563. ひゅうが 2011/11/11(金) 21:37:38
提督たちの憂鬱支援SS――バラックのベートーベン(1917−1943)

――西暦1943年  ドイツ  ベルリン

外務省極東課  課長補佐であるエドアルド・ライポルトは、緊張の面持ちで新総統官邸を歩いていた。
外観は質素で、まるで古代ローマのフォルム(フォーラム)を思わせる総統官邸の中は、意外なほど色彩に満ちている。
とはいってもベルサイユ宮殿のような金銀により作り出されたものではなく、どちらかというと彼が生まれ育ったコーブルグ市のゴシック聖堂のような光の美しさだ。
コンクリート製の柱は、内部では木目調の板でおおわれており、黒檀色のニスで覆われている。
絨毯は濃いえんじ色で、床は絨毯の周りだけ大理石が覆い、あとは英国のカフェのようなニス塗りの大きな板を何枚も貼り合わせていた。

なるほど、総統閣下が建築に一家言持っておられるのがわかる。
外観は質素にしつつも中は落ち着きのある雰囲気で固め、くつろがせる。そしてそれらの対比として総統閣下の偉大さが際立つというわけだ。

ボディチェックを行ったSS隊員は規則に忠実ではあるがいかめしすぎなかった。
どうやら閣下がお変わりになられたというのは本当らしい。


案内の女性SS隊員がにこやかに「こちらです」とライポルトを案内した。
50代半ばにさしかかったライポルトは、年齢の割に若く見られる顔に微笑を浮かべて「ありがとう」と言った。

女性SS隊員は戸惑ったようだった。
ライポルトのこの習慣は、彼が一時期東洋にいた時に身に付けたもので、この人当たりの良さ的なものが彼の政治的信条の割には同僚や上司の受けがいいことに関係していた。


「失礼します。」

ノックをし、高さ3メートルほどの大きな扉――表面には装飾はなく、持ち手も磨き上げられた銀色のステンレスだった――を開けると、「彼」がそこにいた。
難しい顔をし、執務机に座っていたが、ライポルトを見ると少しだけ顔を緩め、秘書に紅茶とチョコレートを用意するようにいってからライポルトのもとへ歩いてきた。

「勝利万歳(ジーク・ハイル)!お呼びによりまかり越しました。我が総統閣下(マイン・フューラー)!」

アドルフ・ヒトラーは、仕立てのいい背広で答礼した。


「よく来てくれた。ライポルトくん。」

彼は、疲れているようだった。

「話はゲッベルスから聞いている。だが、にわかには信じられんのだよ。正直なところは。」

彼はちらりとライポルトが佩用している一級鉄十字章を見た。
時折とげとげしい「気」が漏れそうになるが、彼が抑えているのがよく分かる。
総統閣下は、自分を第1次大戦で戦った「戦友」として扱ってくれているのだ。

場所は西部戦線と青島という違いはあるが、彼は勇気を示した者には寛大であるという。
だからこそ、ライポルトは選ばれてここへ来たのだ。

「では、話してくれんか?なに。時間はある。将軍たちには悪いがね。」

椅子を勧められたライポルトは素直に腰かけ、紅茶でのどを潤した。
英独休戦が成立してから入ってくるようになったインド産の良質な茶葉だった。

「はい。閣下。私は――」

ライポルトは話しはじめた。
時は、今から29年前。第1次世界大戦において、本国から最も遠いあの極東の地における話である。
564. ひゅうが 2011/11/11(金) 21:38:19
――1917年7月  日本帝国  徳島県坂東町

ライポルトは、粉を捏ねていた。
ノルトゼァ・ラント・・・ホッカイドウというところで作られた小麦は質がよく、故郷のそれと同様だった。
それがライポルトにとっては嬉しい。
かつて青島(チンタオ)では、本国産の小麦は値段が張るうえにはるばるスエズやシンガポールを越えてくるためにどうしても質が悪くなりがちだった。

が、この極東の地で栽培されていた小麦は、ドイツ産やフランス産のそれを品種改良したものだそうで、質もいいが値段も安い。
ライポルトのパンの師匠であるハインリヒがはじめて捏ねた時は、その焼きあがりに故郷を思い出し涙が出たという。

