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   憂鬱pedia 嶋田繁太郎

嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年9月24日 - 1976年6月7日)は、大日本帝国の軍人、政治家である。階級は元帥海軍大将。



概観

昭和時代中期の大日本帝国の総理大臣として、太平洋戦争の勝利、戦後の国際秩序の確立に大きく貢献し、日本の国際的地位を列強筆頭にまで引き上げた。日米開戦直後に起こった大西洋大津波により欧米列強が大打撃を受け、混乱する中、徒に戦火を拡大させることなく中国・アメリカのみを敵と定め、これを徹底的に撃滅した。また、戦争末期、アメリカ風邪のバイオハザードによる人類滅亡の危機が叫ばれる中、旧アメリカ合衆国内に侵攻し、防疫線を破綻させる危険を冒したメキシコに対しては、イギリス、欧州枢軸と連携して徹底的な制裁攻撃を加え、人類初の核兵器の行使を行った。これらの点から冷徹な戦略家と見られる一方で、個人としては温厚篤実な性格で部下や国民から深く慕われた。



生い立ち

旧幕臣・神官、嶋田命周の長男として東京府で生まれる。東京中学を経て、1904年、海軍兵学校32期卒業、海軍少尉候補生となる。卒業成績は191人中27番であった。在学中は特に目立つ存在ではなく、当時海軍大学校教官であった秋山真之が海軍兵学校に視察に訪れ嶋田を見出す、というエピソードは後世の創作である。同期には山本五十六・吉田善吾・塩沢幸一・堀悌吉らがいる。



海軍士官時代

1905年5月末の日本海海戦で巡洋艦「和泉」に乗り組み、偵察活動に従事。その際、敵艦の砲撃を受けて負傷。一命を取り留めたものの、しばらく入院を余儀なくされる。同期の山本五十六などは、この時を境に嶋田はどこか人が変わったようだ、と記している。

1915年、海軍大学校13期卒。同年12月13日、海軍少佐に昇進。1916年から1919年までイタリア大使館付武官を務める。このイタリア駐在中に、欧州屈指の伝統と格式を持つイタリア空軍に触れ、軍事における航空機の重要性に目覚める。軍令部に転任して帰国した後、航空機や同様に次世代の新兵器である潜水艦の、技術や運用の研究を独自に始める。これが第一次世界大戦の戦訓から航空戦、水中戦への関心を強めていた伏見宮博恭王軍令部総長の目に留まり、信任を得る。

1923年、海軍大学校の教官に就任。国際戦略や政治、海上護衛、航空といった分野の教育に力を入れ、次世代の戦争に対応できる視野の広い軍人の育成に努めた。
また、陸海軍の連携無くして勝利無し、との考えから陸軍との交流促進を図り、陸海軍合同の運動会、文化祭を企画し、実行した。後にこの合同運動会は日本軍大運動会に、合同文化祭は一般人の参加を受け入れるようになり、コミックマーケットと呼ばれる一大イベントへと発展していく。

1928年に軽巡洋艦「多摩」の艦長、次いで空母「天城」の艦長に就任。この時、嶋田は艦載機の運用に航空無線を取り入れた集団戦法を考案し、確立する。この集団戦法はその後、陸海問わず日本軍航空部隊の基本戦術となる。また、同時期に空母「赤城」の艦長に就任した山本五十六と、航空機についての議論を重ねた。これが後の航空主兵論の骨格となった。

これらの功績から、1929年、海軍少将に進級する。

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海軍将校時代

戦闘機不要論を巡り、山本五十六、大西瀧治郎、源田実などと対立。これに対し、嶋田は攻撃側の攻撃機対防御側の戦闘機による模擬空戦を行うことで決着をつけることを提案。嶋田は電探と通信を駆使したシステマティックな防空システムを構築することで、旧式の九三式戦闘機で攻撃側の九五式陸上攻撃機を全滅させた。
これにより戦闘機不要論は退けられ、戦闘機による制空権の確保こそが航空機の第一の役割として定着。戦闘機の開発に力が注がれることとなった。同時に電探と通信による哨戒網の構築と戦闘時の連携の重要性が確認され、海軍を挙げて防空体制の構築を急ぐこととなる。この動きは陸軍にも伝播した。また、以後に建造される艦船は防空力が重視されることとなった。



