603. ひゅうが 2011/11/20(日) 02:22:59
※大西洋大津波とアメリカ風邪の被害を真面目に想定してみます。


提督たちの憂鬱支援SS――連邦崩壊概観  1「大西洋大津波の被害」

――アメリカ合衆国が建国以来未曾有の国難に襲われたのは、
西暦1942年8月15日午後6時14分(東部時間)だった。
日本帝国によるアメリカ合衆国への宣戦布告の3時間あまり前に発生していたカナリア諸島ラ・パルマ島のカテゴリー6級の大噴火により大津波が発生。
この津波により、この時刻にはワシントン特別区に津波が到達。わずか数分で政府首脳と連邦議会の議員のほぼ全て、さらには政府機関のほぼ全てを喪失してしまったのである。

東海岸諸州の平均波高は22メートル強。このうちワシントンDCを襲ったものは、ポトマック川を溯上してきたものであった。
運が悪いことに、津波はチェサピーク湾の奥に至るに従って波高を増し、平均標高20メートルほどのワシントンDCに達した時点でまだ26.2メートルの高さを持っていた。
同様に、ボルチモア、アナポリスの両都市も壊滅。津波はあわや古戦場ケディスバーグを浸すところまで溯上を続けアパラチア山脈北端の鉱業都市ハリスバーグの半分を水浸しにしたところで停止した。

ほかの東部諸州と南部諸州も同様である。
政治中枢と経済中枢と工業地帯が丸ごと失われ、北米大陸は大混乱に陥りつつあった。


1、大西洋大津波の被害状況

まずは、北から被害状況をみていこう。
カナダ内陸やニューファンドランドはひとまずおいておく。
北端のメイン州は、北部のファランディー湾からノヴァスコシア半島とカナダ本土を分断した津波の反射波が襲いかかった。平均波高は18.5メートル。
しかし、溯上高は高く、北端のルベックは町丸ごとが押し流され、州都オーガスタ、ポートランドは消滅。州の3分の1が水没し、半分以上が孤立状態となっていた。
  南のニューハンプシャー州、マサチューセッツ州、ロングアイランド州は好漁場である浅い海底があだとなった上に扇型の海岸地形をもって津波を集め、ニューハンプシャー州都コンコードをはじめ4分の1が水没、マサチューセッツ州は州都ボストンとともに沿岸部と内陸の河川部から全体の半分以上を水没させていた。
ロングアイランド州に至っては州の8割近くが押し流され事実上の州消滅に至っている。
コネチカット州はコネチカット川を溯上した津波によってマサチューセッツ州内陸部にまで津波を到達させ、自らも州都ハートフォードと沿岸部という全体の3分の1を喪失していた。
  ニューヨーク州は、北米経済の中心地であったニューヨーク市を完全に壊滅させ、ロングアイランド島から住民を絶滅させたうえで、ハドソン川を津波が溯上。州都オールバニに10メートル以上の津波を届けた挙句にニューヨークステートバージ運河沿いの士らキューズまでなんと200キロ以上も津波が到達した。
被害がなかった水流もあわせると、はるかに高いオンタリオ湖にまで津波は到達していたのが分かっている。これらの結果、州の2割ほどが水没していたが、居住地域や標高も考えればその半分以上が水没していたといってもいい。
  さらに南のニュージャージー州は、州都とレントンをはじめその7割以上が水没し、内陸ペンシルバニア州との境にあるフィラデルフィアの半分以上を喪失している。
デラウエア州に至ってはウィルミントンとドーヴァーの二大都市もろとも州の8割以上が津波に押し流され、南のメリーランドの大半とワシントンDCでは二つの津波が合流し、アナポリス、ボルチモア、ワシントンDCの三大都市は文字通り消滅している。
  ヴァージニア州では、軍港都市ノーフォークと南部の重要拠点リッチモンドを失った上、複雑な海岸線からところによっては50メートル以上の波高によって沿岸の地形が変わってしまっていた。
ノースカロライナ州は沿岸のウィルミントンから内陸の州都ローリーさらにはサウスカロライナ側から遡上してきた津波と沿岸からの津波によりまだ健在な内陸部と沿岸部が分断され、ほかの州同様機能を停止。
サウスカロライナ州は沿岸都市チャールストンを喪失するも州都コロンビアはかろうじて残り、同じく残存したジョージア州の州都アトランタとならんで南部の交通を辛うじて維持し続けていた。
しかし、沿岸部である州の4割近くを水没させており、同じく3割ほどを喪失したジョージア州とともに地獄を見ていた。
南端のフロリダ州では最大波高40メートル弱で津波が襲ったために州のほぼ全てが水没。
生存者は文字通り数えるほどしかいない。
604. ひゅうが 2011/11/20(日) 02:23:35
メキシコ湾岸のアラバマ州では、沿岸部のモービルを失ったもののこちらは州都モントゴメリを辛うじて維持し、アトランタと連絡路を維持していた。
しかし、隣接するミシシッピ州は、ルイジアナ州の半分以上を飲み込んだ大津波の余波で北西部の2割ほどが冠水している。
ルイジアナ州は全体の半分ほどとニューオリンズ、バトンルージュの重要都市と湾岸油田を一気に失い、周囲を火炎地獄に変えていた。
ミシシッピ川の河川交通網はずたずたに引き裂かれている。
テキサス州は、沿岸地帯であるヒューストンとコーパスクリスティの都市機能がマヒ。全体の1割ほどが冠水状態だった。