このバンドウの地でとれたミルクとバターを混ぜ込み、瀬戸内海の塩田で作られた「ハカタの塩」とやらを混ぜる。
味のアクセントにはクミンなどのスパイスを少々。
そして、オオシマ石という石でつくった窯で一気に焼き上げる。
急がなければ。今日もみんなが待っている。



「おお!来た来た!」

「ライポルトさーん!はやくはやく!」

「ハイハイ。今行きますよ!」

3台を連結した台車を連ね、監視役としている兵士にあいさつしつつ外出許可証を提示したライポルトは、石畳の上をごろごろと押していく。
そして、通いなれたあの場所の前で止まると、白いテーブルクロスが敷かれた机の前に座っているナカムラ中尉に敬礼した。

ライポルトは、試食官用のパン切りナイフと皿を容易して、ナカムラ中尉に差し出す。
その向こうでは、地元や、はるばる県庁所在地や遠方のエヒメやカガワから来たという人々が列をなしている。

ナカムラ中尉は一瞬だけ顔をほころばせると咳払いをして、無作為に選んだ四角い20センチ四方ほどのパンを取り出し、ちぎって頬張る。

「ヨシ!」

ライポルトはすかさず持ってきていたカード(ドイツ語でカルテといっていたらまぎらわしいとのことなのでカードと呼んでいる)を差し出す。
ナカムラ中尉は、ゴム印というインクが中に入ったスタンプを四角い升目の中に押した。

ライポルトは、にっこり笑って、営門の外にある「店」に、本日3回目のドイツパン580個を搬入することができた。



見知った人々とあいさつしつつ、ライポルトは思う。
このバンドウ俘虜収容所は何もかもが規格外だ。
所長のマツエ大佐やその上の方針で、外出はほぼ自由。兵士たちは士官の監督のもとではあるが、おのおの課業や趣味などを行っている。

中でも人気なのが、こうして自分たちが見知ったパンやバター、ジャムなど、思い思いのものを作って売ることだ。
これは大あたりで、それまでは学校や周辺の人々に音楽や体操を教えていた人々のように技能をあまり持っていない人々がはじめた「ドイツ屋」は今ではこの四国という島で一番有名なパン屋になっている。
売上げは3割ほどが収容所運営費にあてられているが、それらのほとんどが作業を行っていた自分たちの給料として郵便貯金の口座に振り込まれ、それらの使い道はほぼ自由。

ライポルトは、それらを使ってイタリア産の楽器をそろえようという取り組みに向けお金を積み立てている。

「おやライポルトさん。今日もせいが出ますね!」

「ああ、マツモト屋の。どうも今日は!」

パンの搬入を終えて一息ついた彼に声をかけてきたのは、
彼がいろいろお世話になっている旅館  松本屋のご主人だった。

「ところで、お国のことだけれど・・・」

ライポルトの顔が少し曇った。
現在祖国は、東部戦線から引き抜いた戦力を用いて全力を挙げての大攻勢をかけている。
先鋒はパリ前面に迫りつつあり、激戦が続いているとの話だ。
日本は欧州に2個師団と支援部隊、それに2個艦隊を派遣しているため、いろいろ思うところがある人も多いと思う。

「いろいろ言う人もいるだろうけれど、お気をしっかり持ってね。ワシらをはじめみんな、あんたたちドイツさんらが優しい人だって知ってるから。」

「ありがとうございます。ですが――それではあなたがたが・・・」

このバンドウの地に来て以来上達した日本語。それに特有の語尾の省略がライポルトにはありがたい。
565. ひゅうが 2011/11/11(金) 21:39:08
「いろいろ言ってた人もいたがね。でも、天長節や開戦の日に『すべての戦死した勇士たちに』って黙祷をやったろ?それでね。」

ライポルトが聞いたのは以下のような話だった。
昨年のユトランド沖海戦後、一部の新聞がこの坂東の捕虜たちを皆殺しにすべきという社説をぶち上げた。
それに乗っかった調子のいい議員たちに、この国のトップにあたる方が激怒されたらしい。
それは、「お言葉」という形で発表され、「それは文明人、日本人のすることに非ず」と厳しく戒められた。
そこへ、西部戦線で繰り返される戦いのたびに双方の戦死者を悼むために収容所の皆で黙祷を捧げていること、そして、遺族への支援のためにドイツ人俘虜たちが率先して立ちあがり基金を設けていることなどが、現在の収容所が行っている活動などとともに紹介され、日本人らには少なくともドイツ本国はともかく俘虜たちには寛大であるべきとの風潮が生まれていたというものだった。

