884 :ひゅうが:2012/03/20(火) 01:32:04

提督たちの憂鬱支援SS――「高木正雄」


――西暦1943(昭和18)年4月 日本帝国 帝都東京 内務省講堂


男は、希望に満ちた目で訓示を受けていた。
新規入省者を相手に訓示を行う大臣や次官たちという光景は、大正の御代の後半になってから生まれた光景だった。
いや、それ以前から訓示などはあったが内閣総理大臣も出席した全省庁合同の式典となったのはごく最近なのだ。
帝国大学や私立大学から高等文官試験に合格した人々を先頭に、中等文官試験や武官用文官試験に合格した選りすぐりの人材が集められここで官吏(公務員)としての出発の時を迎える。
そこにわずかでも連帯感が生まれてほしいという願いからはじめられたこの試みは現在のところ好評だ。

口先だけでも国の中枢にいる者たちに言葉をかけられることは「誉れ」なのだ。


「それでは、答辞。高木正雄君!!」

嶋田繁太郎首相の訓示が終わったところを見て、司会が男の名前を読み上げた。

「は!!」

最前列からきびきびした動作で演壇に登って行った時は、男の人生にとってひとつの絶頂であったと彼はのちに語る。


――男が生まれたのは、大韓帝国の貧しい農村だった。
農家の5男として生まれた彼は、そのままならばただの一農民として生を終えていたことだろう。
だが彼の運命は、村の中にある新聞社の販売所兼集会所のようなところができてから大きく変わる。
父親が科挙に合格し官吏として身を立てはじめたにも関わらず、当時の朝鮮半島ではそれは貧しさの解消にはならず、彼は父の上司の一族に小間使いのように仕えていた。
そこで彼は上司が「形だけとって後は捨てている」新聞を周囲の人々に教えられながら読み文字を覚えた。
それを聞いた新聞販売所の所長の上司(珍しいことに日本人だった)の推薦と後援を得ることで彼は漢城市内にあったブリティッシュ・スクールで学ぶことができたのだった。

885 :ひゅうが:2012/03/20(火) 01:33:24
そこで優秀な成績をおさめて後援者だった日本人の養子となった彼は、南満州ユーラシア鉄道が開設した「満州大学予科」へと入学。そのまま「満州大学」への推薦状を得ることができたのだった。
だが、二次にわたる満州事変で彼の歩みは頓挫を余儀なくされる。
奉天軍閥の軍政下にあって満州大学は民族主義者の巣窟と化していた。しかも、満鉄から日本人を追い出しつつあった米国の意向を受け彼の入学決定は覆されてしまったのだ。

そこで泣き寝入りするほど男は弱くはない。
義父の支援を丁重に断ると、日本の文部省や内閣府に東京帝国大学の入学試験受験許可を求めた手紙を書いたのだ。

当時の日本帝国は朝鮮半島からの難民の流入を警戒し、朝鮮半島出身者や大陸出身者は養子といえども一定の条件を満たさなければ日本への渡航を許していなかった。
一度受け入れれば親族ということで大量の人間が入り込んでくるためだったが、これを阻止するために「日本人学校の高等科か海外大学の卒業者、特殊技能保持者」という条件が課されていたのだ。
男が行った嘆願は、受け入れられた。
そして彼は養子としてだけではなく、日本に帰化し晴れて帝国大学に入学することができたのである。しかも入学試験の成績は4番目で。
(この段階で何を期待したのか「親族」が彼を頼って入国を厚かましくも要求してきたが彼は断固としてそれを拒否していた。)
そして卒業の時を迎えた彼が選んだのは官吏として身を立てるということだった。
こうして、男はこの演壇に立っていたのだ。




――彼は、もう一度演壇から「仲間」たちをちらと見た。
彼の前には、同窓である台湾出身の男や、樺太や神坂からはるばるやってきた志を同じくする者たちがいる。
奥には、近年はじまったTV中継を行うカメラがおり、ニュース映画用のカメラもまたいる。
会場は水を打ったように静まりかえっている。
かつて朴正煕という名だった男は、大きく息を吸い込んだ。

のちに、国外出身者としてははじめて大蔵省事務次官にのぼりつめ、「辻正信の後継者」の一人として高度経済成長期の後期を支えた男の官吏としての人生は、こうして幕を開けた。



【あとがき】――あの人どうなったかなーと思っていたら書いてしまっていました。
         辻~んと史実では有能で清廉な独裁者って親和性が高そうかなと(汗

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最終更新:2012年03月20日 21:42