502 :長月:2013/05/24(金) 16:21:36
   憂鬱pedia 山本五十六

山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 19○○年○月○日)は、大日本帝国海軍の軍人である。太平洋戦争時に遣支艦隊司令長官。戦後、海軍大臣。最終階級は海軍大将。旧姓は高野。



生い立ち

1884年4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市東坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた。
長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校を経て、1901年に海軍兵学校32期に入学。入学当時の席次は200名中2番であった。同期生に嶋田繁太郎、塩沢幸一、吉田善吾、堀悌吉などがいる。日露戦争中の1904年11月、192名中11番で卒業。
練習艦「韓崎丸」に乗船した後、1905年1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」に配属となり、5月27日の日本海海戦に参加。同年8月31日に海軍少尉に任官される。



海軍士官時代

各艦に勤務しつつ、並行して海軍砲術学校普通科学生として16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受けた。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行い、井上成美、草鹿任一、小沢治三郎、鮫島具重を指導した。1911年に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官に任命される。

1913年、海軍大学校に入学。在学中の1915年、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続し、高野五十六から山本五十六となった。1916年12月、海軍大学校を卒業。海軍省軍務局、海軍教育本部に勤めた後、1919年4月5日にアメリカに駐在。出立前に海軍兵学校の同期で行われた壮行会の席で、直前にイタリア勤務より帰国していた嶋田繁太郎より、欧米の航空機の先進性や工業技術、特に量産技術の高さを伝えられ、特によく見てくるべしとの助言を受けた。渡米し、嶋田に言われた通り、アメリカと日本の差に驚いた山本は、「少しでも多くの物を盗んで帰る」と言い、駐在中ハーバード大学に留学した。

1921年に帰国し、海軍大学校教官に就任。1923年に嶋田繁太郎が同僚となると、航空機について大いに語り合った。山本より早く海外の空軍に触れ、帰国後研究を進めていた嶋田との議論は、山本に大きな影響を与えた。
その後、海軍軍令部に転任するが、1924年、自ら願い出て航空科に転科。9月に霞ヶ浦航空隊付、12月に副長に就任すると、副長付の三和義勇から航空機の操縦を学び、搭乗経験を積んだ。

1928年に軽巡洋艦「五十鈴」艦長、次いで空母「赤城」の艦長に就任。同時期に空母「天城」の艦長に就任した嶋田繁太郎と、再び航空機についての議論を重ねた。これが後の航空主兵論の骨格となった。

503 :長月:2013/05/24(金) 16:22:06
海軍将校時代

1929年、海軍少将に昇進。ロンドン軍縮会議では対米七割を主張し、強硬に条約締結に反対し、条約派の嶋田などと激しく対立した。この後、長く友人であった嶋田と疎遠になる。結局、条約は締結され、山本は一時失意に沈んだが、立ち直り、1930年に海軍航空本部技術部長に就任すると、海軍航空隊の育成に力を注いだ。

その後、戦闘機無用論を巡り、嶋田ら戦闘機重視派と対立。模擬空戦によって決着をつけることとなり、旧式の九三式戦闘機を使いながらも電探と無線を駆使した防空システムによって運用した迎撃側に大敗。大西瀧治郎、源田実らとともに、非主流へと追いやられた。

しかし、山本はそれによって腐ることなく、戦闘機の重要性を認め、嶋田たちの唱えた理論を研究し、これを身に着けた。結果、太平洋戦争時には遣支艦隊の司令長官に任命される。戦闘機隊と攻撃機隊を分け、戦闘機隊による一次攻撃で制空権を完全に掌握し、攻撃機隊で対地攻撃を行うという見事な運用を見せ、陸軍とも完璧な連携を行い、大陸戦線の勝利に大きく貢献した。この采配には、陸軍からも大きな感謝の声が上がった。



海軍大臣時代

大陸戦線での功績から、ハワイ陥落を機に海軍大臣に任命される。この人事には海軍内部から反対の声が上がったが、嶋田は一度でも誤れば出世の道が閉ざされるというのでは人心の委縮を招くこと、巨大勢力となった日本を導くには挙国一致の体制が必要であることを理由に実施。以後、山本は広大な領域を支配するに至った日本の海軍再編成に尽力する。

この人事により、山本と嶋田は戦闘機無用論以来断交していた関係を修復したが、一方で山本は嶋田から、海軍内及び内閣内の「野党」たることを求められている意図を酌み、しばしば嶋田を始めとする海軍主流派と意見を対立させた。

