574. 辺境人 ◆WvgPQuc/WQ 2011/11/13(日) 22:01:34
  世の中に、兵法の道をならひても、
  実の時の役にはたつまじきと思ふ心あるべし

  其儀に於ては、何時にても、役にたつやうに稽古し、
  万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、

  是兵法の実の道也

                        《宮本武蔵》


<提督たちの憂鬱  支援SS「武術バカ数代」>

  1941年  神奈川県丹沢山地

  神奈川県の6分の1の面積を持つ広大な山地には国有地として関係者以外立ち入り禁止の場所があった。
  敷地の入り口には陸軍丹沢学校という看板がかかっているがその敷地は丹沢山中にまで及ぶ広大なものであり、オリンピック選手の養成や効率的なトレーニング理論の構築や運動データの取得など運動学の研究も行っている史実の自衛隊体育学校のような一面も持つが、その広大な敷地には市外戦訓練用の建物など複数の訓練施設が建造され、多くの兵たちが日夜訓練を重ねている。熱戦教の本拠地である海南島、冬戦教の本拠地であるカムチャッカと並び本土における特殊部隊の本拠地こそがこの丹沢学校であった。


  そしてその広大な訓練場の一角に墨痕も鮮やかに<練武館>と書かれた看板がかけられた古風なつくりの建物がある。

  そこでは中国拳法で行われる套路(とうろ)に似た型の反復練習をひたすら続ける者もいれば重い荷物を背負ってアスレチックのような障害物の多い舗装されていない地面を走る者もいる。だがもっとも目立つのは素手での戦いをしている者たちだった。複数の男達がチームを組み戦っている。2対2、5対5といった同数の組もあれば2対1や3対1といった組もあり、服装も軍服だけや軍服に荷物を背負った状態など様々な姿をする者たちがいたため傍から見ると暴動でも起きているかのようにも見えた。


「いいか!  戦場では卑怯などという言葉はない!  勝つためならば目潰しも不意打ちもありとあらゆる手段が推奨される!  正々堂々などというのは命のかからない試合をやってる連中だけの言葉だ。古来より戦場で必要とされてきた武術の理念は単純明快で「殺せれば良い」、「生き残れば良い」、それだけだ!」

「戦場で素手で戦うような事態はほとんどない。武器がなければ石ころでも砂でも手近にあるものを武器として使うことを考えろ。剣道三倍段というのは俗説ではあるが素手よりも武器を持った方が有利なのは当然のことだ。あくまでも徒手格闘は武器を探したり手に取る余裕の無い時の技術だと理解した上で柔軟に戦い方を組み立てろ。なんであれ武器を持てば相手はその武器に注意を払うので場合によっては武器を見せ金にして素手の攻撃を本命にするやり方も有効だ」

「歩法はあらゆる動作の基本だ。瞬時に間合いをつめる、音を立てずに忍び寄る、体力を消耗しないように歩く、そういった状況に応じた最適な動き方を体得しているだけで大きな利点となる。筋肉がどんな動きをするか理解し、普段から最適な歩き方を意識して行うことで身体に覚えこませろ」


  あちこちで格闘だけでなく講義も平行して行われ、野外だというのに喧騒が耐えない。それは教える方も教わる方も真剣に学ぼうとしているからだけではない。いつ戦場へと出征することになるのかわからないためこの訓練が命を救うかもしれないと文字通り命がかかっているが故の必死さもあったのである。


「戦争になってから訓練生の入れ替わりが激しくなり稽古も殺気立ってきましたなぁ……。いくら誰でも短期間で一定の習得ができるのが軍隊格闘術とはいえじっくりと教え込む余裕がないから手っ取り早く使えそうな技だけを叩き込む、それで戦場で生き残れる確率が少しでも上がれば確かに無駄ではないかもしれませんが武術家としては歪な成長の仕方をしてしまうかもしれんし師範代としては痛し痒しですわ」

「うむ、訓練生の中でももう出征してしまったが船坂君(※1)なんかは若いながら軍が直々に勧誘しただけあって武専(※2)の卒業者でも中々いない才を持っておった。基礎はできとるようだし鍛えればもっと上の段階に進めるじゃろうが惜しいことじゃの……。木村君(※3)もここに残って欲しいが彼を奪ったら講道館だけじゃなく柔道関係者全員に恨まれるかのう。木村君に眼をつけて押しかけ師匠をやっとった前田君(※4)は引退したというのに絶対逃がすなとうるさいし……わしが中村君(※5)という直弟子を持ったので嫉妬しとるんじゃきっと」
575. 辺境人 ◆WvgPQuc/WQ 2011/11/13(日) 22:05:41
  その喧騒を眺める二人の男性がいた。一人は見るからに老境に入っているがその身体は針金のように引き締まっており、もう一人はそれよりは若いもののやはり40近い中年でありその発散する空気は尋常ではない。この二人こそが練武館の重鎮であり老人の名を練武館館長の本部朝基、若い方が師範の国井善弥といった。

