

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最終更新:2012年01月30日 22:02