19○○年、惜しまれながらも高齢を理由に退役。



死去

19○○年○月○日死去(満○○歳)国葬に賦された。葬儀委員長は既に枢密院も引退していた嶋田繁太郎が自ら願い出て務め、弔辞も嶋田が詠んだ。「我が友よ。かけがえの無い友よ」に始まり、亡き山本への敬意と感謝を率直に涙ながらに詠んだこの弔辞は、つめかけた多くの参列者を涙させた。

504 :長月:2013/05/24(金) 16:22:39
嶋田繁太郎との比較

海軍兵学校の同期である嶋田繁太郎とは、類似点が多い一方で相違点が際立っており、頻繁に比較される。

 類似点
  ・海軍兵学校の同期である。
  ・海外駐在経験があり、その際に航空機の将来性や、工業生産力の総力戦における重要性に着目している。
  ・空母艦長就任も同期である。
  ・航空主兵論者であり、航空機の開発や航空隊の育成に尽力した。
  ・軍略に優れた軍政家であり、海軍大臣を務めた。

 相違点
  ・ロンドン軍縮会議の際、嶋田は条約派に属したが、山本は艦隊派に属した。
  ・嶋田は戦闘機重視派に属したが、山本は戦闘機不要派に属した。

ほぼ同時期に航空機の重要性に目覚め、研究を開始した二人が、入手しうる資料が同程度だったと考えられるにも関わらず、後に袂を分かつほど意見を異にしたのは、技術面の知識、特に航空機そのものではなく、電探や無線などの航空戦に利用可能な周辺技術への知識の差が原因と考えられる。

戦闘機不要論が盛んに唱えられるようになった当時、九五式陸上攻撃機が開発され、その性能の高さから、戦闘機で容易に撃墜することができなかった。このことから山本は、今後、攻撃機を発展させていけば、敵の戦闘機による迎撃を掻い潜ることは容易になると考え、戦闘機の重要性は低下すると考えた。一方、嶋田はいかに攻撃機が高性能であっても、電探や無線を活用した防空網を構築することで迎撃が可能と考えた。

その原因は、嶋田が技術や理論を先行させ航空機そのものだけでなく、周辺技術に関しても積極的に情報収集を行っていたのに対し、山本は自らも航空機搭乗の経験があることもあり、航空機そのものの性能と搭乗員の技能の向上に腐心していたことがあると考えられる。そのため、嶋田は航空戦において集団戦を行う構想を持っていたが、山本の構想はあくまでも個人戦の領域を出なかった。

一方で、水上艦艇部隊に対して航空部隊の地位が低かった時期から、搭乗員に混ざって彼らを鼓舞しつつ、現場レベルで航空部隊の質量両面での向上を行ったことは山本の大きな功績であり、山本が育成した搭乗員や整備士がいなければ、嶋田の構想も机上の空論で終わった可能性が高いことは、嶋田自身も認めている。



評価

二度も派閥闘争に敗れ、海軍内の主流から外されながらも、真摯に奉職し、ついには海軍大臣にまで上り詰めたことから、「真の愛国者」と評される。

戦闘機不要論という誤った理論を提唱したとして、模擬空戦後は大いに名声を下げ、海軍の本流から外されたが、それに腐ることなく、誤りを真摯に受け止めて新理論に向き合い、これを積極的に学んで己の物として使いこなし、戦勝に大きく貢献した。そのため、一度は誤ったことが逆に高評価され、柔軟にして不屈の男と称賛された。
また、山本が前例となり、たとえ誤りを犯しても、そのことに気づいた時点で誤りを認めて考えを改めれば、再度評価を行うべし、との慣例が海軍内に生まれた。この慣例は山本の名声ゆえに陸軍や政府にも広がり、国内全体に、誤りを恐れず自説を主張すること、誤りに気付いた時に素直に認めることを尊ぶ風潮が生まれた。

軍政に長じ、特に嶋田繁太郎は山本を絶賛しており、遣支艦隊司令長官を最後の花道に退役しようとするのを、当時断交状態にあったにも関わらず、言葉を尽くして慰留した。
嶋田の後を継いで海軍大臣に就任すると、以後、退役するまで海軍大臣を務め上げ、大戦後の海軍再編を推進した。「嶋田を別格とすれば当代最高の軍政家」と称される。

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最終更新:2013年05月29日 22:08