  本部朝基は史実において沖縄で琉球王家の血を引く名門の家に生まれ空手(正確にはその前身となった御殿手と呼ばれる琉球王族秘伝の武術)を習い大正時代には50歳を越えて外国人ボクサーを一撃で倒し、60歳を越えて伝説のチャンピオンとして有名な当時現役のフェザー級チャンピオンであるピストン堀口のパンチを全て捌き顔面に寸止めの拳を打ち込み降参させた実戦空手の雄である。

  そして国井善弥も史実において実戦を重んじるあまり他流試合を多く行ったため異端視されたものの当代一の実戦名人として「今武蔵」と呼ばれ史実でも大正時代に陸軍戸山学校で戸山流という立った姿勢から居合いを基本とした抜刀術を軍刀で行う剣術を他の剣術家と共に制定し、戦後にGHQにおいて海兵隊の格闘技教官を相手に試合を行い圧倒的な実力差を見せつけ勝利し、他流試合においても剣でも無手でも常に相手の望む条件で戦い生涯無敗という化け物である。

  この二人の化け物が日本軍の格闘技教官の事実上のトップであるが国井にせよ本部にしろ軍人に格闘技を教える軍属の立場ではあっても軍人ではない。それは軍が求めるのは軍人であって武人ではない、というスタンスを取っているからで武術はあくまでも兵に必要なスキルの一つにすぎないためそれだけに専念する国井たちのような武術家は軍人には向いていないと判断されているからであった。とはいえただでさえ才能のある人間が史実以上にひたすら武術を磨くことだけを許された環境にいるだけあってその力量は凄まじく、夢幻会のとある人物に「あそこだけ夢○獏の世界になってる」と言わしめたのは伊達ではなく練武館も夢幻会が発信源だが<虎の穴>と呼ばれていた。


  ここで教えられる格闘技の源流は明治維新によって衰退した古流武術の集合でもあった。史実では武術が時代遅れとして廃れていき、柔道や剣道のようにスポーツとして順応し生き残った少数の例外を除き多数の流派が絶えていったが夢幻会はこうした武術家に対して救いの手を伸ばした。

  アメリカのマーシャルアーツやロシアのシステマ、イスラエルのクラヴ・マガといった近代になって創設された軍隊格闘術は主に軍隊が戦場で使用するものだけにスポーツでは許されない、むしろ戦場以外では使えない殺人術が複数存在している(護身術として公開されたものもあるが基本は警察や軍隊以外では教えない)。その中でもロシアのシステマの原型となったのはロシア革命前に広まっていた伝統武術でありロシア革命でそうした伝統武術が禁止されたものの白兵戦においてはそれらの技術が有用であると秘密裏に保護されスペツナズなどの特殊部隊で使う武術として体系化された歴史がある。それを知っていた夢幻会メンバーは明治政府に相談して新しい総合武術を創設するという理由から柔術や骨法、空手など様々な流派、中には一般的には忍術と呼ばれる武術の達人たちを秘密裏に招聘し、武士らしい所作の美しさや宗教や特定思想といった実戦とは関係の無い部分などを容赦なく排除し、実戦のみを重視した新しい流派を創設するという仕事が課せられたのである(武術だけでなく江戸時代から続く飛脚たちが一日に百kmを走破したと言われるナンバ走りと呼ばれる現代では失われた長距離走法なども貴重な伝統的な体術の一つとして保護された)。
576. 辺境人 ◆WvgPQuc/WQ 2011/11/13(日) 22:06:30
  先祖代々受け継いできた秘伝を公開して吸収された挙句にダシガラのように流派の存在自体が捨てられるような形の武術家たちも面白くはなかったろうがこのままでは流派自体が途絶えるのも分かっており、なによりもこれまで武士として得ていた禄を失い藩閥政治がまだ強大な時期だけに世渡りも下手な武術馬鹿たちも食っていくためには仕方なかった(無論のこと流派の意地を貫いた者も存在し、公式な記録には残されていないものの血が流れた例もある)。

