780 :名無し三流:2012/01/31(火) 20:55:32
『無敵日本軍』
『日出ずる国日本』
『帝国、太平洋の覇者へ』
……これらの言葉は日本だけで言われていたものではない。
福建共和国でも言われていたし、華南連邦でも、はたまたベトナムやインドでも言われていた。
日米戦争において日本軍が挙げた勝利のインパクトは、それほどまでに大きかったのである。
これはもちろん、有色人種の国家が白人の国家、それも世界に冠たる超大国に勝利したからだ。
アジアの人々は皆、日本人が思っているよりもずっと日本に注目していたのだ。
提督たちの憂鬱 支援SS ~汪兆銘と華南連邦~
ラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やスバス・チャンドラ・ボース(※1)ら、
日本に亡命していたインド独立運動家(※2)はハワイ沖海戦での日本の大勝利を聞くや、
皆で新宿中村屋に集まって祝杯を挙げたという。
また、インド現地で独立運動を指揮しては度々投獄されていたジャワハルラール・ネルーも、
何度目かの出獄をしてから日本の勝報を聞くと(※3)それを大いに祝福し、日本の勝因を、
『ハイグレードな訓練にハイグレードな武器が加算された相乗効果によるもの』と結論付け、
『インド独立には外圧を防ぐための工業力・軍事力が不可欠』という主張をさらに強めた。
彼らだけでなく、ホー・チ・ミンやヴォー・グエン・ザップ、
スカルノ、スハルトなどの史実の大物たちにも多大な印象を残した。
後にインド及び東南アジア地方の独立運動で活躍した者達の回顧録には、
この日本の勝利によって大いに勇気付けられたという記述が散見される。
781 :名無し三流:2012/01/31(火) 20:56:39
一方で非暴力・不服従運動でその名を知られていたモハンダス・ガンディーは、
アメリカ側のハル・ノートを始めとする圧力に対して軍事力で対抗する道を選んだ日本に一定の理解を示しつつも、
『"目には目を"によって盲目にされない事を願う』『かつてあなた方を追い詰めた者たちを許す"勇気"を持って欲しい』
という主旨の文書、『すべての日本人に』を発表した。
これは自国の軍事力に誇りを持ち始めていた日本人の多くには感傷的な平和主義論のように映ったが、
「粉砕・玉砕・大喝采!!日本軍tsueeeee!!!!」な風潮に辟易し始めていた一部の人々(※4)や、
日本にあまり好戦的になって欲しくないイギリス、ドイツなどその他列強諸国には歓迎されたという。
そして、かつては『眠れる獅子』と呼ばれ、目覚める事なく空中分解した国の末裔たちも、
かつて『倭』と呼んで後進国とみなしてきた日本が異常な速度で強大化するのをしっかりと見ていた。
「なんと無謀な!メキシコはその身体を屠殺人の下に差し出したな……」
メキシコ軍の北米侵入を知らされた汪兆銘は、そう呟いたという。
中華民国(国民党系)の敗北の責任を全て蒋介石に押し付け、
華南地方を民国から分離させることでその政治生命を保った彼は、
同連邦の初代大統領となってこの新しい国の維持に腐心していた。
だからこそ自分達と同じように、まだ一国の政府としては若かった彼らの取った、
まさに暴挙ともいえる最悪の行動には驚きを隠せなかったのだろう。
「太平洋からは『無敵艦隊』が、カリブ海からは欧州連合艦隊が押し寄せています。
かの国は、まあ二週間も持てば奇跡でしょうな。いや、一週間でもいい」
782 :名無し三流:2012/01/31(火) 20:57:41
汪の秘書官も、メキシコが持ちこたえられるとは思っていなかった。
いや、彼らだけでなく、少なくともメキシコを除いた世界中の皆がそう考えていた。
汪兆銘は亡国についての思考をさっさと切り捨てると、華南の問題に取り掛かる。
「徳資(※5)を導入しての国内開発はどうか?」
「順調です。やはり徳資が入ると信用が違いますね……
徳資受け入れの後は、あの日本の有力企業からも出資の申し出がありました。
サトウキビ農園などは大西洋航路をやられたイギリス人に大人気です(※6)。
それはもう募集額より応募額の方が多いくらいで……」
「ほう、英国はもとより日本もか!」
日本企業まで出資を申してでいるという報告に、汪の顔がほころぶ。
「やはり華南に腰を据えたのは正解だったな。
温暖で二期作が可能だからアジアの食料庫役も狙えるし、高価値な商品作物も育てられる。
今まで亜熱帯性気候をこれ程有り難く感じた事は無いぞ」
