581. ひゅうが 2011/11/16(水) 17:14:17
稚泊と青函〜北の鉄道網略史〜

1、前史

――日本という国が北海道と樺太と呼ばれた大地に鉄道の建設をはじめたのは、明治維新の混乱がまだおさまりきっていない1872年のことだった。
新政府に置かれたばかりの北海道・樺太開拓使のもと、官営幌内鉄道と官営泊豊鉄道が建設されたのだ。
幌内炭鉱から産出される石炭を輸送するために設けられた前者はともかく、後者は樺太に土足で上がりこみつつあったロシアへの牽制という意味が込められていた。
ただし、日露和親条約において日露の雑居地とされた樺太であるだけにその運営には多大な配慮がなされ、駅名や案内図などは日本語とロシア語の二つが併記され、流刑を解かれたロシア人のスタッフを雇いいれて運営するなど、そのノウハウは後の満州鉄道に活かされることになる。

ともすれば北海道や一時期占領していた対馬でさえも自国の領土と主張してはばからないロシア内務省をおさえたのは、意外なことに当時のロシア皇太子であったニコライ2世だった。
幕末期以来、一貫して知日派であったニコライは、明治維新後も新政府の手厚い保護の上に成り立っていた公益法人「伊万里焼製造・開発」などに代表される幕末から明治にかけての江戸文化と西洋文化が融合したような美しい陶磁器や加賀友禅などの緻密な生地でできた手工業の精華をこよなく愛しており、それをもって「日露協商」を主張してはばからなかったのだ。ゆえに、樺太に関して日本側の先取権が事実上認められる形になった(開拓使という形で失業武士ら5万人あまりが送り込まれていたことも大きかった)のである。
そんな皇太子に皇帝アレクサンドル3世は一定の配慮を示し、日露合弁での持ち株会社「樺太鉄道」を設立し、実質的な運営は日本側に任せるという決断を下した。
同時に樺太を北緯50度線で南北に分割する代わりに択捉島以北の千島列島を日本側の領土とする「樺太・千島交換条約」が締結されることとなった。

こうして条約が発効した1875年には北方の国境は一応の安定を見、これをもって本格的な北方の開発と建設が実行に移されたのである。


2、発展

樺太開拓使と北海道開拓使が合同され、北方開発省(のちの拓務省)が設けられたのは、早くも1876年のことである。
同時に、同省の長をつとめていた黒田清輝は、進行中だった10年計画を改定し新たに20世紀の開始される1901年までに北方に300万人を移民させるといういわゆる「北方開発25年計画」をぶち上げる。
同時に、当時発見されたばかりの菱刈金山から産出される金でようやく一息ついていた明治政府の財源の15パーセントにも及ぶ巨費を用いて北方開発に投入するという提案まで行った。
さすがにこれは無理であったものの、陸海軍の提案からロシアのウラジオストクを警戒する意味での北方開発は承認され、20年以内に北海道の沿海部を網羅する鉄道を建設し、連絡船をもって大泊へと接続することが認められた。
この方針のもと道庁には「鉄道敷設局」が設けられ、本土においては欧州標準軌と狭軌が混在していた軌道はのちのシベリア鉄道との接続も視野に入れた広軌(1500ミリ)が採用された。
この決定に際して何が影響したのかは分からないが、少なくとも黒田はこれ以後北方専任の政治家としてその辣腕を振るい続け、大久保利通や伊藤博文らに中央における自らの地位を明け渡したとされている。
582. ひゅうが 2011/11/16(水) 17:15:00
1881年、黒田の腹心であった五代友厚のもとで「国営北海道鉄道株式会社(北鉄)」が誕生。
建設が進んでいた函館と札幌間を結ぶ函館本線が函館・小樽間で開業し、同時に青森と函館間を結ぶ青函連絡船の運航も開始された(東北本線との接続も考慮されていた)。
この頃は、札幌から日本海側を北上し、稚内に至る「宗谷本線」(当時は一括して宗谷本線と呼ばれていた)の建設が優先され、室蘭以東の路線については、北鉄が運航する連絡用客船を用いた「代替輸送」に頼っていた。