  しかも日本だけでなく外国の武術も研究し、才能のある武術家を留学と称して大陸などに派遣し、特に中国では義和団の乱以降、武術が規制されていたこともあって後継者不足に悩んでいた中国の武術家は史実で日本少林寺拳法の祖である宗道臣(当然彼も練武館の出身である)のように積極的に学びに来る者には比較的門戸が広かったこともあり(当然ながら中国人以外には教えないというスタンスを取っている門派もあったが中国人に化けたり袁世凱などツテのある中国高官に賄賂を含めてあらゆる手段が取られた)貪欲にその武術を学び、時に異郷の土となった者が出てもなお留学は続けられ、弟子入りした武術家の中には黄飛鴻や李書文といった伝説的な武術家も含まれているなどとまことしやかに言われていた(一説には伝説的な武術家のファンであった夢幻会の後押しがあったとも言われる)。それらの繋がりは今でも続いており旅順には北派の武術家が居を構え、福建共和国には元から福建省で広まっていた南派武術以外にも北派の武術一門が少数ではあるが移ってきており、後に奉天軍の没落による中国内陸部の荒廃により史実の台湾のように様々な武術家が伝手を頼って福建に流れてきたため福建共和国は中国拳法の見本市状態となるほどであった。
  

  そうして形作られた新たな武術は特定の流派名は持たないが軍では零式格闘術と呼ばれた。格闘とは零距離、つまり至近距離での戦闘だからとか、相手を無(零)に、つまり死に至らしめる術だからとか言われているがその命名の由来は定かではない(夢幻会では「覚悟のス○メかよ……強化外骨格とか作れねーよ!」と命名した明治の先達に叫んだが)。

  零式は軍隊格闘術であり戦場での使用を前提としているため習得が容易で合理的、実戦的であることを求められ一般的に定期的な訓練を続ければ2年もあれば素人でもヤクザくらいなら瞬殺できると言われた。素手での格闘術から小太刀術をベースにした短刀術(ナイフコンバット)、忍術をベースにした投擲術や隠密隠蔽術や追跡術など様々な技術が研鑽され、銃剣術といった史実にもある武術だけでなく、拳銃を持ったまま近接格闘を行う銃拳術(CQB)といった新しいカテゴリーの武術も誕生していった。細かい技を含めると膨大な数になるため全ての技をマスターするのは無理なために基本的な技をマスターした後は個々人の好みや教官の指導によって向いている技を選ぶのが普通だった。しかも陸軍管轄組織とはいえその指導は陸軍以外、海軍や海保向けの中国拳法南派や空手などをベースに足場の不安定な船上での格闘を前提とした武術や警察向けの合気道や柔道をベースにした捕縛術、情報部向けに諜報工作員が習得する暗器などを使う暗殺主体の武術(こちらはあくまでも裏の武術であり公式には存在しないことになっている)すら存在しているため師範クラスですら全容を理解しているのはほんの数人しかいないという有様である。

  本部にしても国井にしても史実において晩年まで武術の研究を追及していた筋金入りの武術家であり、ここでの鍛錬や研究で習得した武術によってすでに一介の空手家や剣術家というカテゴリーに入らないオールラウンダーな総合格闘家として完成に域にあるもののそれでも習得していない技があるというのだからその数がどれだけ膨大なものかわかるであろう。しかも机上の研究ではなく、海援隊や諜報部によって実際に実戦で使用され効果を確かめることでその技術を更に磨き上げるのだから実戦的どころの話ではない(一説には本部や国井も周囲が止めるのを聞かず自ら大陸に渡り実戦を経験したとも言われる)。
577. 辺境人 ◆WvgPQuc/WQ 2011/11/13(日) 22:07:07
  他にも意外なことかもしれないが零式においても精神鍛錬は重視されている。これは別に武術を極めることで人間として上等になるとかいった武道の理念とは関係なく、単に普通の精神状態で人間を撲殺できるほど人間は融通の利く生き物ではないということである。殺人へのショックは敵との距離に反比例して高まると言われ、数百kmの彼方を攻撃するミサイルも発射スイッチを押すのと眼前の敵と目を合わせてナイフで刺し殺す感触をその手に感じるのとでは受けるショックに雲泥の差がある。
  いわゆるシェルショックと呼ばれる戦闘神経症の研究も日露戦争から心理学者のフロイトへ資金援助とセットで松本亦太郎などのまだまだ草創期だった日本の心理学者を弟子入りさせることで心理学の研究を進めており精神治療と平行していかに衝撃に耐える精神を養うかという研究において決定打は見つからないものの武術が伝統的に行っている瞑想などの精神鍛錬に効果があると判断され、機械のように冷静に人を殺すなど無理ではあるにしても少しでも冷静さを保って戦えるようにするための純粋な戦闘訓練の一環として導入されていた。同時にこれは人間凶器とも言える武術家が強さのみを追い求めた挙句に人を殺すのを楽しむようになってしまっても困るという切実な問題もあった(少なくともまともな軍人なら個人の強さなどプロの戦闘集団に襲われれば何の意味も無いことは理解していたが)。