以上をまとめると、アメリカ合衆国の総面積の5パーセント強が水没か津波に押し流されているということになる。単純被災人口はおよそ3700万人。うち1200万人あまりがこの日のうちにすでにこの世から消えているが、これは津波という災害の特殊性を物語っているといえるだろう。
また、さらに「運悪く」生き残った500万人ほどが1週間以内に孤立し、病死か餓死する運命にあった
605. ひゅうが 2011/11/20(日) 02:26:16
【あとがき】――続きもので北米大陸の状況を考察してみます。
第1弾は大西洋大津波によるアメリカの被害。次は混乱による犠牲とアメリカ風邪発生時までの予定です。
606. ひゅうが 2011/11/20(日) 10:36:41
2、初動対応と米本土陸軍組織

津波の到達時刻が日没前後であったため、アメリカ合衆国の住人達は大半が仕事場での残業か家での食事時を過ごしていた。
そのため、ある意味で被害は局限されていたといえる。
というのも、到達時刻が日中であったのなら、高台の都市圏からさらに人口が流入しており(この頃の北米東岸は都市周辺を結ぶ電車を中心にした通勤体制が完備されていた)犠牲者がさらに1000万人近く増えていたと想定されているためである。
しかし、食事時であったことは女性や子供などの迅速な避難を阻害しており、沿海部の多くの人々を家ごと海上に押し流していた。
また、調理中であった家庭も多く、津波に襲われつつも北米大陸東岸の被災地では大火災が続いていた。
これに対処すべき軍や警察の機能は文字通り消滅しており、自治の基本であった州都や郡都はことごとくが被災し、迅速な対応を不可能にしている。

州政府機能が曲がりなりにも残っていたのは東海岸においてはニューヨーク州(避難が辛うじて間に合ったオールヴァニ)とペンシルバニア州(ピッツバーグが機能を代替)、内陸のウェストバージニア州のみ。
曲がりなりにもまとまった対応を打ち出せたのは、州都機能が健在であったはるか南のサウスカロライナ州とジョージア州、アラバマ州であったが、このうちサウスカロライナ州とアラバマ州はニューヨーク州同様に自州の津波被害の確認が精一杯であった。

そのため、当時陸軍航空隊基地と大規模な連邦軍駐屯地があったジョージア州アトランタが、まず機能を維持できていた場所であった。
遠征準備中に東海岸でその兵力と司令部を喪失した陸軍第2軍、第4軍にかわり、アメリカ陸軍第1軍司令部(テキサス州フォートワース  アイゼンハワー大将指揮)がその機能を回復し、南部の残存部隊との連絡を開始したのであった。
満州で戦闘中の第3軍とは違い、訓練部隊からの練成途上にあった第1軍は内乱時の対処用に策定されていたレインボー7号「防衛(D)」計画(ホワイト計画を改訂)に則り緊急出動を下命。
8月16日午前0時をもってアメリカ東部13州および南部5州に対し軍政の布告を宣言した。

この頃になると、五大湖沿岸のイリノイ州シカゴに滞在していたジョン・ガーナーが大統領継承順位に従って臨時大統領としての宣誓を行い、第1号の時限大統領令として「東部治安出動」を下命していたために実現したことであった。
これは、五大湖沿岸の工業地帯の電力網が健在であったこと、そして欧州派兵を控えたまたまアメリカ第1軍司令部が残存していたために成し得た出来事であったといえよう。

