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   憂鬱pedia 靖国同人誌問題

日本軍の軍人の同人作家が、出陣する際に自身が戦死した場合、遺作を靖国神社に奉納してほしいと遺言した問題。軍人作家を中心とする奉納の許可を求める推進派と、神職や他の戦死者の遺族を中心とする反対派に分かれ、30年にも渡って激論が交わされた。



日本軍と同人誌

戦闘行為によって増大した凶暴性が性衝動に転化されることは古来より知られており、元来、戦争に付随して略奪や暴行が行われることは当然のことと考えられていた。一方で、そういった行為が占領後の統治に支障を及ぼすことも当然であり、政治的な配慮から厳格な軍規を持つ軍隊も存在し、特に近代以降、それらを取り締まる軍規は世界的に厳格化しつつある。

大日本帝国軍は発足当初より、世界的に見ても極めて厳格な軍規を持ち、またそれが厳守されていたことから、高潔な軍隊として評価が高かった。これは日本人のルールには従うという国民性による部分が大きいと考えられるが、日本軍の軍人も人間である以上、上記のような欲求は当然存在し、規律と欲求の鬩ぎ合いの中から、自然発生的に同人誌制作が開始されたものと考えられている。

日本軍内部で同人誌制作が行われるようになった時期については諸説あり定かではないが、印刷会社に残る注文書等から、日清戦争の頃には既に自費による出版が為されており、肉筆回覧の形ではそれより以前から行われていたものと考えられる。
時期的に『我楽多文庫』を皮切りに各種文芸同人誌が創刊された時期と符合しており、これらを模倣する形で始まった可能性が高い。

『文学界』『新思潮』『白樺』などの文人の同人誌制作が人文芸術を志した物であるのに対して、軍人の同人誌制作は上述の通り、より現実的な欲求に基づいて行われた。そのため、表現もより直接的、かつ過激なものが求められ、露骨な性描写が非常に多かった。文章よりも漫画が圧倒的多数を占めたのも、そのためである。

軍内部での同人誌制作は徐々に大規模化していき、日露戦争の頃には互いの同人誌の物々交換や金銭での取引が行われていた記録がある。こうした動きは、当然のことながら、軍の綱紀粛正の俎上に上ったが、制作者側は訓練や任務に支障を来していないこと、他者には迷惑をかけていないこと等を主張し、強硬に反発。
同人誌が軍人の性処理に貢献していたことは事実であり、極めて厳格な軍規と合わせて、性犯罪やそれに準ずる問題の抑止効果を挙げていると考えられる。統計的に見ても、日本の軍人が犯罪や問題を起こした件数は、他国の軍人と比較して非常に少ない。
こうした事実の裏付けもあったことから、伏見宮博恭王などが擁護に回り、最終的には容認された。

1923年、嶋田繁太郎が海軍大学校教官に就任し、陸海軍合同文化祭が開催されるようになると、これらの活動は急速に規模を拡大。1926年に民間人の展覧が許可され、1928年には軍民合同文化祭と改名し民間人の出展が許可されると、成人向け以外の分野も質的・量的に向上し、本職の漫画家の出展や、出展作品の商業出版なども行われるようになった。

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靖国問題

こうした動きの中で、軍人の同人作家の中に、軍人であることと同時に創作者であることに誇りを持つ者が現れ始めた。彼らは自身が戦死した際には靖国神社に祀られることを望んだが、同時に自身の作品も靖国神社に奉納されることを望むようになった。
太平洋戦争が勃発すると、当時世界最強の国家であったアメリカとの戦争ということで、戦死の可能性も高いと考えた彼らは、それを出撃前の遺書に記した。このことが、神職や戦死者遺族からの猛反発を受けることとなった。神職からは「穢れ」に相当する描写が多数含まれていること、遺族からは不謹慎、破廉恥と受け取られる描写が多数含まれていることが、特に問題とされた。
伏見宮博恭王や近衛文麿といった有力者が仲介に入り、これらの遺作を収めるための社殿を別に建立する社内分祀案などの妥協案が示されたが、嶋田繁太郎や杉山元らが「英霊達は肉体の欲求から解放された存在であり、これらの作品の奉納が彼らに喜ばれるとは考えにくい」として神社側に立ったことから、受け入れられることはなかった。
その後、太平洋戦争の戦死者の遺作は、コミックマーケット運営委員会などからの寄進によって建立された「戦没者御遺作仮社殿」に一時預かりとされ、この問題は30年にも渡って激論を交わされることとなる。なお、伏見宮や近衛などの奉納推進派だけでなく、嶋田や杉山などの奉納反対派も、「靖国への奉納には反対だが、彼らの遺作は等閑に扱って良い物ではなく、両者が最善と思える解決策が見いだされるまでは丁重に保管されるべきである」との見地から、寄進に参加している。



嶋田神社への奉納

太平洋戦争終結後も、世界情勢は完全に安定したとは言えず、海賊などとの交戦により殉職する者や、環太平洋圏の盟主として度々出兵を余儀なくされた紛争で戦死する者などがおり、戦死者御遺作は増え続け、問題はより複雑になっていった。
この問題が解決したのは、嶋田繁太郎の死去によってである。嶋田は自身の神格化を拒み、神社の建立を拒否したが、生家である○○神社が「嶋田神社」とみなされ、自然発生的に神格化されていった。嶋田は太平洋戦争勝利の功績から軍神とされるだけでなく、コミックマーケットの創始者として、また手塚治虫などの著名なクリエイターを発掘した人物として、創作の神としても敬われることとなった。
このことから、コミックマーケット運営委員会より、この嶋田神社に遺作を奉納してはどうか、との提案が為された。靖国神社奉納賛成派、反対派ともに、この案に賛同。これによって、靖国同人誌問題は解決を見ることとなる。



影響

この後、軍人の同人作家は出撃する際に、戦死した場合に遺作は嶋田神社に奉納することを遺書に記すことが通例となった。
また、生者であっても、自作の成功を祈念し、印刷所より納品された完成品の一冊目、または肉筆の原本を奉納することが通例となった。嶋田が出世の神ともされたことから、作家としての成功と画力向上を祈念し、自筆で絵を描いた絵馬を元旦に奉納するとともに、昨年の絵と比べる「絵馬比べ」も流行した。

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最終更新:2013年05月29日 22:05