「よし、今日は楽しい楽しい焼肉の日だ。選ばれた者は用意せい。間を外したら息の根を止める前に振り飛ばされるぞ。そうなった奴は豚より弱い奴と言われるからな!」

「「「押忍!」」」

  佐賀藩の葉隠思想が元とも武専の挨拶がなまったものが元とも言われる掛け声で答え訓練生たちの中でも卒業の近い人間たちが前に出て柵で囲われた場所に入っていく。そしてそこに数頭の豚が入れられた。
  練武館の稽古はひたすら実戦的、ということに力点を置かれている。道場での稽古などはほとんど行われず足場の悪い野外や狭い室内で複数を相手どっての稽古や月の無い深夜に行われる闇稽古、森の中で追っ手を掻い潜る忍び稽古、眠っている時を狙って襲う夜討ち稽古などスポーツ化した武道とは一線を画している。怪我人など日常茶飯事であり滅多にないことではあるが重傷者や死人が出ることもある荒行であった。

  その中でも顕著なのが数ヶ月に一度(今回は短期カリキュラムのため数日に一度)行われる生きた豚を使っての稽古である。豚とはいえ生命力は強く、猪の親戚でもあるため突進をまともに受ければ怪我をしかねないため訓練生たちも油断せず間合いをつめていく。生きた豚の首をへし折る(正確には脊髄をねじ切る)ことで人間の首の折り方を練習したりナイフコンバットで生き物にナイフを突き立てる経験を積ませるというあまりにも猟奇的な訓練は世間一般には一切非公開とされていた。
  殺した豚は野生動物を現地で狩った際にその場で捌くための訓練にも使用されどの部分も余すところなく調理され訓練生たちの血肉となる。豚に限らず様々な地域で生息する食用になる動物は一通り捕らえ方や捌き方が教えられ、野鳥や蛇など様々な食材が供される。サバイバル訓練も兼ねているためゲテモノを食わされることもあるためここで訓練すれば好き嫌いなど超越して何でも食べられるようになるともっぱらの噂であった。とはいえ肉などまだまだご馳走な時代だけにこの稽古のある日は訓練生たちも腹いっぱい、しかも普通の肉が食えると喜んでいた。
578. 辺境人 ◆WvgPQuc/WQ 2011/11/13(日) 22:08:00
「ははは、国井君、訓練生に沖縄の人間がおって料理が得意だというんで今日はわしの故郷の料理を作ってくれるそうだ。ヤマトンチューにはちと食べ慣れんかもしれんがわしは楽しみでなぁ」

「子供ではあるまいに好き嫌いを言うような輩は当館にはおりませんぞ。ましてや肉を食らって身体を作るのも重要ですからな」

「それを聞いたら植芝君(※6)が気を悪くするぞ。彼は肉は苦手じゃからな」

  豚の首に腕をからませ一瞬で首の骨をへし折る、もしくはナイフを急所に刺して一撃で絶命させ、その場で軍用ナイフ一本で解体するという一般人が見たら気分を悪くしそうな光景を見ながら子供のように笑いながら話す二人。周囲の訓練生たちもそれを当然のように見ており、ここが一般社会とは別の世界なのだと如実に表していた。

  だが同時にそれはここが一般社会とは隔絶した武術家の楽園であるとも言えた。本来ならばそれなりの資産や収益を得られる組織でもない限りは鍛錬に専念できる環境などそうそう得られるものではない。本部にしろ国井にしろ本来ならそれぞれ流派の看板を背負っていてもおかしくない身でもある。史実では本部は本部流空手の創始者であり国井は鹿島神道流の第18代宗家であったが二人ともこの練武館で武術のみをひたすら追求できる環境に満足し、流派を起こしたり継いだりする気を無くしてしまっていた。
  武術の世界は基本的に排他的なものが多く、奥義や秘伝といった技術は基本的に秘匿され、時として天才が生み出した技がその排他性ゆえに伝承されることなく消えていくケースも恐らく歴史上数多あっただろう。だが、練武館では基本的には一般人への伝授は禁止されているもののその技量に応じて技を教えることをむしろ奨励しており、天才が生み出した技が他の天才たちによって練磨されるという循環が起こることで従来の閉鎖的な環境よりも数倍の早さで技が進歩するとなれば向上心のある武術家ならここを離れるというのは余程の決心が無ければ出来ないことでもある。さすがに漫画のように気を飛ばしたり秘孔を突いて破裂させたりといった非常識なことはしないものの厳しい訓練を積み実戦を重ねた特殊部隊員は無音で敵を殺せるようになり白兵戦においてもグルカ兵すら超えると言われる実力を持つようになった。