海軍大臣時代

1940年、近衛内閣の内閣改造により、海軍大臣に就任。なお、同時に辻正信が大蔵大臣に就任しており、この時を以って「嶋田・辻体制」の成立とする説もある。(詳細は「嶋田・辻体制」を参照)

アメリカとの対立が深まると、最悪の場合はアメリカとの戦争となることも視野に入れ、海軍内部の意思統一を図るため、米内光政を始めとする強硬な反主流派を予備役編入や左遷によって追放し、これに反発してクーデターを計った者は粛清した。これにより、嶋田を筆頭とする主流派が海軍内の完全な主導権を握った。これを嶋田人事と呼ぶ。



総理大臣就任と独裁体制成立

1942年5月25日に発生した第二次満州事変により、アメリカとの対立がさらに深化。対米戦争が不可避の情勢となると、近衛内閣は総辞職。嶋田が総理大臣に就任し、嶋田内閣が発足する。嶋田は首相と同時に海軍大臣と軍令部総長を兼任し、これにより嶋田による独裁体制が成立する。

アメリカより突きつけられたハルノートを受け、日本は対米開戦を決断。総力戦に備えた体制構築を推し進めることとなる。
御前会議にて昭和天皇より開戦の承認を得た嶋田は、天皇に当時始まったばかりだったTV放送への出演を奏上。嶋田繁太郎に対米戦争の主導権を委ねること、国民は彼に協力してこの国難に当たって欲しいとの発言が放送された。これを玉音放送と呼ぶ。

名実ともに太平洋戦争における日本の最高指導者となった嶋田は、アメリカとの国力比から長期戦になれば勝ち目は無いと判断し、短期決戦を目指すこととした。この方針に基づき、戦争に間に合わないと考えられる建艦計画は全て中止とし、戦時量産空母の建造のみに限定、余剰となった資金や資材を全て航空戦力の増強に充てた。また、これらを運用する人材が不足することから、少将の階級でも指揮官に任命できる機動戦隊という戦隊を創設。この戦隊の指揮官に任じられた少将は指揮官である間のみ中将の権限が与えられた。
また、海上保安庁と海援隊を海軍の指揮下に入れ、輸送船の護衛戦力として運用することとした。
不満の声も上がったが、嶋田はそれらに誠意ある説得で当たり、どうしても理解を得られない場合は権力を以って押し通した。

1942年8月16日、大日本帝国政府はアメリカ合衆国に対して宣戦布告。太平洋戦争が勃発する。
(詳細は「太平洋戦争」を参照)

この戦勝の功績により、1943年10月、嶋田は海軍元帥に任じられ、同時に帝国伯爵を叙爵された。

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戦後秩序の確立、独裁体制の解消

第二次世界大戦、太平洋戦争、独ソ戦争、メキシコ制裁戦争といった一連の戦争が終結し、1944年1月10日のサンタモニカ会談で戦後秩序が決定された。
これにより、欧州列強は東南アジアより撤退し、東南アジア、アラスカ、旧アメリカ西海岸、南米西海岸といった環太平洋全域を日本の勢力圏とすることを認めた。
(詳細は「サンタモニカ会談」を参照)

終戦後、嶋田はまず、対米戦争を乗り切るために自身に集約した権力を分散するため、海軍大臣に山本五十六を、軍令部総長に古賀峯一を任命した。
また、政府組織自体の再編も進め、特に巨大省庁となっていた内務省は、総務省、国土交通省、厚生労働省に分割され、また大蔵省も辻正信の敏腕のもと、職務の近接する他省庁の権限を実質的に代行している部分が多々あったため、これらを正した。

また、海軍大国であったアメリカとの戦争のために大幅に拡充された海軍艦艇を勢力圏化の国や友好国に売却し、消費した戦費の補填と軍縮による経費節減を行った。これは同時に売却先の国々の海軍を強化し、日本海軍の負担を減らすための方策でもあった。

