705 :長月:2013/04/28(日) 20:05:36
   パンドラの函 ―或いはある提督の憂鬱―


デビットは頭を抱えていた。
理由は二つある。

一つは理解不能な事態に遭遇してしまったため。
リインカーネーション、輪廻転生という言葉を知ってはいた。
ブッディズムの用語で、人(に限らずどんな生物でも)が死んだ後、別の人物や動物に生まれ変わるという現象のことだ。
付き合いのある日本人達はごく普通に信じているようだったし、日本人の作る物語の中では頻繁に扱われていた。
手塚治虫の「火の鳥」は傑作だと思う。

だが、知っていることと信じていることは別だ。
デビットはごく一般的なクリスチャンである。
死んだ後は神の御許に召され、審判の時を待つのだと信じていた。
彼の祖国が滅んだ津波のために、「神の恩寵」に対する信仰は一時揺らいでいたものの、
後に彼の祖国が行った不実が明らかになるにつれ、あれは「神罰」だったのではないか、とある意味納得していた。
ゆえに、リインカーネーションという現象が本当に存在するとは欠片も思っていなかったし、
しかもそれが自分自身の身に起こるなどとは、完全に想像の外にあることだった。

幸いというべきか、彼が転生した相手はアメリカ人の白人で男性だったため、前世の彼と肉体的に大きな差は無い。
しかも、「前世」の記憶と「今世」の記憶の両方を持っているため、生活を送る上での不自由は無い。
だから、この現象が理解不能であることは、目を瞑ろうと思えばそうできる問題だった。

より大きな問題は、二つ目だ。
彼が転生した相手が、非常に問題だったのである。

「閣下。もうすぐ日本に到着します」
「……ああ、わかった」

副官の告げる言葉に、彼は重いため息を吐いた。
日本。
その名が、碇よりも重い錘となって、彼の心をマリアナ海溝よりも深く沈めていた。

706 :長月:2013/04/28(日) 20:06:15
デビットは前世において、米日戦争に従軍していた。
在中米軍の一員として上海防衛戦で実際に銃火を交えた経験がある。
そこで彼は悪夢を見た。

日本軍の戦闘機が、いとも簡単にP-38やP-40を撃墜していく光景を。
爆撃機の大編隊による猛爆撃を。
火力こそが戦場の神であると声高に主張するような重砲撃を。
闇夜を見透かす不可思議な装備を用いた夜襲を。
その全てを、彼自身の目で見、耳で聞き、体に刻みつけられた。
上海内周陣地を巡る戦いで捕虜になった時には、アメリカが日本を開国させたのはとんでもない過ちだったのではないかと思ったほどだ。

そして、そのまま捕虜として終戦を迎えた。
偉大だったはずの祖国は滅び、彼の故郷のカリフォルニアは日本の実質的な属国として息を永らえた。
軍歴を買われたデビットは、カリフォルニア陸軍に職を得、その後の人生は日本式の軍備をカリフォルニア軍に取り入れることに費やした。
その日々の中で、ハヤテ・ショックも、カリブ海大演習も、ヤマト・ショックも経験した。

だから彼は、日本がどのような国か、よく理解していた。
絶対に日本を敵に回してはいけない。
むしろ、積極的に味方に着けなければならない。
もしもアジア進出の際に、組む相手が中国ではなく日本だったなら……
おそらくその時は、米日同盟による世界覇権の樹立すら可能だっただろう。
大西洋の津波の被害も、日本の支援があれば、早急な立て直しが可能だったはずだ。
列強の白人たちには「パンドラの函を開けた」と非難されることの多い、日本に開国を迫ったアメリカの行動だが、
パンドラの函の底に「希望」が入っていたように、そこから得られる物もあるのだ。
今度は、同じ過ちを繰り返してはならない。

707 :長月:2013/04/28(日) 20:07:03
彼は決意を新たにすると、立ち上がり、艦長室を出て甲板へと上がった。
蒸気機関によって回転する外輪が水面を掻き、船体を前へと推し進めている。
今はまだ見えない極東の島国、日本へと。
『デビット』にとってはミシシッピ川の川船程度でしか馴染みが無かった船だが、『彼』にとってはこれが最新鋭の軍艦だ。
僚艦は三隻。
一隻は外輪式蒸気船であり、二隻は帆船だ。

水平線の向こうへと目を凝らす。
この時代の日本はまだ、幕府の統治のもと、前近代的な社会で惰眠を貪っている。
だが、彼の来訪を機にその目を覚まし、凄まじい勢いで近代化を始めるのだ。
それを彼は知っている。

しかし、彼以外のアメリカ人は、それを知らない。
だから、日本のことを未開の極東の黄色い猿、それも取るに足らないちっぽけな島国と見下しきっている。
いや、アメリカだけではない。
欧米列強の全てがそうだろう。

祖国に道を誤らせないためには、まずは最初の一歩が肝心だ。
年齢的に考えて、彼に残された時間はそれほど多くないが、それでも今後の良好な米日関係を築く礎を、彼が作らなければならない。
祖国の滅亡を回避するために。
パンドラの函を敢えて開き、そこから希望を掴み取るために。



彼、マシュー・カルブレイス・ペリーの戦いが、今、始まる。

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最終更新:2013年05月12日 22:58