537. ひゅうが 2011/11/06(日) 20:59:18
提督たちの憂鬱支援SS――東北航空小史2〜「富嶽」ノースロップ案〜

――1940年8月  日本帝国  岩手県盛岡市  (株)ノースロップ飛行機  盛岡本社

「本当か!?清水博士!」

「はい社長。やりました。試験飛行中、ヨーは73パーセント減。ロールはほとんどゼロに近くなっています。使えますよ自動空戦、おっと自動制御フラップは!」

盛岡の岩手県庁の次に高い(株)ノースロップ飛行機社長  ジャック・ノースロップはうれしそうに何度も頷いていた。
まだ若い技術者、清水三郎技師が持ってきた報告は、それほどまでに彼を喜ばせていたのだ。

あの大恐慌の中、ユナイテッドエアクラフトから分離という名の放逐を受けたノースロップはカリフォルニアからこの極東の地へと移転した。
とはいっても彼と百数十人の科学者や技術者が移ってきただけで、規模としてはマンチュリアで奉天軍閥相手に盛業中のライト社などとは雲泥の差だ。
ノースロップをそこまで駆り立てたのは、彼が抱く夢が理由だった。

「機体のすべてが巨大な『翼』でできた『全翼機』を作りたい」

普通の飛行機は、胴体があってその側面から翼が突き出ており後部には水平尾翼と垂直尾翼を持っている。
だが、飛ぶのに必要なのは極論すれば翼と推進力だけだ。
物資を積み込み、操縦する空間としての胴体と、水平尾翼は翼に統合できる。
安定板である垂直尾翼も、別に一枚だけでいなければならないわけではないのだ。
エンジンが非力で、空気抵抗を気にして極力翼を薄くしていた昔はともかく、今は1000馬力を超えるエンジンが実用化されており、また胴体のように側面で空気の摩擦と抵抗を増大させるものは巨大な翼の中にしまい込める。
その方が燃料タンクや物資搭載の区画を多くとれるではないか。

それがノースロップの主張だった。
彼はこうした「全翼機マニア」として世界的に有名であり、また「普通の」航空機を作らせても傑作を次々に生み出していた。
そんな彼を慕ってか、新天地である盛岡に居を構えた彼のもとには様々な技師たち――主に帝大出ではない技師たちが集結していたのだった。


「エンジンは、倉崎や三菱がライセンス生産をはじめたマーリンもある。これでいよいよ実機製作にとりかかれるな!」

ノースロップの鼻息は荒い。
友であり、ライバルである倉崎重蔵の引き立てもあって、現在最悪の状態にある日米関係下でも  ノースロップ社は機体の自動安定装置などの発注を取り付け続けている。
羽田から大泊、旅順、沖縄、そして台北を経由したシンガポール線などを結ぶ遠距離航空会社として開業した「日本国際航空」からはダグラス社のDC−4大型旅客機に競り勝って70機の大量発注を勝ち取り、それを契機に国内線各社や軍からも輸送機を発注されるようになった。
だが、まだまだ理想の全翼機の実現は遠い。

全翼機の大きな問題として、水平尾翼という安定版を廃止したために起きた左右のふらつきがある。
もともと水平尾翼は、主翼が受ける風の変化によるふらつきを押さえ、なおかつ上下左右の方向転換の補助に使用されている。
理論的には統合はできるが、風向きの変化や姿勢変化に瞬時に対応しフラップ(動翼)の角度を微調整しないとどうしても機体は安定飛行ができなくなってしまうのだ。


「社長。さては発注がありましたか?」

「うん。大本営から三菱、倉崎、我が社、立川など7社に試作の内示があった。目標航続距離は8000キロ以上。いよいよ作れるぞ。本格的な大型全翼機が。」


それを清水は解決した。ドイツが先の大戦中に開発した砲身の自動安定装置を応用し、水銀管を利用し自機の対気速度にあわせて最適な角度にフラップを維持する「自動空戦フラップ」を作り上げたのだ。
もともとは、戦闘機の旋回時に操縦桿を倒す角度と速度とを勘案し最も小さい半径で旋回ができるように開発されたこの装置は、全翼機の安定に大きな役割を果たしたのだ。
三沢基地で行われた実験機の試験飛行は満足すべき結果を出した。

ここに至り、ノースロップは会社回転のために維持していた自重を止め、理想の全翼機の開発を決断したのだ。

――ノースロップ飛行機は、陰で次のような異名をとる。
「本気になれば倉崎以上のマッド」と。かくして、数種類が試作された「富嶽」計画の中でもっとも独創的な機体は誕生したのだった。


【あとがき】設定スレで投下された富嶽案に感動したのでその誕生物語をば。採用されるかどうかは――ノーコメントでw

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最終更新:2011年12月30日 22:32