新たに日本の勢力圏に加わった東南アジアの欧州列強の植民地であった国々に対しては、全て独立を認めた。これには反対の声も大きかったが、嶋田は「我が国に必要なのは奴隷ではなく友人である」と発言し、反対意見を退けた。各国の独立に際しては、外務省を中心に各国の独立派と綿密に連絡を取り合い、国境線の確定や民族・宗教の分立など独立後に紛争の原因となり得る要因を、可能な限り解決した。また、現地住民には自治の経験が長らく途絶えていたことを鑑み、官僚や軍人の養成機関の設立や、人材が育つまでの期間において日本からの人員派遣を決定し、実行した。
これらの措置により、東南アジアの各国はスムーズに独立を果たした。これは欧州枢軸の勢力圏となったインドが独立に際した大きな混乱を起こし、内戦にまで発展したことと対照的である。このことから嶋田は、東南アジア各国で「アジアの父」と呼ばれ、深く敬愛されている。

環太平洋地域の一応の安定を見届けた嶋田は、1948年、これ以上現役の軍人が政府首班の座を占めるのは好ましくないこと、また高齢のため巨大勢力となった日本の首相を務めるには体力的に不安があることから、総理大臣を辞任。同時に海軍を退役した。後任には近衛文麿が就任し、第二次近衛内閣が成立した。
このことから、以後日本の総理大臣の年齢は65歳までとする暗黙の了解が生まれた。



死去

総理大臣辞職後は枢密院に務めたが、1963年には高齢を理由に辞任。その後は一切の公職に就かず、1976年6月7日に死去した(満92歳)
昭和天皇自らが葬儀委員長を務め、国葬に付された。葬儀には世界中から儀礼艦が訪れ、国外から参列する者も多かった。

嶋田は生前から、死後に神格化されることを頑なに拒んでおり、一説には「俺の神社なんか立てたら、末代まで祟るぞ」とまで言ったとも言われる。結果、東郷平八郎の東郷神社に相当する「嶋田神社」が建立されることはなかった。
だが、嶋田の生家であり墓所である○○神社に詣で、嶋田に武運や出世を願う者は後を絶たず、自然発生的に神格化されているのが実情であり、この神社を「嶋田神社」と通称することも一般化している。これについては「嶋田の神社を建立したわけではなく、神社としても正式に嶋田を祀っているわけではないので問題ない」とする解釈が一般的である。

また、コミックマーケット運営委員会の名誉会長を長く務め、多くのクリエーターを輩出したことから、自筆で漫画・アニメ風の絵を描いた絵馬を奉納し、成功を祈る者も多い。また、軍人で同人誌制作を趣味とする者は、もし戦死した場合には遺作を奉納したいと生前に遺書に記している者が多い。嶋田の生前にはこれらの遺言には靖国神社に奉納したいと記されるのが通例であり、問題となっていた(詳細は「靖国同人誌問題」を参照)が、嶋田の死後は○○神社がその受け皿となったことで、この問題は自然消滅することとなった。

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評価

その業績から東郷平八郎と並び称され、「アドミラル・シマダ」の異名で呼ばれるが、提督として大規模な戦闘を指揮したことは無く、業績のほとんどは軍政家、政治家としてのものである点で東郷と異なる。
小説等では作戦指揮能力にも優れた名将であるかのように描かれることが多いが、明確な実績が無いため、その能力は評価不能である。

軍政家としては、先見性に優れ、航空主兵、戦闘機重視など、時代の最先端を行く理論で国家戦略を指導し続けた。特に電探と無線を併用し、地上または艦上の指揮所で情報を集約・処理し、密に連携を取りながら空戦を行う集団航空戦法は、それまで個人戦であった航空戦闘に革命を起こした。このことから、「航空戦隊の父」と呼ばれる。
また、航空戦隊に加えて潜水艦隊の整備を推し進め、空中・水上・水中を最大限に活用する立体戦構想を確立。これは小沢治三郎を始めとする優れた指揮官を得たこともあり、海戦のあり方を根本から変革した。

組織運営者としては、トップダウンで能動的に組織を動かしていくのではなく、組織内及び組織間の調整を行い、組織の力を最大限に引き出すことを得意とする。総理大臣就任後は独裁的な権力を一身に集めるがその方針は変わらず、独裁権力を用いて調停を行う「調整型独裁者」とでも言うべき、世界史的に見ても極めて珍しい政治家となった。また、政治的野心に乏しく、太平洋戦争の戦後処理を終えると、一切の未練を見せずに首相の座を退いたことも特筆に値する。

