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   憂鬱pedia 南雲忠一

南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年3月25日 - 19○○年○月○日)は大日本帝国海軍の軍人である。最終階級は海軍大将。



生い立ち

山形県米沢市信夫町出身。旧米沢藩下士南雲周蔵、志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。1908年(明治41年)、海兵36期を191人中5番の成績で卒業。海軍少尉候補生となり軍艦「宗谷」乗組。

1918年12月、海軍大学校甲種学生18期生となり、1920年、次席で卒業。同年12月に海軍大佐に昇進。
この時期にイタリアから帰国した嶋田繁太郎と個人的に親交を結んだことが知られている。



対潜戦研究

嶋田から第一次世界大戦で活躍した欧米の新兵器について聞いた南雲は、嶋田が航空機に着目したのに対して、潜水艦に着目。嶋田や山本五十六が主導し、航空機の研究が推進される中、南雲は潜水艦、特に水雷を専門に学んだ立場から、敵潜水艦の発見と迎撃の研究を行った。これは、南雲が嶋田の研究を補完しようとしたためと考えられている。

この研究のレポートには以下のような事項で盛り込まれ、非常に先進的であった。

 ・欧米でも導入されたばかりのソナーに着目し、その運用方法として艦艇搭載や飛行艇搭載、ソノブイ、吊り下げソナーなどの構想を記している。
 ・対潜哨戒航空機に要求される性能として、「低速、低空、長時間飛行」と、探査機器や航空魚雷を搭載するための「積載量」を挙げている。
 ・運用面では、レーダー、ソナー等の機器を搭載し探査を担当する「探査機」と、航空魚雷による攻撃を担当する「迎撃機」の二機を一組として運用する方式を構想しているが、探査機器の小型・高性能化に努め、将来的には一機で二役をこなせるようになることが望ましいと付記している。
 ・当時、机上の物でしかなかった回転翼機に関して、対潜哨戒分野での有望性を論じている。
 ・鉱脈探査法として研究されていた磁気探知技術を潜水艦探査に応用する方法を模索している。

これらの研究は伏見宮博恭王軍令部総長に高く評価され、以後、日本海軍の対潜戦の基礎となる。

1924年、海軍大学校の教官に就任。この時、嶋田繁太郎と同僚になり、航空機と対潜作戦という互いの得意分野に関して活発な意見交換を行った。また、共に陸海軍合同運動会、文化祭の企画・実行にあたっている。

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海上保安庁出向

1933年、第二次五か年計画の中で、運輸省に海上保安庁が創設されると、南雲は海上保安庁へ出向。これは、海上保安庁の任務は主として領海内の通商護衛や犯罪船舶の取り締まり、海難救助等とされたが、哨戒任務等において海軍と職域が重なるため、その調整や指導のが必要だったためである。南雲は積極的に両者の仲介を行い、そのバランス感覚に優れた調整者としての働きは、一部の反発はあったものの、海軍、海上保安庁双方から高く評価されている。

1936年、海上保安庁への出向から戻ると、ソナーや飛行艇の開発に携わる。特に川西航空機の九七式飛行艇の開発に深く関与した。この時に南雲によってもたらされた開発思想が菊原静男らに大きな刺激を与え、後に傑作機として有名な二式飛行艇を開発する基礎となった。



冬戦争

1939年、フィンランドとソビエト連邦の間で冬戦争が勃発すると、日本はフィンランドに対し、大規模な支援を行うことを発表。南雲は援軍として派遣される遣欧艦隊の司令官に任命された。これは、この派遣軍が新兵器のテストという目的も持っていたため、艦隊運用に優れていることに加え、技術に明るく効率的なデータ収集を計れる能力を持っていることが評価されたためである。

南雲は「浮かぶ航空工廠」と呼ばれた龍驤型航空工作艦、九六式艦上戦闘機、九七式双発戦闘機などの新兵器の能力を引き出し、大きな成果を上げた。なお、この遣欧艦隊の航空部隊は坂井三郎、笹井醇一、柴田武雄らのエースパイロットを輩出したことでも知られている。

また、仮想敵国であったドイツの勢力圏内を通過する際、駆逐艦に搭載した新型ソナーや、レーダー搭載の哨戒機によるUボートの発見を試み、大きな成果を上げていたことが当時の記録から判明している。

1940年に冬戦争が終結し、帰国すると、海軍技術会議議員に就任。冬戦争で収集したデータを基に各機器・機体の改良や哨戒任務のノウハウ、ソナー員の養成法の確立に尽力した。



太平洋戦争

対米戦争が不可避の情勢となり、嶋田内閣が発足すると、嶋田は海上保安庁と海援隊を海軍の指揮下に入れ、一括運用することを決定した。これは海上保安庁長官、海援隊総長に海軍からの出向者を就けることで実施され、南雲がこの両職を兼務した。先の海上保安庁出向の際に大きな信頼を受けていたこともあり、これによる反発はほとんど起こらず、むしろ南雲の指揮下で戦えることを喜ぶ物が多かったという。

南雲の指揮する海上保安庁、海援隊は、商船護衛、対潜哨戒を主とする航路警備任務に従事。南雲が開発を主導した探査機器や哨戒機が有効に働き、米軍の潜水艦隊による通商破壊はほとんど効果を挙げることができず、逆に捕捉・撃沈され、戦力を漸減することとなった。

648 :長月:2013/05/30(木) 00:31:16
戦後

1943年に太平洋戦争が終結し、1944年にサンタモニカ会談で戦後秩序の枠組みが決定される。これにより東南アジアが日本の勢力圏として認められ、他の列強は順次撤退することとなった。日本は東南アジアの各国を独立させることを決定。これに伴い、植民地の警備に従事していた海援隊は解体されることとなった。

