529. ひゅうが 2011/11/03(木) 21:07:41
ネタSS「器は崩れず」


――1944年8月  日本  島根県仁多郡  亀嵩(かめだけ)村

村の駐在である巡査  三木謙一は、村でも評判の人物である。
大正の御代の末にはじまった警察改革で進んだ「オイコラ巡査」からの転換を待つまでもなく、彼は立派な人物であり、また巡査であった。
都市においては改革についていくのに苦労する一版巡査が多かったのだが、この奥出雲の村においてはその風土が彼にあったのだろう。
彼は三森警察署から特に任じられてこの亀嵩村に赴任し、すでに10年近くを過ごしていた。

亀嵩村の住人たちも、岡山県の出である三木巡査を最初こそ敬遠したものの、すぐに打ち解けた。そして彼は信頼に行動で応え、昭和12年の洪水の時におぼれかけた子供を救助したことでその信頼は天井を打ち破られた。

だからこそ、この村の特産であり全国の8割のシェアを誇る算盤業の視察に内務省と大蔵省の官僚が来ると知られ、また彼らが仰々しいことを好まないことを知った村人たちは彼に案内を任せたのだった。

「こちらが、神社ですな。」

「ほう。やはり少名彦ですか。やはり算盤とは関係があるようですね。」

「はぁ、私は学がないもので――」

「駐在さん!」

子供たちが走ってきたのはそのときだった。


――ええ。そうです。恥ずべきことかもしれませんが、その頃の山村にはそういう排他的な風潮が残っていました。
すでに治療法が開発され、克服されていたにも関わらず、病により故郷を追われるということは古来の対処法だったのです。
事実、追い出す空気を作った村人の側も県の保健所から注意をされたそのすぐあとに捜索願を出し、折に触れて探していたのですが・・・
ええ。ええ。40年代末にかけて、遍路のイメージが永遠の放浪者から傷つき、再生を待つ人々へ替わっていった過渡期の出来事といえるでしょうね。
あ、詳しいですか?
父が治療を受けている間に三木さんにいろいろと教えていただきまして。伊福部先生に師事して作曲の勉強をしているうちに何かこう、日本の文化についてもっと知らねばと思ったので・・・
そうですね。結局治癒しても、村には何となく戻り辛いのはかわりません。結核にしろ、父の病にしろ、そういった感じで都市へ出る例が多かったのでしょう。
あ。ですが今は違いますよ。その頃からも少し違ったのかもしれませんね。亀嵩村や、何より三木さんのおかげで私は境遇を嫉まず、今に至れたと思っているんですよ。
こんどの「宿命」の初演にも、両親と三木さんご夫婦を呼ぶことにしています。
はい。はい。ありがとうございました。

      NHK総合  音楽の森  196X年○月×日放送「本浦英男の世界」より――
530. ひゅうが 2011/11/03(木) 21:12:19
あとがき
某松本清張作品より。こんな世界があってもいいんじゃないかな?夢幻会がいるなら。
というわけで投稿。

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最終更新:2011年12月30日 22:34