「いまごろ蒋介石は重慶で歯噛みしているでしょうね。
あの地は野蛮な軍閥連中から隠れるのには悪くありませんが」
汪兆銘が機嫌を良くするので、思わず秘書からも微笑みがこぼれた。
汪兆銘と反蒋グループが国民党から華南地域を持ち逃げした時、
蒋介石は彼らに『漢奸』という史実通りのレッテルを貼って激しく非難したが、
後の国民党の没落によってその言葉は説得力を失った。
華南政府の中に特別優れたカリスマやリーダーシップを持った人間はおらず、
そして華南連邦の経済はイギリスの強い影響下にあったが、それでもこの汪政権は、
「踏んだり蹴ったりの国民党よりかはマシ」「少なくとも安定はしている」
として消極的ながらも国民からの支持を受けていたのだ。
783 :名無し三流:2012/01/31(火) 21:00:20
「だが、まだ安心する事はできないぞ。国家百年の計はまだまだ前途多難だ」
今までの上機嫌な自分を戒めるように汪は表情を改める。
これを見て、秘書は彼が言わんとしている事を察した。
「南部仏印の始末の付け方ですな?」
「ああそうだ。あの地を何とかせねば、対外的にもまずい」
南部仏印でのゴタゴタの鎮圧には、宗主国フランスの兵だけでなく、列強の圧力によって、
華南連邦の兵も出張ってきていた。当初はまだ未熟な軍に実戦経験を積ませるのもいいかと思われたが、
南部仏印という地は未熟な軍隊にはいささか重荷過ぎたのだ。
(負担になるからといってさっさと撤兵してしまえば、英仏が面白くないだろう。我が国の面子もある。
日本はどう出るだろうか?南部仏印に華南あり、とアピールするのは良い事か悪い事か……
下手な行動をして領土欲の塊呼ばわりされては堪らないが、舐められたり空気になるのも困る)
「大統領…………」
秘書は声をかけようとするが、すぐに止めた。
彼は今の汪の思考の裏に隠れた、もう1つの苦悩を感じ取ったのだ。
英国への義理を通すか。日出づる国の元へ馳せ参じるか。
つまりは、国家百年を通しての外交のグランドデザインをどうするか。
華南連邦という新たなる国家を率いていく者の胸中は、艱難と辛苦に満ちていた…………
~ fin ~
784 :名無し三流:2012/01/31(火) 21:07:14
★★★ 注釈 ★★★
(※1)
スバス・チャンドラ・ボースは最初、史実通りソ連に亡命してスターリンにインド独立への協力を求めたが断られた。
その後、彼はナチス政権下のドイツへの亡命を考えたが、ヒトラーが「インドの独立にはあと150年はかかる」
としてインド独立に非協力的だという噂を聞き(この噂の出所は不明だが、日本の諜報機関であるとする説もある)、
また当時のドイツにおいては史実以上に苦しい経済状況から史実以上に白人至上主義が広まっていた事もあり、
ドイツと同じようにソ連と国境を接していた日本へ亡命した。
(※2)
日本はイギリスからの圧力をのらりくらりとかわしつつ、何人かのインド独立運動家の亡命を許していた。
その代わり、外交と治安の問題があるとして彼らの政治的活動をある程度制限していたが、
彼らには日本の政治家や企業家、学者などと会談する機会が何度かあり、
そこで政治・経済のノウハウなどを学んでいた。
(※3)
当時のイギリスはインドにおける情報の流通に極めて注意を払っており、
特にインド独立運動を活気付かせる恐れのある情報は流れるのを止めるのに必死だった。
メディアや手紙は検閲が入るのが当前で、まして刑務所の中にこうした情報が入ってくる事は希であった。
(※4)
戦後の商売を見据え始めていた企業("そろそろ戦争終わらせて勢力圏内にもっと金を廻してくれよ"と言いたい)や、
日本がすぐ軍事力をアテにするようになるのを危惧した人々(外務省が中心、ビッグネームは吉田茂、白洲次郎など)。
(※5)
『徳資』とは、当時福建・華南・インドシナなどで盛んに使われていた用語である。
徳田球一率いる『徳田総合商社』による出資や協賛の事を「徳田が資本を出してくれた」
という事で『徳田資本』と呼ぶようになり、それが略され『徳資』となった。
"徳"の字が転じて、『有徳の人の資本』という意味で使われる事もある。
(※6)
大西洋大津波は、新旧両大陸の沿岸だけでなくそこの海運にも大きな被害を与えていた。
中でもカリブ海や中米、南米、アフリカ植民地というお得意様がやられた西欧諸国の損失は計り知れない。
そのためイギリスは、カリブなどと気候に通じる所がある華南連邦でその穴埋めをしようとしていた。
最終更新:2012年02月01日 04:18