樺太においては、大泊から敷香までを結ぶ敷香線が建設途上にあり、沿海州沿岸の漁場へアクセスできる泊居との間の路線建設も計画されつつあった。
1894年の日清戦争以後は、ロシアとの緊張状態も手伝い、条約により鉄道警備隊以外の戦力を置いていない樺太に迅速に旭川の第7師団を輸送できるように建設が急がれ、
1896年には宗谷本線が開業。旭川から稚内までが結ばれた。
同時に、日露共用水路とされた宗谷海峡をにらむ形で港湾整備も進められた。
この年、ついに開業した東北本線と函館本線が接続され、また稚内と大泊間での鉄道輸送も開始された。青函連絡船に次ぐ北鉄のドル箱、稚泊連絡船の開業である。
1900年には、ついに念願であった道東部への展開も開始された。
すでに開業していた十勝線と釧路線が接続され、「釧路本線」と「根室本線」が開業したのである。
また、今までは手つかずだった日本海側の留萌以北とオホーツク海側の稚内・紋別・網走間においても鉄道建設が開始される。
これは、日英間で秘密裏の同盟交渉が開始されたこと、そして室蘭港に北海道としてははじめての「海軍警備府」設置と稚内港の「海軍要港部」化といった北方重視政策の一環であったとされる。

一方で、樺太鉄道は泊居と大泊間の連絡は完了したものの、肝心の北緯50度以北においてシベリア鉄道に加えて東清鉄道という鉄道建設が進行中であるためにまったく計画に着手されておらず、足踏み状態が続いていた。
そんな中、極東総督であったエヴゲーニイ・アレクセーエフは独断で北樺太への派兵を強行。
同時に、朝鮮半島北部への進駐を試み、日露戦争の引き金を引いた。

しかし、黒田ら北海道庁が心血を注いで整備していた鉄道網と船舶輸送路を用い、日本軍はロシア側がまったく想定外の速度でカムチャッカ半島を強襲。北樺太にはいきなり1個師団が出現し電撃的にこれを制圧するという成果を達成したのであった。
(なお、この時宗谷海峡の強行突破を図ったウラジオ艦隊は待ち受けていた上村中将率いる第3艦隊に迎撃され、見事な連携機雷戦により文字通り撃滅されることになる。このため、のちのバルチック艦隊は対馬海峡の強行突破を図らざるを得なくなってしまった。)


3、現状

日露戦争後、北方の鉄道網はほぼ北海道全土の沿海部を結び、旭川を拠点とした内陸ルートでの開業もあってほぼ完成の域に達している。
また、樺太鉄道に関しては日本側が賠償金の減額と引き換えに譲渡を受け、北樺太油田群との連絡ルートとしての「樺太本線」が1912年に開業。現在は間宮海峡側を走る間宮線(連絡船で尼港と連結)、そして尾波から神坂(カムチャッカ)の奥茶部(旧オクチャブリスキー)を結ぶ日本最長の鉄道連絡船経路が開業している。
現在は神坂(カムチャッカ)半島の南北を縦貫する「神坂本線」に加えて山岳地帯を横断する「神坂横断線(仮称)」の建設も計画されている。
択捉鉄道などへの連絡を担う鉄道連絡船は、海軍の砕氷艦の相次ぐ就役によって行動の容易さを増しており、自動車による交通網の構築が北方の環境により厳しい以上、今後も整備は継続されるだろう。
北海道の鉄路は、この地が北の要地であり樺太や千島へのターミナルである以上、これからも維持・整備されてゆくことになるだろう。
583. ひゅうが 2011/11/16(水) 17:20:34
【あとがき】――特定地方交通線なんて寝言を抜かすことをなくしてみたくて書いてみました。
あとついでに、広軌を採用した理由を「北海道は広いから狭軌なんていらないよ!」と理由づけ。
また時間犯罪の一環として宗谷海峡で蔚山沖海戦をやらかし、バルチック艦隊の針路を塞いでみましたw
説明文オンリーですが、楽しんでいただければ幸いです。
あと、宗谷本線のルートについてはいろいろ紆余曲折がありますのでその辺は突っ込まないでいただけると有り難く(汗)
584. ひゅうが 2011/11/16(水) 19:10:01
>>581

あくまでもearth閣下の二次創作である以上、ぼかすべきところはぼかすべきということで、勝手な表記をしたところをお詫びして訂正いたします。
同稿最後より3行目および4行目における修正としまして
「鉄道敷設局が設けられ」以後を「軌間を『広軌』に設定。最終的にはこの広軌が日本全土における標準的な軌間となった。」としたいと思います。

タグ:

鉄道
+ タグ編集
  • タグ:
  • 鉄道

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2012年01月14日 18:48