626 :高雄丸の人:2013/08/23(金) 03:21:42

ある年の夏。
軍で行われるようになった合同文化祭から発展した、今や国民的文学の祭典「国民文芸同好祭(コミック・マーケットとも)」が、
今年も開かれようとしていた。
発展元からの軍人たちや文学作家たち、さらには一般人たちによる同人作品の即売会から、出版社など様々な企業の展示スペースなど、
世界最大級のイベントとしての名に恥じない規模であり、日本のみならず世界から日本文化に影響を受けた様々な人間が集まるこの祭典は、
例年100万人規模の来場者を生む。しかし、開催日時は基本的に夏と冬の真っただ中であり、この日も気温30度を超える猛暑日となっていた。
開場を待ち、直射日光に地面からの反射光、そして周囲で同じく開場を待つ人々の熱気という3重苦の中で汗を拭きだしながら老若男女を問わず、
きれいに整列していた。
そんななか、彼らの前に一台のトラックが止まる。トラックの荷台から数名の同じ制服を着た男女が台車に積まれた何かにビンを入れていく。
そして、それが一通り終わると男が台車を押して、女性が声を上げた。
「キンキンに冷えた、コーラは如何ですか?」
ざわめいていた開場待ちの列が、一瞬静かになる。彼らは熱中症にならないよう、自宅から飲み物を持参している。しかし、この炎天下では
家でどれほど冷やしていても無駄なのはわかりきっている。そんな中で、キンキンに冷えているコーラとなれば・・・
とはいえ、この祭典という名の戦場において(趣味人としての)生死を分けるであろう弾丸(資金)をこの場で使ってしまってもいいのか、
という葛藤もまたある。
そんな中、冷たい誘惑に勝てなかった一人が、手を上げた。
「い、一本ください!」
「ありがとうございます。一本ですね」
手を上げた男性に微笑みながら、女性店員は男性店員が氷の入った水槽から取り出し、水気をふき取った一本のビンを受け取り、
それを渡した。
男はビンを受け取ると、女性店員に軽く頭を下げる。と、受け取った手とは反対の手で、軽く抜かれて被っているだけの王冠を取ると、
ビンを口元にやってグイッと一気に傾ける。
周囲にも聞こえてくるのではないかと思えるほど大きな、喉のなる音。数回それが続くと、彼は口からビンをいったん離す。すでに半分以上
減ったビンの中身だが、それでもなおビンは冷えているらしく、結露によって水滴がみずみずしく出ていた。
そんな光景を見せられて、なおも我慢できる人間は少ない。気が付けば彼のまわりから次々と注文を始める人々が現れ始めた。
そんな、毎年の夏の名物。彼女たちが売り歩くビン。その名前は「ペプシ・コーラ」という。

史実において1894年に生まれた治療薬の改良品という出自のこのジュースは、この憂鬱世界でも変わらない。第一次世界大戦ごろには
ボトリング工場を全米25州にまで擁する規模にまで拡大したが、大戦による砂糖相場の乱高下で打撃を受け、1922年に破たんする。

ここで、史実とは大きく道筋をこのペプシコーラをたどることになる。


627 :高雄丸の人:2013/08/23(金) 03:24:22


当時、ブラッドハムはコカ・コーラ社に売却を依頼したのだが、コカコーラ社を買収したばかりのアーネスト・ウッドラフは1ドルの価値もないと拒否。
そこで名乗りを上げたのが、日本企業の株式会社『壽屋』(のちのサントリー)である。
もちろん、当時根強い人種差別的思想から当初ブラッドハムは拒否したのだが、提示された額がコカコーラ社に希望した売却額を大幅に上回る
金額であり、熟考の末にフランチャイズとして壽屋にアジアにおける製造・販売権を与えるという形でまとまった。
もちろん日本側は不満があったが、これ以上の譲歩は難しいとして引き下がり協定を結ぶ。

