115 :第三帝国:2013/01/13(日) 00:16:09

蝦夷象

象は基本熱帯ならびに温帯を生息地帯とするが、
日本では氷河期を生きのびた世にも珍しい寒帯地域にも生息する象、蝦夷像が生息している。

蝦夷像はマンモスの類縁にあたり、
全身が毛に覆われ、これは氷河期に対応したものといわれており。
当初からさほど変わらないがゆえに、氷河期の生きた化石とも呼ばれている。

本来の類型は人の狩猟や疫病、さらには気候変動。
特に氷河期末期の気温上昇でシベリアの大地は湿潤化により一年の大半は雪に覆われる不毛の大地と成り。
絶滅を余儀なくされたが、氷河期に日本大陸に渡った一部のマンモスは種として生き残る。

最盛期には近畿から北海道までの全国に生息し、
その力強い姿と猟の対象として人々に恵みをもたらすことから、古代の人々から狼、蛇に並ぶ信仰の対象として祀られた。

特に大和朝廷成立後人口の増加と狩りで消えてしまった近畿地方と違い、
長らく生きながらえた東北ならびに北海道、特にアイヌでは今でも熊と共に聖なる生き物として扱われている。

また、軍事史においても蝦夷像は世界的にも数少ない戦象として活躍している。
アテルイ率いる東北の諸民族は蝦夷像を率いて大和朝廷が誇る騎馬軍団を幾度も撃破している。
(もっとも、最終的には坂上田村麻呂が対象兵用に剣牙虎を大量に用意したためついに敗北してしまったが)

しかし騎兵と歩兵に対する象兵の優位は確かなもので、フビライ・ハンの侵攻に対しても。
剣牙虎と共に多大な戦果を挙げており、この時期からお稲荷神と並ぶ信仰の対象として持ちあがることになる。

戦国時代では東北大名たちは戦象として使うために盛んに蝦夷像を繁殖させ、
東北における戦場では象の背に銃兵や弓兵を載せた象兵が戦場を駆け抜ける。

戦国末期には3ポンド程度の青銅鋳造砲を象に乗せた象砲兵が運用され、
大阪冬の陣では豊臣軍最後の攻勢において混乱する徳川軍の中で徳川家康本陣正面に展開。
「砲身の熱を冷ますため小便を掛けた」とも当時の記録に残る程猛烈な砲撃を行い六門銭の突破を最後まで許さなかった。

やがて江戸時代となると蝦夷象を扱っていた東北大名は参勤交代で大名の神輿を象に乗せるなど、
権威の象徴として、また象鍋を始めとする食文化に貢献するなど平和の時代を甘受していた。

幕末においては、再び剣牙虎とともに戦う動物として蝦夷像は人間の戦争に動員されたが、
目立ち過ぎる外見は当初こそ期待通りの活躍をしたが、やがて旋状銃にライフル砲といったハードの進化は、
単なる的役へと堕落せしめ、後も活躍する剣牙虎とは逆に静かに戦場から消え去った。

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最終更新:2013年03月08日 21:57