この時点において、前日の日本による宣戦布告は議会で承認され、大統領には州軍の指揮権を与えられていた。
そのため、第1軍司令部は「アメリカ陸軍臨時総司令部(アイゼンハワー臨時元帥指揮)」と名を変え、テネシー州ナッシュビルに「臨時第1軍司令部(ロバート・アイケルバーガー大将指揮)」が設けられたうえでミシシッピ河以東の軍政を統括する権限が付与され、被害状況の調査が開始された。
同時に、カンザス州ウィチタの第1歩兵師団司令部用地には「臨時第2軍司令部(指揮  ヒューグ・A・デューン大将指揮)」が置かれ、中西部の統括を行った。
また、西海岸のロサンゼルスには「臨時第4軍司令部」が置かれたが有名無実のものだった。
これらはアイゼンハワーの獅子奮迅の活躍によって統制され、中でも臨時第1軍司令部は早くも8月16日午前に現地入りし、そのまま各々独立して被害実態の調査にあたっていた部隊の指揮を受け継いだ。
初動対応はこのようにして及第点ともいえる速さで進行していった。
607. ひゅうが 2011/11/20(日) 10:37:18
3、被害実態調査

被災地の調査には、主としてオハイオ州アクロンの海軍飛行船基地と、メンフィス、ナッシュビル、ピッツバーグの陸軍航空隊基地が使用された。
本来は大西洋用に作られた哨戒飛行船に加え、五大湖で使用されていたカタリナ飛行艇、そして陸軍のB−17爆撃機が東部めがけて飛び立っていく。
同時に、残存していたグアンタナモ海軍基地の巡洋艦と哨戒中の大西洋艦隊残存部隊との連絡がつけられ、艦載機による実態調査が開始される。
彼らの目に飛び込んできたのは、目を覆いたくなるような惨状だった。

シカゴの臨時政府とフォートワ―スの「アメリカ陸海軍臨時総司令部(海軍要員も合流しつつあったために改称)」が実態を把握しはじめたのは東部時間8月16日の昼ごろで、その頃には東部から南部にかけての沿岸は火災による黒い煙と大量の海水をかぶっているという事実が判明。その被害状況はアパラチア山脈の東とフロリダ半島全域、そしてメキシコ湾岸一帯であるということが明らかになっていた。

この時点でアイゼンハワーは、ケンタッキー、ペンシルバニア、ウェストバージニアの州軍と連邦軍を現地に急行させる決断を下す。
津波によってアトランティック・コースト鉄道をはじめとする沿岸部を結ぶ主要幹線鉄道は壊滅していたが、大陸間横断鉄道網は健在であった。
そのため、メンフィス・モントゴメリ・アトランタ・コロンビア間の「南部幹線」、
ナッシュビル・ロックスヴィル・ロアノークからワシントンDC周辺のシャーロッツヴィルにいたる「アパラチア幹線」、セントルイス・インディアナポリス・コロンバス・ピッツバーグからハリスバーグに至る「北部幹線」、シカゴ・セントルイス・メンフィス・ジャクソン間の「ミシシッピ幹線」の四つの重要幹線鉄道を臨時に接収し、全力で被災地への食糧や毛布などの輸送を開始した。

また、西海岸諸都市からは食糧を積んだ輸送船が大挙してパナマ運河へと出航。
当面は被災地であるニューオリンズへ向かい、そこからさらにミシシッピ幹線を通じて輸送された物資を東海岸へ届ける予定だった。

だが、この方針は、太平洋で開始された日米戦争によって大きく狂ってしまう。
戦争をあてこんで大量に生産されていた五大湖工業地帯の製品を急きょ東部沿岸ではなく陸上輸送路を通じて西海岸へ送らなければならなかったからだ。
ここでシカゴのガーナー大統領による第1の非情の決断が下される。