一方で、これらの国々は自国の軍事組織、特に海軍が人員・装備共に未熟であり、地勢的な要因も重なり、海賊の温床となることが危惧された。そのため、各国が自国の領海警備を行える体制を整えるまでの間、日本がこれを代行することとなり、海上保安庁がその任に充てられた。

これに伴い、シンガポール島のイギリス軍基地跡地を流用する形で、日本海軍シンガポール鎮守府と海上保安庁東南アジア管区保安本部が設置された。また、この際、活動領域が大幅に拡大したこと、アメリカ風邪の防疫のために海上警備体制を強化する必要に迫られたことから、解体された海援隊隊員の大部分が、海上保安庁に再雇用されることとなった。

これらの再編成を行うに際して、戦時体制解除の一環として、海上保安庁は文民統制の原則に立ち返り、大久保武雄を長官に任命。一方で東南アジア管区の体制構築には南雲の手腕が必要とされ、南雲は出向を解かれることなく、東南アジア管区保安本部長に任命される。形式上は降格となるこの人事には、さしもの南雲も難色を示したが、嶋田や大久保の懸命の説得により、受諾した。

海上保安庁東南アジア管区保安本部長に就任した南雲は、まずは日本人によって構成される海上警備組織を構築し、列強の植民地警備の緩みから跳梁を始めていた海賊に対し、徹底的な掃滅を行った。この当時、海上保安庁は元海援隊隊員を主とする陸戦隊を保有しており、拠点を突き止めると積極的に攻勢をかけた。一方で、降伏した海賊の社会復帰にも力を入れ、外務省を通じて各国政府と協議し、海賊行為を行わなくても生活していける環境を作ることに協力を惜しまなかった。

また、併設されたシンガポール海上保安学校の校長も務め、日本の手で海上警備体制を構築する一方、東南アジア各国の海上保安庁が自立できるよう、各国の人材を集め、教育した。この功績から「海上保安庁の父」と称される。また、海上保安学校を卒業後、海上保安庁に務めた者の中から、選抜された人員がシンガポール鎮守府に併設されたシンガポール海軍学校に入学し、各国海軍の中核を担ったことから、「海軍の祖父」と呼ばれることもある。

1952年、退役。退役直前に海軍大将に昇進した。

649 :長月:2013/05/30(木) 00:31:52
評価

組織間の調整を得意としたこと、対潜戦術を一つの体系として作り上げてしまったことなどから、「嶋田繁太郎の最も忠実な弟子」と称される。自身で設計図を書き、技術論文を執筆した嶋田ほど技術に明るいわけではなかったが、前線の一兵士や前線指揮官の立場から運用を構想すること、その構想を過不足なく技術者に伝えることに長けており、自身の知識の不足を人脈で補う能力を持っていた。

世界に先駆けて系統だった対潜戦体制を築き上げた。その功績は先端技術の情報収集に始まり、構想の立案、機器の導入・開発、戦術の考案・教育、組織の構築まで、対潜戦術・戦略の全領域に及ぶ。このことから「対潜戦術の父」と呼ばれる。
水雷屋や鉄砲屋などの呼称に対応して、南雲は対潜屋と呼ばれた。

海上保安庁の設立に深く関わり、大きく貢献したことから、軍政家としても高く評価されている。国内での名声は嶋田繁太郎や山本五十六の影に隠れて目立たないが、東南アジアにおいては山本を凌ぎ、嶋田と同等かそれ以上の名声を誇る。



逸話

海上保安庁創設前より、南雲は海上警備や海難救助の分野における第一人者であり、優れた見識と能力を持っていた。海上保安庁が創設されたばかりの頃、これらノウハウの面に関して海上保安庁から南雲に相談が持ち込まれることが多々あり、海軍との調整の面でも南雲を頼ることが多かったことから、海上保安庁内では半ば公然と「困ったときの南雲様」と言われていた。

嶋田繁太郎と親交が深く、南雲は嶋田を尊敬し、嶋田は南雲を信頼していた。それぞれ航空、対潜の専門家として意見交換を頻繁に行った他、私人としての交流を深く、夜の居酒屋等で南雲が嶋田の愚痴に付き合う姿が度々目撃されている。真面目で面倒見が良く責任感の強い嶋田が、年下の相手に愚痴をこぼすのは南雲だけだったと言われている。

東南アジアの海賊の掃討を行っていた時期には、、南雲自ら、艦に乗り込み作戦を指揮することもしばしばで、その際は乗艦に海上保安庁旗と共に日章旗を掲げた。この旗を見た途端に降伏する海賊もいたと伝えられている。

「海上保安庁の父」として名高いが、退役に至るまで、正式な所属は日本海軍であった。本人も日本海軍の軍人である意識が強く、提督として艦隊を指揮して活躍することを常に強く望んでおり、またその能力もあったが、それ以上に海上保安庁の方に能力の適正があったため、その希望が叶うことはついに無かった。
そのことを嘆く発言が多数あり、「南雲の愚痴で一冊の本ができる」とまで言われ、死後、実際にそれらの発言をまとめた『南雲忠一の愚痴 ―「海保の父」の素顔―』が刊行された。これはかつての南雲の部下たちが南雲への哀悼の意を込めて共同執筆した物で、偉人として有名な南雲の極めて人間的な一面が、敬愛の念のこもった文章で綴られており、部下に深く慕われた南雲の人柄を後世に伝えている。

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最終更新:2013年09月01日 23:29