「ま、そういうのがあっても跳ねっ返りはいるからね。気にしてないか心配でネェ。」

ライポルトは、何かを抑えるように、にっこり笑った。

「大丈夫ですよ。」

そして続ける。

「ああ。今年の大晦日を楽しみにしていてください。ちょっと楽しいことを企画しているんです。」

やっぱり、この国の人たちを、私は好きだ。





再び――1943年  ベルリン


「なるほどな。」

ヒトラーは何度も確かめるように頷いた。

「我が帝国に、潜在的な親日層がいるということは聞いていた。だが、その理由を知ろうとはしなかったのは余の失策であったな。」

だが。とヒトラーが続ける。

「君の思い出に水を差すようで悪いが、あの東洋人たちは我々から文化や技術などを奪い取るためにわざといい顔をしていただけではないのかね?」

「お言葉ですが、閣下。」

ライポルトは、今こそ言おうと思っていた言葉をぶつけた。

「あのフランス人や英国人のように、彼らは『賠償』や『戦利品』という形で領土や工場を奪い取りましたか?ザール、ラインラント、それらのように。少なくとも彼らは、崩壊の危機にあったかつてのドイツ工業界に対し対価を払っております。あの世界恐慌の際も、総統閣下の施策までクルップやラインメタル、モーゼルなどを生き長らえさせたのは、あの極東の島国の資金でありました。」

ヒトラーは仏頂面でライポルトを見つめている。
まるで吸い込まれそうな瞳だった。

「閣下には、これをお聞きいただきたい。」

ライポルトは、持参したレコードを差し出した。

「閣下は音楽についてお詳しいとか。知っての通り、音楽というのは技術だけ真似しても、音はついてきません。真に偉大な精神の輝きがあってこそ、かのフルトヴェングラー氏とベルリン・フィルのような名演は生まれるのです。」

ヒトラーは黙ったままだが、やがて、首だけでライポルトを促した。
ライポルトは、壁際のレコードプレイヤーに「BANDOH  1917―」と書かれたレコードを置いた。
566. ひゅうが 2011/11/11(金) 21:39:52
「スピーカー用のアンプの電源を入れたまえ。」

ヒトラーが言った。

「聞くなら大音響で。そのために執務室は防音にしているのだ。」

ライポルトは頷いた。


――おお、友よ、このような調べではない!

バリトンの張りのある声が響く。
歌っているのは、あの日のライポルトの同僚だったラインハルト卿だ。
飛行機の操縦ができ、また声楽が趣味という男だった。
青島ではライポルトの臨時騎兵隊とともに活躍したものだった。
今は陸軍で戦車に乗っているらしい。

録音状態は普通だったが、総統官邸の特注アンプとスピーカーはあの日の音をこの場に再現していた。

1917年12月31日、その日は、極東の島国ではじめてベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」が初演された日だった。
収容所にいた5000人あまりと、周辺から集まった4000人以上を相手に、日本人とドイツ人の混成軍は半年の練習を経て整えた「第9」を披露したのだった。

マツエ所長が上に頼んで取り寄せたレコードは、はじめて演奏する日本人たちに大いに参考になり、軍楽隊の長にして指揮者であるヨッヘンバッハ大佐も驚くほどの上達を見せたことをライポルトは昨日のことのように思い出していた。

――ひとりの友の友となるという大きな成功を勝ち取った者、心やさしき妻を得た者は彼の歓喜に声をあわせよ

「これは、日本の女性か?」

「はい。収容所の士官たちの奥さん方がバンドウやトクシマの奥さん方を呼んで合唱団を結成しました。」

「この、後ろでなっているベルは?」

「オオミソカのジョヤの鐘です。年の瀬にあわせ、人間が持っている108のボンノウ・・・我々風にいえば原罪の贖罪を願って108の鐘を打ち鳴らす儀式です。これが鳴り始めたということは、新年が近いということですね。」

浴びせられる質問にライポルトは答えながら、あの小さな町の名物だった寺院を思い出す。
四国をまわる巡礼についてもライポルトは説明した。


――抱き合おう、諸人よ!この口づけを全世界に!兄弟よ、この星空の上に必ずや神は住みたもう!