  古くは明治の嘉納治五郎が柔術を元に危険な技を捨てスポーツとしての柔道を広めたことに始まり、空手でも本部と同じ沖縄出身の空手家の船越義珍のように社会に空手を広めようとスポーツ的な武道の道を歩む者もいるし一度は練武館に所属しながらもあえて武道へと回帰し合気道を立ち上げた植芝盛平のような例もあり、むしろ数的にはそういった一般人の武道家の方が圧倒的多数派である。その一方で実戦派の極地のような練武館は圧倒的少数派であるがそれだけに軍という暴力を肯定する国家組織に抱え込まれることでより先鋭化し、こうして日本の極一部では武侠小説のような光景が現出することとなったのであった。

<完>
579. 辺境人 ◆WvgPQuc/WQ 2011/11/13(日) 22:08:41
※注1:船坂弘。言わずと知れた日本の人型決戦兵器。開戦前から軍は優秀な人間をスカウトしており、彼もまた満蒙学校在学中に予備士官制度を取得していたこともあって最優先でスカウトされた。史実より早く軍に入隊し、特殊部隊の隊員となるべく様々な訓練を受けており格闘技訓練もここで受けていた。もともと剣道などの有段者だったこともあり練武館でも極めて優秀な成績を収めたが銃や爆発物なども天賦の才を発揮したため勧誘されても格闘技教官で収まる人間ではないと思われる。

※注2:京都にある武道の指導者を育成するための大日本武徳会武道専門学校のこと。柔道の総本山とも言える講道館と並び東の講道館・西の武専と呼ばれていた。練武館を除けば一般的に日本最高の武道専門機関であり時に死者すら出る激しい稽古で知られている。講道館と武専の卒業者が練武館に就職するケースも多く、逆に練武館から講師が派遣されることもあった(あくまでスポーツレベルの教授という制限はあったが当時は剣道や柔道でも足払いや当身などが有りの組み手が存在する比較的実戦的な武道だったため史実の現代とはレベルが違った)。史実では剣道と柔道が専門だったがこちらでは空手も(投げ技や関節技もある拳法に近い)専門コースが存在する。

※3:木村政彦。史実では史上最強の柔道家として知られこちらでも柔道選手として当時から有名であり全日本選士権3連覇、天覧試合でも全試合一本勝ちし「鬼の木村」と呼ばれていた。投げ技だけでなく寝技や関節技も高専柔道と呼ばれた寝技などを主体としたスタイルを築くなど得意としており史実でも空手やボクシングを習得していた総合格闘技の元祖ともいえる存在だったこともあって軍隊格闘術の親和性も高く、この当時は関節技などのスペシャリストとして教官の一人になっていた。

※4:前田光世。史実ではコンデ・コマとしてブラジルに帰化しグレイシー柔術の始祖となったがこちらでは渡米前に練武館の依頼で海外に武術研究のため旅立ったため海外修行の成果を持って帰国、練武館の師範代の一人となるがこの年にはすでに引退している。史実では41年に内臓疾患で死亡しているが熱帯のブラジルと比べ祖国の環境が良かったのかまだ存命であり木村政彦を自分の生み出した柔術の後継者にしようとしたため木村を柔道界の宝と見ていた講道館と衝突していた。

※5:中村日出夫。武専の卒業生で京都帝大法学部出身という異色の空手家。史実では「空手に流派なし」をモットーとして特定の流派を起こさず拳道会という組織のみ設立したがこちらでは本部の直弟子として練武館で空手家のエリートコースを歩んでいる。

※6:植芝盛平。史実における合気道の創始者だがこちらでは日露戦争時に実戦に参加、退役後に練武館にスカウトされるが後に柔術をベースとした合気道の創設を勧められ投げ技だけでなく当身もありな護身術としての武道の啓蒙を行う。菜食主義者であり甘いものが好物だったという。

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最終更新:2011年12月30日 23:28