「東部の被災地を一時的に見捨て、全力でまずは兵器を西海岸へ届ける」というものがそれだ。
この間、貨車不足によって東海岸への援助物資の手配は滞り、さらには官僚組織の崩壊による作業ミスなどにより、セントルイスやシカゴには食糧その他が山積みになったという。
この間も、断続的な水蒸気爆発により発生する津波余波により東海岸諸州は打撃を受け続けており、混乱の中の1週間で辛うじて生き残っていたおよそ300万人が命を落としたとされている。
さらには軍隊が東海岸へと即時参入できる態勢になっていなかったため、ニューヨーク州やノースカロライナ州では生き残った人々が暴徒化し、結局軍が介入するまでの2週間あまりでは南部全体で40万人から50万人が死亡するか行方不明となっていた。
暴徒発生の報告を聞いたアイゼンハワーは、ニューヨーク州の州兵とペンシルバニア州兵を現地に向かわせるのだが、それが悲劇の拡大生産に繋がるとは、この時点では誰も予想だにしていなかったのでる。
608. ひゅうが 2011/11/20(日) 10:42:48
>>603-605
  の続き
>>606-608
です。

【あとがき】――このころのアメリカ鉄道網はそのピークを迎えており、今は通っていない無数の鉄道路線が張り巡らされていました。
「運よく」、テキサスで演習中だったアイゼンハワー大将とその幕僚たちは生き残り、陸軍の先輩たちを急きょ担ぎあげることで本土の組織再建がはじまります。
これらを利用して救援活動がはじまりますが、被害範囲はあまりにも広大です。
それでも州兵を指揮下におき鉄道輸送で現地へ入る米軍ですが、その動きとある決断がアメリカ風邪の悲劇を招くことになります――
が、それは次で。
609. ひゅうが 2011/11/20(日) 12:08:19
4  アメリカ風邪発生

1942年9月末時点までにアメリカ合衆国が失った人口は、およそ2000万人。
総人口1億3000万人のうち6分の1にも及ぶが、その多くがニューヨークやワシントンDC、フィラデルフィアなどの大都市居住者だった。
この大半が津波後2週間で失われ、残る300から500万人ほどは、孤立による餓死や病死などである。
これは、津波本体が巨大であったことに加えて合衆国自体が平坦で、その分海水が引くまで1カ月近い時間がかかったこと。
そして、湖沼と化した被災地において蚊や鼠などが死体(あらゆる生物の)を餌に大量発生することによって感染症が拡大したことも背景に挙げられる。
さらには軍や警察が壊滅したことで、大量の武器を手にした低所得者層や飢えた人々が暴徒と化して殺しあったことも無視できない。

この破滅的状況は、軍政の施行と食糧輸送により改善され、パナマ運河を通ってテキサスに入った輸送船団によるピストン輸送が特に東海岸で行われるようになってからは状況は好転しつつあった。
被災地でも鉄道網の復旧がはじまり、ことにオンタリオ湖を発しメイン・ニューハンプシャー・マサチューセッツを結ぶ「北東幹線」の復旧により現地で食糧不足に悩んでいた人々は快哉を叫んだという。

州政府機能がことごとく失われていたために暫定的に「東部管区」としてニューヨークとオールバニが拠点都市に選出され行政権を統括しつつあり、これは「南部管区」のアトランタとシャーロッツヴィルも同様だった。
が、ともかくも州兵をあわせた陸軍20個師団と臨時民兵たちによって治安は回復傾向にあった。

被災し、家を失った人々は、都市への受け入れが開始されたものの、数が多いために最終的には五大湖沿岸や中西部への移送が行われることになり、食糧品や燃料を運ぶ列車は折り返して貨車に人間を詰め込むようになった。
9月は、殲滅されつつある太平洋の米軍という暗いニュースはあるものの、少なくとも沿岸部の住人たちにとっては復興の足音を聞くような月だった。

だが。悪魔は倒壊した魔天楼の底から静かに姿を現すのである。


1942年10月5日、ニューヨーク市内において、ニューヨーク州兵臨時防疫給水本部が「風邪の流行」を報告。
10月8日には初の死者が確認された。
そのありようがあまりにも異様であったために特例として解剖を実施した医師は顔面蒼白になった。

「ペストだ・・・!」

咳をする風邪のような肺ペストに似た病気は、その時点でニューヨークの少なくとも3000人から5000人が罹患。
そのうち数十人は船員であり、また数十人が軍人であった。

10月12日、臨時首都シカゴに事態が報告されるや、ガーナー臨時大統領は第2の非情の決断としてニューヨーク市からの撤収と「封鎖」を決定。
「北部幹線」の折り返し便の乗客輸送停止を指示した。