「・・・これは。」

「歌っているのです。観客たちと捕虜たちが。」

ライポルトは言った。
練習を重ねていた旅館を通じて第9の歌詞はいつの間にか知れ渡り、小学校の音楽の授業でも歌われるようになっていた。
基本的にはミーハーである日本人たちは、いつのまにやらドイツ語の原詩を入手し、いささか怪しい発音ながらも歌うようになっていたのだ。

噂は千里をかけ、集まってきた音楽好きながらも教わる教師のいなかった日本人たちや、日本の留守師団の軍楽隊までもが集結。
気がついたときには演奏者と合唱の数は1000人に迫っていた。

間奏を経て、最後の合唱に入る頃には、観客と捕虜たち、5000人以上の大合唱が地には満ちていた。

そして、最後。

一瞬の静寂を経て、喝采がアンプを通じて再現されている。

『皆さん。今日は、この会に集まってくださってありがとうございました!青島のドイツ人の代表として、心よりお礼を言わせてください。』

スピーカーの向こうでは、青島民政長官であるオットー・ギュンターの挨拶が響いている。

『不幸にしてお国とわがドイツは交戦状態となっておりますが、先の合唱で私は確信しました。歌詞にもありましたように、歌と音楽を共にした私たちは今や友となりました。
美しい音楽で魂を分かち合ったことに、神に感謝します。』
567. ひゅうが 2011/11/11(金) 21:42:30
日本語の通訳を通じ、懐かしいマツエ所長がギュンター長官の言葉を話すと、拍手が巻き起こる。

『では、みなさん。みなさんもよく知った「敵国」の歌ですが、それぞれの言葉で歌いつつ、新年を迎えましょう。』

しばし間を置き、「蛍の光」と日本では訳されているあの歌が流れる。
先ほどよりはしっとりしながら、より多い人々の声が混じっている様子だった。

――蛍の光  窓の雪  文読む月日重ねつつ・・・

3番にあわせ、日本人は自国の山河を歌い、続いて4番ではドイツ人用に特別に作られた歌詞でマースからメーメルにかけての国土を歌いあげていった。


『それではみなさん、今年がよい年となりますように!』

今まで以上に盛大な拍手で、レコードは幕を閉じた。


「以来、30年近く。私たちはあのバンドウの人々たちと交流をしております。また、あの日演奏を行った人々は毎年の年末に演奏会を行い、今ではラジオやテレビジョンでも中継が・・・」

そこまで言ったところで、ライポルトは気付いた。
ヒトラーが俯いている。
心なしか、目に光るものがあるようで――


「ありがとう。ライポルトくん。」

ヒトラーは言った。

「また、ゲッベルスが邪魔するかもしれないが、すまないが付き合ってやってくれないかね?」

「はい。勿論。」

「それと、ひとつ教えてくれないか?」

ヒトラーは顔を上げた。

「私は、友となれるかもしれない国を――」

「閣下。」

ライポルトは言った。

「これから、友になるとお思い下さい。」


――1943年、ドイツでひとつの映画が公開された。
その名を「バラックのベートーベン」。第1次世界大戦中に極東で起こった実話をもとにした映画は、ドイツ国内で「荒野の7人」以来の大反響を巻き起こした。
その中では、バンドウ捕虜収容所の物語を回想する形でそれ以後にとっても時間がとられ、ドイツ企業を買収し再建に力を貸そうとする日本人に対し不満をぶつけてゆくドイツ人と、それに苦悩する総統の姿も描写されている。
クライマックスは、総統官邸でかけられたレコードのメロディーと一緒に「バンドウのジルベスターコンサート」が流れるところだった。
末尾には、民政長官オットー・ギュンターによる挨拶。
これらの音源は、ゲッベルスの手によって徹底的に音響調整が成され、日本のニュース映画の映像とドイツのエキストラを合成した「コンサート」の映像とともに収録された。

ドイツ人によるステレオタイプなエコノミックビーストへの印象が多少なりとも変わりはじめるのは、これ以後である。



【あとがき】――ゲッベルスが「バルトの楽園(がくえん)」を撮りはじめたようです。
関係修復を模索するドイツだと、「荒野の7人」のような感じで映画をとるんじゃないかなと。
それに実話ですから都合がいいw
ちなみに憂鬱世界では史実に先駆けて松江所長に全部丸投げしたのでこうなったと妄想しました。

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最終更新:2011年12月30日 23:19