612. ひゅうが 2011/11/22(火) 06:31:35
提督たちの憂鬱支援SS――「陸将」

――ある、男がいた。
彼は、幼少の頃、ある機械に乗せてもらって以来、その機械のとりこになっていた。
当時彼の祖国は少し前まで続いていた長く断続的な戦争の気配を色濃く残しており、誰もがその存在を前提として「それ」への批判を公言していた。
むろん、それをこの世から抹殺すべきという理由ではない。
「それ」は存在すべきであったが、その自由に制約をつけるべきだと誰もが身にしみていたのだ。

当然だった。危険な玩具を振り回したために味わった痛い目を考えればそれは必然であったといってもいい。
誰もが積極的に「それ」に関わりあいになりたがらない中、数少ない人々は半ば以上の義務感で「それ」を維持し続けていた。
それを知った時、男の生きる道は決まったといってもよかった。
そして男は、なるべくたくさんの「それ」を動かす道を選んだ。彼を乗せてでこぼこの大地を疾走したそれは、ちょうどそういった立場の人物がきびきびとした号令で全体の統率をとっていたためだった。

数年後、男は4年間の教育と、まだ色濃い「あれ」の記憶に鍛え上げられた古株の先輩たちに慇懃にしごき倒され、何とかいっぱしの立場の男になっていた。
そんな彼を評価した上司たちは、北の大地に彼を送り込んだ。
そこで彼は40年あまりを過ごすことになる。

彼に与えられたのは、世界最強を誇る鋼鉄の軍団がいつかやってくるのを待ちつつ、それらから祖国を守ることだった。
彼は、戦車指揮官だった。
真駒内という北の大地に赴任した男は、性能も数も、何もかもが足りない中でどのようにして数にして10倍――本国ではさらにその10倍もの敵がいる――の敵に対し戦い抜くか頭をしぼった。
幸い、助言者には事欠かなかった。彼の相棒として10年あまりを過ごした男は、今や地図上でも赤のたぐいで塗られるようになってしまったノモンハンという大平原で最後の「まともな」戦車戦を戦った後で灼熱の硫黄島である男爵の突撃に従ったからだった。
まったく生きていたのが不思議なほどだった。
彼は10年後にいくらかの年金と尉官への昇進をもって敬礼とともに送り出されたが、そのかわりに彼の後輩である人物を紹介してくれた。
彼もまた先達に負けない「ごっつい」男で、十年ほど前まで世界の中央を自称する大地の覇権を賭けていた争いに、一方の陣営の指導者と同門であった縁で参加し、栄光の敗北を経験した男だった。

富士山麓を職場にしていた男だったが、なにかと動かしづらい場所であるため、その実際の職場は北の大地だったのだった。
こうして、合計15年あまりを男たちや時折やってくる先輩たちと頭を悩ませ続けていた男は、気がついたときにはもうその道のプロフェッショナルになっていた。

祖国の中では彼が就職したときの空気を上っ面だけまねた連中と現状へのカウンターとしてそれを支援する連中(この頃は割合が半々だった)が徒党を組んで彼の最善を求めた提案を拒否し続けていたが、海の上の連中よりはまだマシだった。
彼は、今や500人近い部下を手足の如く使いながら、ようやく更新されることになった彼の愛馬の次回作にも積極的に関わった。

いつのまにかできていた家族は、信条をファッションか何かのようにとりかえる人々にひかえめにいってもやりすぎな虐めを受けていたが、彼と彼の伴侶の支えもあって思春期の終わりとともにそれを克服し、嬉しいことに彼と同じ道を進んでくれた。
そしてさらに5年が過ぎた頃、彼の愛馬は新しくなった。
彼はそれがすぐに気に入り、三日徹夜でその「いちばんいい使い方」の説明書を書き上げたほどだった。

