804 :ひゅうが:2012/02/12(日) 20:17:22

提督たちの憂鬱支援SS――「ある愛妻家について」


――斉藤二郎という男がいる。
日本海軍の軍人としては中堅に位置する人物で、海軍の実戦畑を一貫して歩んできた彼は「条約派で航空派」という時の帝国海軍では異端のような考えを持つ一人だった。
しかしながら、源田実や大西瀧次郎といった航空機さえあれば艦艇はいらないとまで言い切るようなことはせず、水上戦闘艦と航空機の複合運用を考えているあたりは現実主義者だった。

しかし彼を有名にしたのは、ワシントン海軍軍縮会議の予備交渉で大荒れになっている海軍実戦部隊の中で戦艦「陸奥」艦長という顕職にありながらも一定規模の軍縮を主張したことだった。
当然ながら非難が集まったのだが、それも「米国海軍に逆に足枷をはめる」という持論を堂々と主張し押しかけてきた少壮将校を逆に納得させてしまうほどだったという。
そんな彼は、戦間期には堀貞吉中将のもとでのちに日本海軍の基本ドクトリンとなる「空海立体作戦ドクトリン」の構築に力を尽くした。

そのためか、日本海軍の改革を考えていた嶋田繁太郎中将(当時)の目にとまるのは早く、1935年には彼のスタッフとして第1航空戦隊に所属する「天城」の艦長をつとめている。
実戦における彼の最大の功績となるのは、上海事変における嶋田提督の立体攻撃を第1航空戦隊司令として側面支援していること、そして太平洋戦争の開戦劈頭のアメリカ海軍アジア艦隊撃滅においては台湾の基地航空隊を含む南方の航空集団を統括し緻密な哨戒網を構築していることだろう。

しかし実戦畑を歩いていた彼としては残念なことに、開戦以後の斉藤は海軍軍令部第1部長にして中将という階級で書類仕事にいそしむことになっていた。
戦後は軍令部長か海軍大臣をつとめ退役すると思われていたが、小沢機動部隊や古賀GF長官のように赫々たる武勲を得られてはいないという事実は彼の周囲の人々を残念がらせていた。

しかし当の本人はまったく気にしていない。
なぜなら――


「越後。ご飯大盛りで。」

「はい。艦長さん。」

斉藤二郎は愛妻家として有名である。
若いころに出会った現在の妻とは二人とも一目ぼれだったらしく、当時進んでいた見合い話を断固拒否して条約派の士官たちをハラハラさせていた。

見合いを進めてきた伏見宮元帥はその胆力を気に入り、逆に周囲からは嫉妬を買ったのだが彼ら二人にとってはそれはどうでもいいことであった。
戦艦「伊吹」型建造にあたり辣腕を振るった航空派という「使い勝手のいい人材」である斉藤は、仕事が終われば必ず都内の自宅に帰る。

そしてそこにはどんなに遅くとも美しい烏の濡れ羽色の髪と小柄な体を持つ彼の妻が待っている。


「なぁ。幸せか?越後?」

「ええ。艦長さん。」

なお、彼の妻の名前とは違う「越後」という愛称の由来はこれまで誰も知ることができていない。

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最終更新:2012年02月13日 21:29