618. ひゅうが 2011/11/23(水) 07:25:01
支援SS――天空の大地にて

――1943年  某日  ユーラシア大陸  中央部

観音菩薩の座す地、とそこは呼ばれていた。
この地の民は熱心な仏教徒で、ヒマラヤ山脈を越えて伝来してきた経典を「原文がほぼ完全に推定できる」といわれるくらい忠実に訳し、それらを国家の中心に据えている。
それによると、彼らが仰ぎ見る山々には神々と菩薩が住み、天上には如来が住むという。

山岳信仰の存在など関係なしに、この標高4000メートルの天空の大地からさらに上にそびえる山々は雪を戴いて神々しい。
ゆえに、それら山の麓に座すいと高き仏の化身の宮殿は、彼らが最も尊ぶ釈尊の言語サンスクリット語で「ポタラカ」と、民に一番人気のある観音菩薩の名を冠したのであった。

そこに置かれている機関も、これまた人気のある弥勒菩薩――56億7千万年後に地に降り立つ未来の仏が修行を重ねている現世よりひとつ上の世界「兜卒天」の名を冠した宮におかれて以来「カンデンボタン」の名を称している。
9世紀の吐蕃以来、中華世界の干渉を排除しつつ営々と独立を維持していた仏教国家チベットの中心地はそのような場所だった。


日本的な感覚からすると少しきらびやかすぎると思われる回廊を、ひとりの男が進んでいた。男の名は、松本洋祐。
日本帝国外務省ユーラシア局中央ユーラシア課参与にして、外務省副大臣である。
彼は、漆塗りの上に菊花紋の配された紫紐の箱を捧げ持ち、モーニング姿でこの廊下を歩いていた。

すれ違う僧侶たちは、一様に松岡を見て怪訝な顔をするが、彼が持つ箱の紋章を見てなるほどと納得した様子で廊下の横で一礼した。
彼は、出立前に首相である嶋田繁太郎に言われたことを忠実に守ろうと記憶を反芻していた。
619. ひゅうが 2011/11/23(水) 07:25:35
「チベット・・・ですか?」

「そうだ。西蔵と呼ばれることが多いが、あそこは奈良時代以来存続しているチベット人の国だ。」

「しかし、歴代の中華王朝はあそこを――」

「松岡君。」

嶋田は、首相官邸の机の上で腕を組んだ。
立ったままの松岡は汗が噴き出るのを感じていた。嶋田首相がこのポーズをするときは、何か不機嫌な時や有無を言わすつもりがないことが多い。

「臣従していたら中華だというのなら、ベトナムはどうだ。琉球王国はどうだ。ああ、大韓帝国でもいいが。少なくともあそこは、チベット人の、チベット人による、チベット人の国家であったことに変わりはない。
かの元朝ですらその深遠かつ発展した仏教思想に感嘆し、侵略をあきらめ高僧を皇帝の師として迎えたほどだ。中華民国はただ地図をみて領土領土と言っているだけなのだ。」

「失言でした。閣下。」

「よろしい。君を呼んだのはほかでもない。我が国とかの国との間に国交を開く準備をはじめてもらいたい。むろん、勉強はしてもらう。そのままではダライラマ法王の前に出すわけにはいかないからな。」

「国交ですか。ということは・・・」

そうだ。と嶋田は頷く。

「華南連邦とチベット、そしてインド間の国境を画定させ、中華を称する者たちを中原に閉じ込める。」

松岡は瞬時にその意図を察した。
チベットを通じ、赤化させられそうになっている東トルキスタンへの影響力も確保。
同時にインドにつながるルートを掌握し、華南の首根っこを押さえ、これを通じて英国とのパイプも確保する。
水源を握られたうえに華南は事実上日英の友好国に囲まれることになるし、奥地で気勢を上げている蒋介石の背後も押さえられる。
何より、「強大な中華帝国」復活と漢民族の大量移住前に独立を既成事実化できるのだ。
いざとなれば、独立準備中の内蒙古と満州とも連携して中華世界をその本来の範囲にまで押しとどめられるのだ。

「帝国百年・・・いやアジアの今後1000年を決定する大仕事だ。君のような馬力のある男にしかできない仕事、期待しているよ。」




松岡は、言われた位置で止まり、直立不動になった。
玉座の周囲はきらびやかな金色と赤色で満ち、バター灯明からのむせかえるような匂いと香が混じりあい、独特の空気を作り出している。
そしてその横では、時の輪に関する理を表したという立体曼陀羅がそびえたっていた。

玉座の横にいるのは、内閣の長であるレティン・リンポチェ摂政。そしてその横には、先代のダライラマ13世の近代化によって組織されるようになった文官武官らの列がならんでいる。
そして中央の玉座に座している年若い少年こそ――

なるほど。恐れ多くも我らが陛下と同じく、この方は――


「お初にお目通りいたします。ダライラマ14世法皇猊下。
本職は東方海上の国、日本帝国より参りました松岡洋祐と申します。わが国の天皇陛下よりの親書を持ち、国交樹立の交渉のために参上つかまつりました。どうかご裁可を願い奉る次第であります。」

松岡は、礼儀だけではなく本物の敬意をこめ、頭を垂れた。



――大日本帝国とチベットの交流は、こうして開始された。
それが世界に影響をもたらすには、まだ時間が必要ではあったが、出会いが必ず双方に何かをもたらすということは、双方ともこれを確信していた、
620. ひゅうが 2011/11/23(水) 07:27:57
【あとがき】――ネタ板でチベットの話が出たのでちょこととだけ投稿しました。

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最終更新:2011年12月31日 00:29