フィリピン爆撃や中国大陸情勢に忙殺されていたシカゴの決断は3日遅れで、この3日の間に感染はニューヨーク市からボストン、フィラデルフィアの避難してきた人々に広まっていた。
さらに「封鎖」情報は住民に漏れ、有名無実化。
11月までに感染は北東部の6州にまで拡大。
「北部幹線」の早期封鎖に失敗しただけでなく、復旧したばかりで政府も実態を把握しきれていなかった「北東幹線」を停止できなかったこと、そしてニューヨークの港湾機能が回復したばかりで船員たちに感染が広がったこともあり、11月末までには感染は南部諸州にも拡大していた。
ことに、まとまった人口が残存したコロンビアとアトランタでは、避難してきたとみられる人々から感染が拡大し、「数日で町全体が疾病に冒され」た。
610. ひゅうが 2011/11/20(日) 12:08:56
そればかりではなく、この「アメリカ風邪」による混乱と、火山爆発により例年よりも厳しかった寒波の中さらにその他の伝染病(インフルエンザなど)も猛威を振るいはじめる。

南部から北上する一派と、北部から南下する一派が合流したサウスカロライナからヴァージニアにかけては文字通り猖獗(しょうけつ)を極め、病魔を恐れた人々は南部幹線を通りアパラチア山脈を越えて脱出を開始した。
これによりさらに感染が拡大する一方で州軍や連邦軍も機能不全を起こしはじめ、それがさらなる大混乱を巻き起こすという負のスパイラルが北米大陸を覆いつつあった。

これに対抗するには、東部の切り捨てと封じ込めしかない。
そう判断したガーナーは正しかった。しかし、あまりにも遅すぎたというべきだろう。
テキサス州の残存連邦軍部隊が阻止線を張るミシシッピ・オハイオ河線よりも東は、
1942年12月にはアメリカ風邪の汚染地帯と化していた。

既に臨時第1軍司令部はナッシュビルからテキサスへ撤退。
ハワイ沖海戦の結果により士気が崩壊した五大湖諸州州兵を集めた連邦軍臨時第2軍は半ば匪賊と化してにシカゴになだれ込もうとしている。
ミネソタ州、アイオワ州、カンザス州、オクラハマ州に展開していた連邦軍部隊は本土決戦準備のために西海岸へ移動しており、足下で発生した反連邦暴動を押さえ込むことは不可能だった。

そして、寒波が全てを閉ざした。
ニューヨーク市の東部管区政庁はトマス・デューイ知事とともに消滅。
アトランタの南部管区政庁はそれよりずっと以前に消滅していた。セントルイスやスプリングフィールドは食料を求めた市民の暴動で廃墟と化しつつあり、ルイジアナ州では有色人種と白人種が殺しあいを続けていた。

テキサス州では曲がりなりにも整った兵力が残っていたが、テキサス州政府による接収とメキシコ系住民への弾圧に狂奔し、連邦政府など知らぬふりだった。

1943年1月を迎えた時点で、政府と呼べるものを持っていたのは西海岸諸州を除けば、テキサス州、カンザス州、そしてワイオミング州だけとなっていた。
このうちカンザス州とワイオミング州は寒波と略奪者によって消滅しつつあり、テキサス州はニューメキシコとコロラドの両州を「併合」しつつあったのだが。

かくて、連邦は崩壊した。
いや、すでに崩壊していたものの、その残滓をまとめていたものが瓦解したというべきだろうか。
混沌に満たされた大地に、欧州からの「進駐軍」が到来するまでに失われた命は、最低でも4500万人にものぼる。そして、2500万人が進行形で病魔と餓えにより、春を待たずに命を終えると予測されていた――
611. ひゅうが 2011/11/20(日) 12:14:11
>>603-611
までが「連邦崩壊」です。

【あとがき】――発達した交通網と、致死性の高い病原体、そして対細菌戦能力のない部隊・・・
これだけ揃えば、あとは天候不順や不衛生な環境も手伝いこれくらいは発生し得るのが恐ろしいです。
なお、現代の北米ではこういった「パンデミック」は1週間を待たずに全土に散らばるといわれているそうです。
今回は交通の主力が鉄道網と徒歩のためにこのようなタイムスケジュールにしてみました。
最終的には、北米大陸の半分から3分の2ほどの人口(6500万〜9000万ほど?)が失われることでしょう。
想定していて背筋が何度も寒くなりました。それでは、乱文失礼しました。

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最終更新:2011年12月30日 23:52