この協定の裏に、とある憑依者が関係している。彼は1899年から葡萄酒の製造販売する鳥居商店に入社した。史実よりも5年近い速さ(史実では
1907年)で、赤玉ポートワインを生み出した彼は、大正に入るころには社内でも実力派重役として存在感を現していた。そんな彼が、1914年に輸入された
コカ・コーラに衝撃を受けた。つまり、「もうあったのか!」と。
ここで彼は一気に動き出す。社内で海外輸入品のコーラを国産化したいと会議で言い放った。とはいえ、コカ・コーラの原液製造の配分などは極秘であり、
サイダーのような比較的製造の容易なものと違って製造に手間がかかるとし、まずはアメリカなどのコーラを売る小規模企業を買収してそこでノウハウを学び、
そこから独自発展を行うという方針を打ち出した。ところが、ほかの重役たちから大きな反対を受ける。というのも、彼の生み出した赤玉ポートワインは
壽屋の主力として驚異的な売り上げを記録していたが、この背景にある多種多様な宣伝に使用した費用を埋めている途中であり、また企業としては低価格を
売りにしたビールの販売やウイスキーなど事業拡大に向けた準備を進めているため、これ以上手を広げすぎない方が良いと主張したのだ。
外国産のジュースが国内で輸入品として大きな利益を与えるより、それを国産化しようというのは国内需要供給という点で正しいが、同時に手堅く現状で準備の
進んでいる方針を変えずに経営するというのもまた正しい。話し合いはその会議のみで終わらず、さらに何日もかけて行われたが、平行線をたどる。
そしてここで、壽屋の創業者にして社長である鳥井信治郎の「やってみなはれ」の一言で、コーラ国産化に向けて一気に動き出した。当初、コカ・コーラに似せて
作られた様々な種類のコーラから選んでいた彼は、1922年にペプシコーラの経営破たんを耳にすると、ここに一気に目をかけたのだった。

こうして製造・販売権を得た壽屋だったが、彼はそこからさらに改良を行う。史実同様に、味をコーラに近づけ(というよりも、彼の知るペプシコーラの味にしたという
べきだが)、コカコーラと違って国内で製造するため関税がかからないことから価格そのものはコカコーラと同じとして、量を増やす(コカコーラ:約200mlに対して
ペプシ:250ml)とするなど、差別化を図ったのだ。

さらに、夢幻会(当時はまだその名前が正式ではなかったが)の仲介の下、三菱財閥と共同で軽食業界へと打って出る。


628 :高雄丸の人:2013/08/23(金) 03:26:52


史実のマクドナルドのように、サンドイッチ(ハンバーガーもサンドイッチの一種である)をメインとして、飲み物に壽屋が提供するという計画である。
当初から全国展開を目指していた彼や夢幻会の面々だったが、さすがに日本人に馴染みの薄いパン食は厳しいと判断。はずは親しみのある
各国外務関係者の多い霞が関、次いで外国人居留者の多い横浜で開店することとなった。
こうして開業した軽食店「霞屋」は、日本食になじみの薄い外国人に好評を得た。挟む様々な具材は開店当初から豊富にそろえ、飲み物にも壽屋が
扱うペプシコーラのほか、店内で豆を挽く本格コーヒーに各種茶葉をそろえて英国仕込みの本格的な紅茶を用意(実際、このために英国から講師を招いた)、
後味の良い烏龍茶や日本人向けにあっさりとしたほうじ茶などもそろえるなど、価格面よりも味を重視した品ぞろえである。
また、憑依者たちにとっても(味の誤差や飲み物の違いはあっても)懐かしい食べ物という事もあって、彼らが率先して食べ始めると彼らの周囲の人間も
つられていき、次第に普及。戦争の影が見え始めるころには、日本各地(といっても、それなりの規模の都市だが)で営業をするほどになった。
戦後の日本人なら日本の物を、という考えから一時衰退したものの、メインであるサンドイッチそのものは原点として古代ローマからインドのナン、
中東のピタなど欧米だけのものではない、歴史ある食べ物とPRすることで再度盛り返し、日本(およびその勢力圏)を代表する軽食(という名のファストフード)
となった。となると、最初期からこの店で出すペプシコーラもまた、高い知名度を持つようになり、気が付けば輸入品として栄えていたコカ・コーラを抜き去って
「コーラと言えばペプシコーラ」とまでの人気となったのだ。
本社のあったノースカロライナは大西洋大津波で洗い流され、その後その権利を継ぐ者もいなかったため、ペプシコーラの権利は壽屋(1933年にサントリーへ
商号変更)へ移され、その後も日本各地のみならず勢力圏へも積極的に輸出。日伊関係の緩和とともにイタリアを経由して枢軸圏へも輸出されるなど、その名は
世界へと知れ渡った。
史実冷戦時代に(デタントの影響があったとはいえ)ソビエト連邦と最初に契約し、ソ連のみならず共産圏諸国でも手に入れられる商品として世界に名を知らしめ、
コーラ戦争において勝利を収めたことを考えれば、勝者と敗者が逆転した憂鬱世界において、このジュースの存在は極めて稀な「両世界の勝者」と言えるのでは
ないだろうか・・・

おまけ

「しかし、嶋田さんはまたBLTですか。たまには季節限定の物とかは食べてみたらどうです?」
「いや。何事も無難が大事だと思いますよ、辻さん」
片手にサンドイッチ、片手にペプシのビンをもって交互に口へと運ぶ、救国の宰相と大蔵省の魔王。

今日も日本は平和である。

―終わり―

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最終更新:2013年09月02日 22:35