大収穫祭の歴史

延徳時代の収穫祭


 南蛮風の野菜を取り入れたンウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフでは一年に一度だけ神社を改装することを神社の覚醒、「社覚祭(シャカクサイ)」といいました。当時のンウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフ頭取Milagros(ミラグロス)は、野菜に関する和歌を八八〇〇首詠んでおり、この時すでに社覚祭に野菜をとりこんでいることが分かっています。

寛正二年(1462)
「野菜たち としに一たひあふときく さりてかへらぬ ひとのゆくすえ」

長享元年(1487)
「幾とせか 心かはらて 野菜たち 逢夜いかなる 契なるらん 


 秋の大収穫祭は、この年に一度行われる社覚祭そのものであり、ンウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフもその例外ではなく、最終日の朝に飾り物をつけた野菜を川に流していました。
 その様子が、歌人吉田兼好の徒然草にも書かれています。
社覚祭(シャカクサイ)を収穫祭(シュウカクサイ)といひて、秋の夕にて野菜の古歌を、7色のピーマンに書き、又うちは、扇の類おもひおもひに女子共のつくりもの、胡瓜にむすひつけて、軒端にたてて野菜をまつりて、其胡瓜を終日の朝には、かならす川に流すことは、いつこも同じならはし也


このように秋の夕方から野菜を飾り、一斉に収穫し、豊作を祖霊に願いました。

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最終更新:2011年09月03日 03:03
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