航空機に関して、運用だけでなく技術にも精通しており、倉崎重工や三菱重工の航空機開発に対して行ったアドバイスは細かい部品にまで及び、自身で製図を行うことすらできた。また運用面と技術面の双方に精通していたため、海軍の航空機採用に関して絶大な発言力を持っていた。



コミックマーケットとの関わり

コミックマーケットの詳細については、「コミックマーケット」を参照。

嶋田はコミックマーケットの前身である陸海軍大学校合同文化祭の発案・推進者であることから、海軍大学校から転任した後も、合同文化祭運営委員会の名誉会長を務めた。これは合同文化祭が一般参加者を受け入れて軍民合同文化祭となり、運営委員会が法人化しコミックマーケットとなっても続いた。

嶋田自身は創作活動を行うことは無かったが、これらの創作活動を好む者たちの嗜好に理解を示し、その中にあっても特殊な嗜好を持つ者についても、賛同はできなくとも容認した。このため、コミックマーケットは時代を経るにつれ、大規模化し、カバーするジャンルも広範囲化した。このことから、コミックマーケットはクリエイター達にとって最大の晴れ舞台となり、切磋琢磨の場となった。
また、嶋田は自身では創作を行わない一方で評価眼は卓越していた。コミックマーケットにおいて、嶋田が出展者の中から名前を挙げて称賛することが希にあり、非公式ながら「名誉会長特別賞」と呼ばれ、クリエイターにとって最高の名誉とされた。この名誉会長特別賞を受けたクリエイターとして、漫画家の手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、アニメーション作家の宮崎駿、押井守、富野由悠季などがおり、彼らは互いに切磋琢磨しながら漫画・アニメ文化の第一次黄金期を築いた。

これらのことから、嶋田は死後、軍神としてだけでなく、創作や出世の神としても敬われることとなる。

295 :長月:2013/05/18(土) 17:17:41
逸話

真面目で誠実かつ思いやりのある人柄で、同僚の残業に付き合うことも頻繁にあったという。そのため非常に人望があり、小沢治三郎や南雲忠一といった同年代の海軍軍人だけでなく、東郷平八郎や山本権兵衛、伏見宮博恭王などの上位者、東条英機や永田鉄山といった陸軍軍人、辻正信や阿部信行といった文官、倉崎潤一郎などの財界人、北一輝などの文化人に至るまで、幅広い人脈を持ち、いずれからも深く信頼されていた。また昭和天皇からの信任も厚かった

「天城」の艦長を務めていた頃、倉崎重工の航空機開発現場を訪問し開発担当者と議論を行った際、その見識と先見性に舌を巻いた担当者が、「もし嶋田艦長が退役されることがあれば、是非とも当社への再就職を願うべき。ただちに開発の最前線で活躍されるであろう」との報告を行ったことが、同社の社内報告書に記載されている。

山本五十六とは海軍兵学校の同期であり、交友が深く、また次世代の兵器であった航空機について深夜まで激論を交わすこともあり、互いにその見識や能力について敬意を抱いていた。戦闘機不要論を巡って一時期断交したが、後に関係を修復し、山本を海軍大臣に任命している。

普段は温厚で穏やかな性格であり、周囲に振り回されながらも調整に奔走するタイプだが、窮地に陥った際には強力なリーダーシップを発揮する。対米戦争が不可避の情勢となった際、アメリカとの国力差に絶望する周囲に対して、「道が無いなら飛べば良い。翼も無いなら道を開け」と発破をかけ、以後は強硬なまでに対米戦争を主導した。

296 :長月:2013/05/18(土) 17:20:23
以上です。
さすがにこの時代の主役()だけあって、かなり長くなってしまいました。
そして、夢幻会の内幕を知ってる人にとってはツッコミどころ満載というwww

なお、サンタモニカ会談以降に関しては完全に私の妄想であるため、
この通りにはならない可能性の方が高いことをご留意ください。

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最終更新:2013年05月29日 21:50