さらに5年がすぎた頃、彼の祖国はもう流行に乗り遅れるなとばかりの熱気に包まれていたが、彼にとっては最も「ワクワクする」時期に入った。
祖国とそれを取り巻く世界にとっては不幸かもしれないが、彼にとってはそれは働き盛りに訪れた仕事の準備状態だった。

祖国にとっては幸いなことにそんな日々は終わり、彼は自ら手がけたさらに新しい愛馬が予想よりも少なくなることを認め、かわりに祖国の同盟国で思う存分愛馬を乗り回すことができた。
その頃には彼は5万以上の部下を持っていた。
いつのまにか10年前の彼と同じくらいに偉くなっていた息子はその労に報いようとしてくれたが、彼は断った。
愛馬を思いっきり乗り回し、かつて自分たちを侮蔑した連中を唖然とさせるくらいの技量と性能を発揮させてやれた。それだけで彼は満足したのだった。
615. ひゅうが 2011/11/22(火) 18:41:48
>>613
の修正版です。

そして、祖国が不景気という名の安定した現状維持の時代に入って10年ほどし、30年前には見られるとは思っていなかった次の世紀を見て、彼はこの世から去った・・・はずだった。



――西暦1942年8月  満州  遼陽近郊

男は、閉じていた目を開けた。
いつもの車上だ。
「死ぬ前の」彼が目標としていた最初期のモノに乗ることになったのは奇妙な気分だが、その分彼は自重せずに周辺を贅沢に固めた。

一度ならず辻という財布のひもを握った男相手に大蔵省に乗り込んだこともある。

「第2部長。敵は針路を変えていないな?」

「はい。まっすぐこちらへ向かっています。」

彼の部下が答えた。通信設備を強化した彼の乗る指揮通信車は、後方の梅津大将らが控える総司令部とほとんど不自由なく通信を維持できている。
それは、濃密な偵察網と通信網により収集された大量の情報を余すことなく受け取ることができるということだった。
極端な話、彼は1964年の米軍よりも目と耳がいいに等しい。

「では、第1挺団はこのまま進行すべきだな。第2挺団との距離は?」

「4キロを維持しております。戦車大隊ごとに交互躍進を行っています。」

「さすが飯村さん(第5軍司令)だ。支援の独立重砲連隊は所定の配置についたか?」

彼は、手元の満州の地図を見た。
日米共同経営であった満鉄が余すところなく測量を行っているうえに、植物学者や動物学者を使ったフィールドワークによって、このあたりは演習場の地理なみに詳細な地図が存在している。

「はい。通化飛行場からは3交代で直協支援機が待機。渤海湾には遣支艦隊の空母群が待機中です。」

すばらしい。
男は感嘆した。
こちらは機械化された5個師団。そのほとんどが主力戦車といっていいこの97式を装備している。
おまけに師団砲兵には15榴(15センチ榴弾砲)に速射砲を持つ連隊がつき、その後方に構築された陣地からは軍砲兵である25キロの射程を誇る艦砲なみの15K(15センチ重カノン砲)と21K(21センチ重カノン砲)をもつ独立重砲連隊が支援する。
航空支援は3個航空団が待機し、とどめは海上に1個機動艦隊。

うん。

文句なし。

祖国の機甲・機動戦力強化に尽力してきた成果がここにある。


戦車第1師団長  星野利元  帝国陸軍中将(第6軍)は満足げに頷いた。
夢幻会上層部からは敬意をこめて「陸将どの」と呼ばれる元陸上自衛隊北部方面隊司令は、かつての仇敵と同様の縦深戦術をとる味方部隊の状況を再確認し、言った。

「これよりA集団は敵部隊に対し、機甲戦闘を行う。
全車に告ぐ。目標はパットン戦車軍団。」

一拍おいて、あの日相棒が真似た硫黄島の騎兵将校のように彼は叫んだ。

「戦車、前へ!!」


――日本陸軍戦車軍団、その栄光はこうして始まった。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2011年12月31日 00:23